第二話
大学から駅へ向かう途中、八辻圭一はぽっかりと開いた地面の穴に転がり落ちた。
目を覚ました先は見たこともない森の中。気を失っていた時間は大して短くもないのか、雨で濡れた髪からはいまだに水が滴り落ちていた。
どうして、こんな場所に。ただ家に帰ろうと駅に向かっていただけだったはずだ。走っている途中に地面に穴が開いて、真っ逆さまに落ちて、それで……森の中に? どんな理論や法則でも説明できそうにない。こんなの、物語でよく見る異世界転移というやつみたいだ。
そう考えて、圭一は思わず青褪める。ありえない。ありえないけれど、どう説明をつければいいのかわからない。何か頼れる先を、と無意識に探し求めた圭一の目の前に居たのは、不機嫌そうにこちらを見下ろす壮年の男だった。
その男を一目見て、鋭利だ、と圭一は思った。キツい三白眼や、薄い頬がそう思わせるのではない。周囲にあるものすべてに敵意を向けているような男の雰囲気が、きっとそう思わせるのだ。
少し恐ろしい。彼の人相に対してではなく、本能的な畏怖を覚えて圭一は視線を逸らす。あまり関わらない方がいい人間だ、とすぐにわかったというのに、圭一が頼ることのできる人間はこの男しかいなかった。
差し出された手を取って、すぐに向けられた背におずおずとついていく。地面にぶちまけてしまった資料は回収したけれど、男が関心を示した入門書の一つは彼の手に渡ったまま返してもらえていない。
「あ、あの……」
できれば返してほしい、というか道すがら説明の一つでもしてほしい。そう思って声を掛けるが、男は振り向きもしないで厚い書物のページを捲りながら歩いている。ながら歩きで危なくないのだろうか。しかし器用に足元の悪い獣道を進んでいるのだから、随分と歩き慣れているらしい。男の足の速度について行くのに必死で、草に隠れた木の幹に突っかかっては転びそうになっている自分とは大違いだった。
「あのー、」
めげずにもう一度声を掛けてみるが、返答はない。ぺらりと紙を捲る気配がして、諦めた圭一は肩の力を抜いた。
どこへ行くかは知らないが、大人しく到着した先で尋ねるほうがよさそうだ。自分の声が聞こえているのか、無視されているのかもわからない。わからないことだらけで少し、心細い。早く帰りたいのに、と考えていれば情けないくしゃみが出て、寒さに身体がふるりと震えた。
決して気温が低いわけじゃないはずなのに、雨に濡れすぎたか。軽く鼻を啜っていればようやく男が圭一の存在に気づいたみたいに、僅かに身体がこちらを向いた。
「……なんだ、寒いのか」
「えっ、あ、いや」
「少し待て」
そう言って、男は肩に羽織っていたローブのような布地の留め具を外す。暗い色をしたそれを投げるように渡されて、驚きに肩が揺れた。
「わ」
「着ておけ。無いよりマシだろ」
「え、でも」
「風邪ひかれるよりいい」
半ば無理やりに押し付けられて、そこまで言うならと受け取るしかなくなる。肩に羽織れば見た目よりも温かくて、雨に濡れた寒さも多少は紛れる気がした。
「……ありがとう、ございます」
「ああ」
素っ気ない声が前を向く。強面な見た目に反して、案外やさしいのかもしれない。そう思ったのは、ついて行くのがやっとだった男の足の速度が緩まったことに気づいたからだった。
「あの、」
今度こそ話ができるかもしれない。そう思って声を掛ければ、なんだ、と低い声が返ってくる。聞きたいことはいくつも思いついたけれど、どれから聞けばいいのかを迷って、口内で言葉がまごついた。
「こ、こは、どこなんですか」
ようやく絞り出した情けない声音に、ちらりと男の視線が向く。鋭い三白眼が自分を向くと、やましいことがなくとも責められているような気がして身が竦む。父や教授よりもよっぽど怖い。自然と視線を下げたが、男がそれに気づいたのかはわからなかった。
「王都の外れにある森だ。モンヒルと呼ばれることもあるが、人は殆ど住んでない」
「……王都?」
「ああ。エルヴァリー王国。知ってるか」
いや、と呟くように答えれば、わかっていたとばかりに頷かれる。戸惑うことしかできずに黙り込んでいれば、男は歩みを止めないままに言葉を続けた。
「ここは、恐らくお前がいたのとは違う世界だ。俺たちの国では、お前みたいなやつを『渡り人』と呼ぶ。世界と世界を渡る人間、の意だな」
「え?」
「二十年ほど前から、お前らみたいな人間が落ちてくるようになった。理由はわからん、元の世界に戻す方法も、まだ不明だ。しかし、渡り人は大概国益のために活躍する」
男の口調は滑らかで、まるで教科書の内容でも諳んじているようだ。こっちは一つも話についていけていないというのに、男の足も言葉も留まることを知らなかった。
「だから渡り人は、見つけた人間が保護することが決まっている。居住地等も保証はされるから、あまり心配することはない。……他に聞きたいことはあるか」
「え……と、聞きたいこともなにも、よく、理解できないんですけど」
「……一度で飲み込めとは言わんが、二度は説明しねえからな」
突き放すようにため息を吐き出される。冷たいのかやさしいのかよくわからないが、何も知らない圭一の質問に答えてくれるぐらいの温情はあるのだろう。ぐるぐると思考をめぐる疑問を宥めながら、とりあえず、と圭一は前を歩く男との距離を少し詰める。
「じゃあその、名前を、聞いても良いですか」
「あ?」
「あ、あなたの、名前」
不機嫌そうな返事に若干臆しながら続ければ、ああ、と頷かれる。名乗っていなかったことを、ようやく気づいたような返事だった。
「グレン。お前は?」
「あ、圭一です。八辻圭一」
「ケーイチ? 呼びづらいな」
西洋風の名前ばかりが語られるから、発音にないのだろうか。そう思ってから、不思議とこの男と言葉が通じていることに気づく。圭一は普段通り日本語を話しているつもりだけれど、この世界の言葉が日本語とも思えない。何か得体のしれない力でも働いているのか、と思ったが、わからないことが多すぎるから思考するのは一旦やめにした。
「つまり、グレン……さんが、しばらく俺の面倒を見てくれる、ってことですか」
「不本意だがな。渡り人を放置したと知られれば、最悪禁固刑だ」
「えっ」
思ったよりも罰則が厳しい。それほど渡り人とやらがもたらす利益が重視されているのだろうか。自分にそんな特別な能力があるなんて思えないけれど。自分が知っていることなんて、専攻する分野の研究内容ぐらいだ。
そう思ってから、圭一はちらりとグレンの手の中にある書物を見る。さっきから熱心に眺めていた様子を思い出して、思わず口を開いていた。
「……グレンさんは、その本に関心があるんですか」
問えば、グレンがこちらを振り向く。ずっと圭一に対してどうでもいいみたいな振る舞いだったくせに、ようやく明確な関心を向けられたみたいだった。
「これは、お前が書いたのか?」
「え、いや、まさか」
「じゃあ、内容はわかるのか」
「それは、そうですね。俺が専攻している研究ですから」
頷いた途端に、ぱたりとグレンの足が止まる。つられて圭一も足を止めれば、グレンの黒い瞳が自分を見下ろすのにどきりとした。
「……お前の、専攻は?」
「ど、動物学、ですけど」
「……なるほどな」
何か、合点がいったみたいに頷いたグレンに、腕を掴まれて圭一はたたらを踏む。そのまま急かすみたいに歩き出されて、圭一は情けない声を上げながら足を進めることしかできない。
「ちょ、まっ、グレンさん!」
「お前が俺の前に落ちてきた理由がわかったな」
「え?」
「俺の専門は動物――というより、魔物だがな。力を貸せ。お前の知識が必要だ」
「えっ」
――魔物? というかじゃあ、この人も、研究者?
驚いて視線を上げた途端、木々に囲まれていた視界が広く開ける。グレンに引きずられるようにして辿り着いたその場所には、一階建ての古い家屋が佇んでいた。