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零界を旅する一般人  作者: 獏麒


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40. 観測と祈りの果てに


 塔の光が完全に沈んだあと、残ったのは、微かに響く風の音だけだった。

 さっきまで荒れ狂っていた暴風は嘘のように止み、今はただ、塔の壁面を撫でるように流れている。

 まるで塔そのものが、長い眠りのあとに小さく息をしているようだった。


 イリスが杖を下ろし、静かな声で言う。

「……祈りって、干渉なんですね。理に届く願い、っていうより――触れてしまう行為なんだ」


 カイトは魔導板を閉じながら頷いた。

「祈りは“観測”に近い。理を見ようとするだけで、世界は少しだけ形を変える。

 ヘルダム・シンでは観測が理を安定させたけど、ここでは――祈りが理を動かしていた」


 イリスは小さく息を吐いた。

「観測することが、理に干渉する第一歩……。

 それを制御するために、精霊がいたんですね」


「そうだ。精霊は理の翻訳者――文字通り、人と理の“通訳”だった。

 人が祈っても、直接理に届かないように、ちょうどいい距離で言葉を翻訳していた」

 ジェイジーが腕を組み、低く言う。

「つまり通訳抜きで話しかけようとしてるのが教授ってわけだ。

 そりゃ、誤訳もすりゃ、話が通じねぇのも当然だ」


 カイトは小さく笑った。

「それでも、教授は話しかけるんだろうな。

 理解できないなら、理解できるまで観測し続ける――あの人は、そういう人ですから」


 イリスは壁に刻まれた古代文字を指でなぞる。

 淡い光がその動きに反応し、ほのかに揺れた。

「祈りが理に届くように、理もまた人に語っていた。

 精霊はその翻訳者であり、両者の“緩衝材”――人を守る盾でもあった」


 ジェイジーが鼻で笑う。

「その盾も壊れかけだ。

 坊、嬢ちゃん、もし理が暴れりゃ、今度は誰が風よけになるんだ?」


 答えは誰も持っていなかった。

 塔の中心――デミウスのいた場所で、淡く残る光が呼吸のように瞬いている。


「……それでも、誰かが見続けなきゃいけない。

 理は観測されることで、初めて“存在”になる。

 それが、俺たち観測者の役目なんだと思う」


 イリスは静かに頷く。

「教授の研究も、その延長線上なんですね。本心はわかりませんが、精霊を介さず理と対話する――つまり、人が初めて“直接祈る”ための方法」


 カイトはしばらく沈黙し、それからゆっくりと言葉を選ぶ。

「でも、直接祈ることは、危うい。

 強すぎる祈りは、理を変革させ歪ませる。

 そしてその隙間から、“上層”――神々の意志が入り込む」


「神々の……」

 イリスが小さく息を呑む。

 カイトは目を閉じ、続けた。

「祈りが理を通して届く限りは安全なんだ。

 けど、理を越えて“願い”を直に投げた瞬間、神々の声が流れ込む。

 それは、祈りの形をした“干渉”だ」


 ジェイジーが低く笑った。

「神の裁きってやつだな」


 塔の奥を吹き抜ける風が、彼の言葉をかき消すように鳴った。

 その風には、どこか人の声に似た響きがあった。


「……それでも、祈りをやめるわけにはいかない」

 カイトの声は穏やかで、しかし強かった。

「祈りをやめたら、理は人を見失う。

 世界は、誰にも観測されなくなる」


「観測されない理は、存在できない」

 イリスが静かに続ける。

「祈りが“理の再定義”であるなら、

 人が祈り続けることこそ、世界が続く理由なんですね」


 ジェイジーは肩をすくめた。

「理に祈って、理に見られて、

 互いに“お前が世界だ”って言い合ってる。

 ……皮肉なもんだな」


 カイトは微笑み、ゆっくりと魔導板を閉じた。

「皮肉でも、それでいい。

 祈りとは、理を壊すことでも従えることでもない。

 ただ、世界と呼吸を合わせること――」


 イリスがその言葉を聞きながら、そっと目を閉じた。

 その表情には、安らぎのようなものが浮かんでいる。


 外では、閉ざされていた空がわずかに裂け、

 一筋の風が塔の天井を抜けていった。

 それはまるで塔自身が彼らの言葉に応えるように、

 静かに息を吹き返したかのようだった。


「……聞いたか?」

 ジェイジーがぼそりと呟く。

「風が、返事したように聞こえたぞ」

「ええ。たぶん……理も、聞いてたんです」

 イリスの声は、どこか祈るように柔らかかった。


 塔の奥では、青白い光がかすかに瞬く。

 それは、観測者たちの会話を聞いて

 微笑んでいるかのように見えた。


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