3章6 想像妊娠
数か月が過ぎた頃だった。
ある朝、杏里さんが急に顔をしかめて台所から戻ってきた。
「……ちょっと気持ち悪いかも」
最初は疲れかと思った。だが日を追うごとに症状は強くなり、ついには匂いにも敏感になって、食欲が不安定になった。
僕は慌ててドクターのところに連れて行った。検査結果を前に、医師は眉をひそめて言った。
「……妊娠反応は確かに出ています。けれど、子宮内には何も確認できません」
僕と杏里さんは顔を見合わせる。
「それって……どういうことなんですか?」
「いわゆる想像妊娠に近い状態です。ただし、霊的な干渉が強く関わっているように思われます」
ドクターの説明によれば、妖狐の不妊の呪いが壁となって、受精そのものが阻まれている可能性が高いという。
妊娠に似た兆候――つわりや母乳の分泌――は霊力の影響で起こっているにすぎない、と。
沈黙する僕に、杏里さんは先に口を開いた。
「……なるほど。やっぱり、そう簡単にはいかないんだね」
絶望してもおかしくない場面なのに、彼女の表情はどこか晴れやかだった。
「でもね旦那さん。これはこれで、わっちには希望だよ。妖狐の呪いが“形を変えて現れている”ってことは、きっと突破口があるはずだから」
強い瞳でそう言い切る杏里さんを前に、僕は言葉を失った。
彼女は不死身の呪いを背負い、不妊の呪いにも縛られている。それでもなお、未来を信じて微笑んでいる。
――俺は、この人の隣で、何度でも立ち上がらなきゃならない。
診察室を出たあとも、胸の重さは消えなかった。
通りのベンチに並んで腰掛けても、僕はずっと下を向いたままだった。
「……結局、俺は何もできてない。弟くんを式神にして、杏里さんに頼って、それでも結果は変わらない。子どもを望むなんて、最初から間違ってたのかもしれない」
言葉にした途端、情けなさが一層胸を締めつける。
自分の弱さが嫌になる。彼女を支えるどころか、また重荷を背負わせてしまった気がして。
けれど、杏里さんは横で小さくため息をつき、笑って肩をすくめた。
「なに言ってるの。旦那さん、わっちの前でそんな顔しないでよ」
彼女は僕の手をぎゅっと握りしめる。
「確かに、子どもは授かりものかもしれない。今は呪いに阻まれてるのかもしれない。でも、それが“終わり”の証拠にはならないでしょ?」
その瞳はまっすぐで、揺るぎなかった。
「旦那さんはね、不器用で、すぐ落ち込んで……でも、ちゃんと考えて動いてくれる。わっちはそれだけで十分幸せだよ。……子どものことは、焦らなくていいの」
僕は顔を覆い、しばらく声も出せなかった。
情けない自分を受け止めて、笑ってくれる人が隣にいる――その事実だけで、胸の奥の重さが少しずつ溶けていった。
「……杏里さん」
「なあに?」
「……ありがとう」
短く呟いたその言葉に、杏里さんは微笑みを浮かべ、僕の肩にもたれかかってきた。
「うん。こっちこそ、ありがとうね、旦那さん」
月明かりに照らされる彼女の横顔を見ながら、心の底から思った。
――俺は、何度でも立ち上がろう。この人の隣にいる限り。