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零界を旅する一般人  作者: 獏麒


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33/51

33. 書架の森にて


 昼下がりのアーカム・ネリア。

 学園通りを抜けると、石畳の先に小さな商店街が広がっていた。

 魔導具店や紙屋、そしてカフェが並ぶ通りには、研究者と学生が行き交い、穏やかな風が吹き抜けている。


「この時間帯は本屋が空いてるんですよ」

 イリスが軽やかに歩きながら振り返る。

「昼食後の学生は大体寝てるか、図書棟にこもってますから」

「……それは教授にも当てはまるな」

「間違いなく。その筆頭ですね」


 二人の笑い声が、通りの陽だまりに溶けていく。


 やがて辿り着いたのは、〈書架の森〉と呼ばれる大きな書店だった。

 天井まで届く棚が並び、古書と魔導書の香りが入り混じる。

 魔法の光球が棚の上を漂い、読者の視線を柔らかく照らしている。


「おぉ……本当に“森”だな」

「ここ、噂では教授が学生の頃から通ってるらしいですよ。誰も教授の年齢を知らないんですけどね。店主さんともすごい古い顔なじみで。」

「つまり、教授の未払いが溜まってるパターンか?」

「……たぶん」


 その瞬間、店の奥から低く張った声が響いた。

「ふん、あたしの店ではツケなんて許してないよ」


 白銀の髪を揺らしながら、ゆっくりと姿を現したのは一人の女店主。

 尖った耳と、わずかな皺を刻んだ、しかし年齢を感じさせない美しい顔立ち――老エルフだった。


「あははは……すみません」

 気まずそうに苦笑いをするイリスとカイト。


 イリスは棚をすり抜けるように歩き、ある一冊を取り上げた。

 古代言語で書かれた、理論魔導の書。

「これ、ヘルダム・シンの碑文と似てる書式なんです。解析に使えるかもしれません」

 彼女の指先が、ページの刻印をなぞる。

 その仕草がどこか儀式めいていて、カイトは無意識に息を潜めた。


「……文字って、祈りに似てるよな」

 カイトがぽつりと言うと、イリスは目を瞬かせた。

「祈り、ですか?」

「あぁ。言葉を通して“理”へ触れようとする。

 たとえば教授は理を分解して理解しようとするし、イリスは言葉の形から理を感じ取ろうとする。

 でもどっちも、世界に対して“こうあってほしい”って語りかけてる気がするんだ」


 イリスは少し考え、静かに笑った。

「面白いですね。学問も、祈りも、理を安定させる手段……」

「つまり、教授も祈ってるってことだな」

「うわ、想像つかない」

 二人は吹き出した。


 本を選び終え、外に出ると、午後の風が通りを包んでいた。

 イリスは腕に抱えた書籍を抱き直しながら言う。

「次、あっちのカフェ行きましょう。教授が『唯一、味覚が死なない店』って言ってたところです」

「……それ、褒めてるのか貶してるのかどっちだ」

「両方です」


 カフェ〈ミネルヴァ〉のテラス席で、カイトは湯気の立つ紅茶を口にした。

 イリスは隣でノートを開き、買ったばかりの本をまとめている。

 街のざわめきが遠くに溶けていく午後。

 ヘルダム・シンで見た青白い光が、ふと脳裏をよぎった。


「ねぇ、イリス」

「はい?」

「理って、俺たちが観測するたびに少しずつ“形”を変えるんだろ?

 もしそうなら、君が書いてるノートも、世界の形を変えてるのかもな」

 イリスはペン先を止め、わずかに微笑んだ。

「なら、優しい形に変わってくれるといいですね」


 柔らかな風がページをめくり、陽の光が二人の間にこぼれる。

 穏やかな午後の時間が、ゆっくりと流れていった。

 ――その静けさの奥で、世界はまたひとつ、形を変えようとしていた。

読んでくださりありがとうございます。

次回もよろしくお願いします


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