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第一話

 ――ああもう、最悪だ!


 大粒の雨が肌を打って痛い。こんな土砂降りになるだなんて、朝のニュースでは知らせてくれなかった。晴れのち曇り。降水確率二十パーセント。どうしてたったの二割を引き当てるんだと内心で悪態をつきながら、八辻圭一(やつじけいいち)は降り注ぐ雨から庇うようにリュックサックを抱き締めた。


 こんなことなら、今日は研究室に泊まってしまえばよかった。それとも、陽が落ちた頃に切り上げて帰るべきだっただろうか。没頭すると時間を忘れるのは悪い癖だ。いつの間にか研究室の人間が帰宅していたことだって、殆ど気づいていなかった。

 ぐう、と情けなく腹の虫が鳴く。そういや晩御飯も食べ損ねたんだっけ。コンビニにでも寄りたいけれど、終電が近い。今はとりあえず走るしかないかと諦めて、圭一は水を蹴るようにして駅に走った。


 バシャバシャと鳴る足元の水音が耳にうるさい。それなのに雨音以外は殆ど何も聞こえない夜半の空気は、まるでここに自分しかいないみたいに孤独を誘う。嫌だな。肌を射るような孤独感は、圭一の何より苦手とするものだ。

 無意識にカバンを強く抱きしめて、圭一は睫毛に乗った雫を払う。前が見づらいと視線を上げれば駅を照らす眩い光が視界に飛び込んできて、思わず安堵の息が漏れた。


 あと少し。幸いにも電車は間に合いそうだ。気が緩んで駆ける足が緩んだその瞬間、踏みしめる地面の感覚が、――唐突に途絶えたような気がした。


「っ、え」


 がく、と身体が前に傾く。転ぶ、とそう思って目を固く瞑った途端、ふわりと股を透くような浮遊感に頓狂な声が出た。


「わ、あああああ!?」


 ジェットコースタ―で上から落ちるときと同じようなあの感覚。落ちてる、どこに、と混乱するまま奈落に墜落していく衝撃に、圭一の意識は暗転して消えていた。


 ***


『渡り人の保護及び安全管理に関する条約

 一つ、渡り人はその身の安全・自由を保障される権利を有する。

 二つ、渡り人と遭遇した者はその権利を保障するため、衣食住が定まるまでその身を保護する義務を持つ。

 三つ、渡り人の身元の保証人となったものは、その身分に問わず国家より補助金を受ける権利を有する。』


 第何十条までかあるクソッたるい法律の、肝要な部分を要約すれば確かそんなことを書いてあるはずだ。


 グレンがそれを思い出したのは、空から落ちてきた男の下敷きになってからだった。

 渡り人。安全保障。保護。権利。……要するに、面倒ごと。一生のうちで一番関わりたくないと思っていたというのに、不運は唐突に降り注いでくるものだ。


 どっぷりと闇に浸かった帰路を辿っていたら何もない空間から落ちてきた男、見たことのない衣服、荷物。状況から考えても、渡り人に間違いない。この世界とは異なる世界からやってくる異世界人に遭遇する確率は決して高くはないはずなのに、どうしてよりによって自分の前に現れるのだ。


 鋭く舌を打って、グレンは自分の上に乗った男の身体を転がして起き上がる。何故だかずぶ濡れだった青年のせいで、こっちまで濡れてしまった。最悪だ。法なんて知ったことかと腰を上げようとした瞬間、呻く男の声にそれを阻まれた。


「うう……、ここは……、――あっ!」


 戸惑ったように瞳を開いた男が、声を上げた途端にがばりと身を起こす。驚いて思わず肩を揺らしたグレンにも気づくことなく、男は濡れた鞄らしきそれを開いて中身を地面にぶちまけた。


「し、資料っ、やばい、濡れて……!?」


 バサバサと鞄の中から出てきたのは、厚い書物や紙束の類だ。暗闇の中、確かめるように地面の上で転がして中身を確認した男は、濡れていないと判断したのかホッと息を吐き出した。


「よ、よかった……、て、え、ここ、なに、俺、えっ?」


 ようやく、自分の置かれている状況に思考が至ったらしい。動揺の声を溢した男が顔を上げると同時に、大きな瞳と視線がぶつかる。どこからか光を拾って瞬いて見える黒い瞳に、随分若いな、とそう思った。


 まだアカデミーで研究生を努めていてもおかしくはない。自分より二十は下に見える。つまり子供も同然だ。グレンは何より子供が嫌いだった。


 思わず眉根を寄せたグレンに気づいたのか、男の顔色が僅かに青くなって怯えるように視線を逸らされる。人の顔を見て青褪めるとはなんとも失礼だが、自分の人相が悪いことぐらいはこの年まで生きていれば流石にわかる。さっさとこの場を後にするべきか、とグレンは息を吐き出した。


 くだらない法律か何かなど、グレンの知ったことではない。自分が見捨てることでこの渡り人がどうなろうと、――たとえそこらの魔物に喰い尽くされたとて、グレンには関係のないことだ。面倒ごとを背負い込むのは御免だし、法に触れていたって知るものがいなければ発覚することもない。


 なにより、自分のような身の上の人間に助けられる方が、この男にとっては不幸なことだ。


 そう考えて逸らした目線は、自然と男がぶちまけた書物を捉えていた。解読できない記号が大きく並べられた表紙には、見覚えのある動物も、見たことのない動物も描かれている。早くここから立ち去らなければ。そうわかっていたというのに思わず手を伸ばして紙を捲ったのは、職業病のようなものだ。


「え、あ、あの……」


 戸惑う男の声など耳に入らない。

 一枚、二枚と軽く捲るが、文字列らしき記号は読み解けない。ただ、そこに記された図面だけで十分だった。


「……これは、お前の世界のものか」

「え、えっと、世界……?」

「……そうか」


 本を手に取ったまま、グレンは腰を上げる。訳がわからないとばかりにポカンとこちらを見つめている間抜け面に、仕方がないと手を差し出した。


「そのままじゃ風邪を引く。ついてこい、説明はそこでしてやる」


 黒々とした大きな瞳が、戸惑うように瞬きをする。おずおずと重ねられた手のひらは濡れていて、心細さを示すみたいに冷え切っていた。


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