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零界を旅する一般人  作者: 獏麒


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32/51

32. 研究室と眠り姫


 無事にトマトジュースのふりをした劇薬を購入したカイトは、研究室に届けに一度、大学へ戻ることにした。

 店員から「ぜひ試飲を!」と三度勧められたが、丁重に断った。

 ――あれを飲んだら命が危ない、と直感が告げていたからだ。


「教授ー? 買ってきましたよー?」


 通い慣れた研究棟の廊下を抜け、古びた扉を開ける。

 中は相変わらずのカオス。机の上には書きかけの論文、魔導器、乾きかけたトマトジュースの瓶。

 しかし、肝心の教授――エリカの姿はどこにもなかった。


 代わりに目に入ったのは、くたびれたソファに突っ伏して眠るイリスの姿だった。

 白衣の袖から覗く腕には、インクの跡。机には資料と魔導板が散らばっている。

 寝息は規則的で、完全に力尽きた様子だった。


「……お疲れ様です、イリスさん」

 カイトは苦笑しながら、そっと机の上の資料を整えた。

 その拍子に紙が一枚、床に滑り落ちる。拾い上げてみると、それは〈ヘルダム・シン〉で得た魔力波動の解析結果だった。

 イリスの几帳面な文字で、何かの数式が途中まで書き込まれている。

 彼女もまた、“理を観測する側”に立っている――その姿に、どこか親しみを覚えた。


「寝落ちするまで働くとか……教授の悪いとこ、完全にうつってるよな」


 呟いたその時、イリスが小さく身じろぎをした。

 ゆっくりと目を開け、ぼんやりとカイトを見上げる。


「……あれ、カイト君? 夢じゃないですよね?」

「夢ならもうちょっと片付いた研究室が出てくると思うよ」

「……それは否定できませんね……カイト君⁉︎」


 イリスは寝顔を見られ、恥ずかしそうに俯きつつ、手元の資料を抱え直した。

 寝癖のついた髪を整えながら、彼女はカップの中を見つめて首を傾げる。


「そのカップ……まさか教授のトマトジュース?」

「そう。買ってきたけど、これどう見てもジュースの領域を越えてるよな」

「飲んでみました? ……前に私、味見したことありますけど、視界が赤くなりました」

「もうそれ飲み物じゃないだろ」


 二人で顔を見合わせ、苦笑がこぼれた。

 やがてイリスはストレッチをしながら言った。


「せっかく来てくれたなら、ちょっと休憩しましょうか。教授、今日は講義で外に出てるはずです」

「珍しい……あの教授が外出?」

「学部生向けの特別講義ですよ。ちゃんと大学の教授ですから。たまには講義もしないと、〈古代文明における精霊理論の非依存構造〉とかいう長い題名の」

「寝るやつだ」

「はい、私も寝ました」


 そんな軽口を交わしながら、イリスは立ち上がった。

 頬にまだ寝跡が残っているのが可笑しくて、カイトは少し笑う。


「もう、そんなに笑わないでください! ……ちょっと顔、洗ってきます!」


 しばらくして戻ってきたイリスは、すっきりした顔で言った。

「それで、カイト君。買い物とか終わったなら時間あります?」

「まぁ、教授の届け物も済んだし、今日は暇だな」

「なら……せっかくなので街を歩きませんか? 新しい資料の仕入れも兼ねて」

「資料の仕入れ? 本屋とか?」

「正解です。あと、カフェで休憩。おごりますよ?」


 イリスは微笑みながら、研究室の窓を開けた。

 涼やかな風が吹き込み、紙束を揺らす。

 カイトは手にした瓶を棚に置き、肩をすくめた。


「……まぁ、毒物も届けたし、次は普通の飲み物でも飲みに行くか。お疲れ様も兼ねて、俺が出すよ」

 イリスは少し目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えますね」


 二人は笑い合いながら研究室を後にした。

 外では、大学の鐘がゆっくりと昼を告げていた。

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