32. 研究室と眠り姫
無事にトマトジュースのふりをした劇薬を購入したカイトは、研究室に届けに一度、大学へ戻ることにした。
店員から「ぜひ試飲を!」と三度勧められたが、丁重に断った。
――あれを飲んだら命が危ない、と直感が告げていたからだ。
「教授ー? 買ってきましたよー?」
通い慣れた研究棟の廊下を抜け、古びた扉を開ける。
中は相変わらずのカオス。机の上には書きかけの論文、魔導器、乾きかけたトマトジュースの瓶。
しかし、肝心の教授――エリカの姿はどこにもなかった。
代わりに目に入ったのは、くたびれたソファに突っ伏して眠るイリスの姿だった。
白衣の袖から覗く腕には、インクの跡。机には資料と魔導板が散らばっている。
寝息は規則的で、完全に力尽きた様子だった。
「……お疲れ様です、イリスさん」
カイトは苦笑しながら、そっと机の上の資料を整えた。
その拍子に紙が一枚、床に滑り落ちる。拾い上げてみると、それは〈ヘルダム・シン〉で得た魔力波動の解析結果だった。
イリスの几帳面な文字で、何かの数式が途中まで書き込まれている。
彼女もまた、“理を観測する側”に立っている――その姿に、どこか親しみを覚えた。
「寝落ちするまで働くとか……教授の悪いとこ、完全にうつってるよな」
呟いたその時、イリスが小さく身じろぎをした。
ゆっくりと目を開け、ぼんやりとカイトを見上げる。
「……あれ、カイト君? 夢じゃないですよね?」
「夢ならもうちょっと片付いた研究室が出てくると思うよ」
「……それは否定できませんね……カイト君⁉︎」
イリスは寝顔を見られ、恥ずかしそうに俯きつつ、手元の資料を抱え直した。
寝癖のついた髪を整えながら、彼女はカップの中を見つめて首を傾げる。
「そのカップ……まさか教授のトマトジュース?」
「そう。買ってきたけど、これどう見てもジュースの領域を越えてるよな」
「飲んでみました? ……前に私、味見したことありますけど、視界が赤くなりました」
「もうそれ飲み物じゃないだろ」
二人で顔を見合わせ、苦笑がこぼれた。
やがてイリスはストレッチをしながら言った。
「せっかく来てくれたなら、ちょっと休憩しましょうか。教授、今日は講義で外に出てるはずです」
「珍しい……あの教授が外出?」
「学部生向けの特別講義ですよ。ちゃんと大学の教授ですから。たまには講義もしないと、〈古代文明における精霊理論の非依存構造〉とかいう長い題名の」
「寝るやつだ」
「はい、私も寝ました」
そんな軽口を交わしながら、イリスは立ち上がった。
頬にまだ寝跡が残っているのが可笑しくて、カイトは少し笑う。
「もう、そんなに笑わないでください! ……ちょっと顔、洗ってきます!」
しばらくして戻ってきたイリスは、すっきりした顔で言った。
「それで、カイト君。買い物とか終わったなら時間あります?」
「まぁ、教授の届け物も済んだし、今日は暇だな」
「なら……せっかくなので街を歩きませんか? 新しい資料の仕入れも兼ねて」
「資料の仕入れ? 本屋とか?」
「正解です。あと、カフェで休憩。おごりますよ?」
イリスは微笑みながら、研究室の窓を開けた。
涼やかな風が吹き込み、紙束を揺らす。
カイトは手にした瓶を棚に置き、肩をすくめた。
「……まぁ、毒物も届けたし、次は普通の飲み物でも飲みに行くか。お疲れ様も兼ねて、俺が出すよ」
イリスは少し目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えますね」
二人は笑い合いながら研究室を後にした。
外では、大学の鐘がゆっくりと昼を告げていた。
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