瞳中の景
それは、私が今まで見た中で一番美しい瞳だった。
だけど、その瞳は――この世界のどんな美しい景色も、映すことはできない。
もしできるなら、私は彼女に「見せてあげたい」。
私の目に映る、いちばん美しい光景を。
― 瞳 side ―
天音と初めて出会ったのは、大学2年の春だった。
その日、私はスケッチブックを抱えて、空き時間にキャンパス内をぶらぶらしていた。
特に目的があったわけじゃない。ただ、どこかで静かに絵を描けたらいいなと思って。
その時だった。
かすかで幻想的な歌声が、校舎の隅から聞こえてきた。
私はその声に導かれるように歩いていった。
桜の木の下で、一人の金髪の少女が目を閉じて歌っていた。
その隣には、雪のように白い大型犬が横たわり、まるで祭壇を守る守護者のように静かに聴いていた。
その光景は、信じられないほど美しかった。
まるで映画のワンシーンに迷い込んだようで、思わず辺りを見回し、隠しカメラでもあるのか探してしまった。
今思えば、あれは本当にバカみたいだった。
職業病のように、私はスケッチブックを開いてその光景を描こうとした。
でも、鉛筆が紙を擦る音で、彼女の歌がピタリと止まってしまった。
「すみません、どなたですか?」
彼女の声は澄んでいて、透き通るようだった。
それでいて、驚くほど流暢な標準中国語に、私は数秒言葉を失った。
「え、あ……ごめん。歌声があまりにもきれいで、つい気になって近づいちゃった」
私はそう言いながら、彼女に近づいた。
「こんにちは。私は瞳、美術学科の学生。もしかして留学生さんですか?」
彼女は微笑んで首を振った。
「ううん、違うよ。外国人に見えるけど、れっきとした日本人なんだよ」
「本当?!」
「ふふ、みんなもそう驚いてたよ」
近くで見ると、彼女の美しさは一層際立っていた。
雪のように白い肌、繊細な顔立ち、まるで夢の中の人形みたいだった。
そして、彼女が顔をこちらに向け、目を開いたとき、
その瞳は、まるでクリスタルのように透き通った青色だった。
だが、その目には、光がなかった。
「え……?」
私は思わず声を漏らし、次の言葉が出なかった。
「うん、」
彼女は私の反応を読み取ったように、静かに頷いて言った。
「そう、私は見えないの。」
― 天音 side ―
瞳の第一印象は、明るくて元気な子だった。
あの日、私は盲導犬のノンノンと一緒に桜の木の下で過ごしていた。
母が少し用事で離れた隙に、私は一人で自然の音に耳を傾けていた。
そして、彼女が現れた。
彼女の声は軽やかで好奇心に満ちていて、まるで太陽の光が降り注ぐようだった。
足音も軽く、ほんのりとした柑橘の香りが漂っていて、なんだか惹きつけられるものがあった。
私はその方向に顔を向け、彼女の低い「え……?」という声を聞いた。
その瞬間、心が少し沈んだ。
人は私が見えないと知ると、だいたい二つの反応を見せる。
一つは「面倒そう」と距離を取る人。
もう一つは、興味津々に質問攻めする人。
彼女は、どっちだろう?
「そっか……じゃあ、このワンちゃん、道がわかるの?」
「うん、ノンノンはとっても賢いの。」
「わぁ、すごいね!」
彼女は興味を示しつつも、踏み込みすぎない。
同情も、距離感も、まるで感じさせない自然体だった。
その存在が、まるで救いのように感じられた。
たくさん話した。
彼女の美術の話、最近ハマってる番組や音楽、私の日常。
お互いの笑い声が、穏やかなメロディーのように心地よくて、久しぶりに「安心」という感覚を思い出させてくれた。
母が戻ってきたとき、瞳は少し緊張した様子で挨拶をした。
「お母さん、こんにちは。私、瞳っていいます。天音さんと今日お友達になりました」
「こんにちは。娘をありがとうね」
「じゃあ……天音、連絡先を交換しよう?」
「うん、ママ、お願い」
私は内心の高鳴りを必死に隠したけれど、口元の笑みは止められなかった。
「それじゃあ、またね。バイバイ!」
瞳は笑顔で私に手を振った。
― 瞳 side ―
天音と知り合っていくうちに、どんどん彼女のことが好きになっていった。
彼女はまるでクリスタルのように、純粋で透明な存在だった。
彼女はとても聞き上手で、ただ話すというより、心で「感じている」ような人。
一緒にいる時間は、いつもあっという間に過ぎていく。
最初は授業の合間、休日に少し会うだけだったのに、いつしか、ほぼ毎日、二人だけの時間ができるようになった。
ただ、一つだけ困ったことがあるとすれば、
天音がどんどんスキンシップをしてくること。
時には私の肩に寄りかかり、手を握り、さらには私の膝に頭を乗せてささやくことも。
その繊細で陶器の人形のような身体は、ほのかな香りを纏っていて、私の心を何度も揺さぶった。
「瞳、顔を触ってもいい?」
彼女は膝の上に横たわり、あの澄んだ青い瞳で私を見つめながら言った。
もう、これが彼女の癖になっていたけど、私にとっては、毎回が心臓の試練だった。
「……うん、いいよ。」
私は彼女の手を取って、自分の頬に導いた。
どうか心臓の音が聞こえていませんように、と祈りながら。
― 天音 side ―
私の世界には、映像がない。
音、触覚、匂い。それだけが頼り。
瞳の身体は陽だまりのように暖かくて、少し触れるだけでほっとする。
彼女は私の日常の細かな部分まで寄り添ってくれて、母の負担も軽くしてくれた。
彼女には、感謝の気持ちでいっぱいだし、この関係を大切にしたいと思っている。
唯一の心残りは、彼女の笑顔を見ることができないこと。
私はお願いした。顔を触らせてって。
絵を描くために少し荒れた手とは対照的に、彼女の頬はすべすべで、柔らかくて――
私はその感触にしばらく夢中になってしまった。
「そろそろ、恥ずかしくなるから……」
彼女が小声で言って、私の手をそっと下ろした。
「ふふ、瞳って本当に可愛いね」
私はそう言って、膝に顔をすり寄せた。
その温かさが、愛しくてたまらなかった。
「こら、もうやめないと、膝枕してあげないよ?」
彼女の声は、照れと優しさが入り混じっていた。
次の瞬間、私の鼻先に何かが軽く触れた。
「まったくもう~」
「ごめんなさ~い」
私は素直に膝枕に戻り、彼女が頭を優しく撫でてくれるのを感じた。
「今日はどうだった?何かあった?」
彼女の柔らかな声に、私は微笑みながら答えた。
たとえ何気ないおしゃべりでも、それが私にとって一番大切な時間だった。
― 瞳 side ―
ちょっと恥ずかしいけど……たぶん私は、もう天音のことが好きなんだと思う。
彼女も私のこと、同じように想ってくれている気がする。
でも、告白する勇気は、まだない。
だから私は、ある「贈り物」を通して、私の目に映る一番美しい景色を、彼女に“見せる”ことにした。
天音に視覚がなくても、大丈夫。
私は、別の方法でそれを伝えたい。
まず、桜の花と枝を集めた。これは「形」。
次に、実験室でアロマを研究している先輩に相談し、低温抽出法で桜の香りを残す方法を学んだ。これは「香り」。
それから、触覚。
いろいろな素材を試しながら、天音とノンノンの温もりと手触りを再現しようと頑張った。
……そろそろ、完成。
― 天音 side ―
最近、瞳はなんだか忙しそう。
会える時間が減ったし、会っても彼女の心がどこか上の空な気がして。
その空白が、思っていた以上に寂しく感じられた。
いつからだろう。
私は、彼女の存在にすっかり慣れてしまっていたんだ。
そんなある日。
「天音、来て。プレゼントがあるんだ」
そう言って、彼女は私の手を引いて、ある教室に連れて行ってくれた。
「これはね、私が見た中で一番綺麗な景色。天音に、それを贈りたいんだ」
彼女の手に導かれ、私は何かゴツゴツしたものに触れた。
「これは……?」
「私が作ったミニチュアの桜の木だよ」
彼女は嬉しそうにそう言って、その声には隠しきれない誇らしさがあった。
「これが幹で、これが枝……そして咲いている桜の花」
ほのかな香りが漂ってきた。
桜の匂い。
それに、彼女のいつもの柑橘系の香りが混ざっている。
「ここからが、本番」
彼女は私の手を取り、柔らかな素材へと導いた。
それは、人と犬の形をしていた。
「これは……?」
彼女は少し黙って、それから言った。
「これは、天音とノンノンよ」
私は言葉が出なかった。
「君と出会ったあの日、たぶん私は一生忘れないと思う。言ったことあるっけ?
君の瞳は、私が見た中で一番綺麗なんだ」
私は頬を赤らめ、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
彼女は大きく息を吸い込み、はっきりと声にした。
「天音のこと、好きです!」
その瞬間、私は耳を疑った。
「ほんとお……?」
涙が、自然に頬を伝って流れた。
私は口元を手で覆いながら、震える声で答えた。
「私も……好き」
彼女は私の手をぎゅっと握りしめ、私はその手を、同じ力で握り返した。
お互いの体温と鼓動の中で、
私たちの心は、もうずっと前からつながっていたのだと思った。
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