19.嵐を呼ぶ女
研究室に戻ると、部屋は静まり返っていた。
カップが伏せられたままの机、半開きの本棚、そして−−肝心の教授の姿がない。
「おかしいですね……寝てるにしては静かすぎる」
「まさか、また講義室で寝落ちしてるとか?」
「あり得ますね。少し探してきます。カイト君はここで待っててください」
イリスは小さくため息をつき、書類を抱えて部屋を出ていった。
扉が閉まると、研究室には時計の針の音だけが残る。
カイトは椅子に腰を下ろし、机の上の装置をぼんやりと眺めた。
金属の球体が微かに回転し、青い光を放っている。
それはどこか、鼓動のようでもあった。
静かだな……教授がいないと、別の場所みたいだ。
そう思った瞬間――勢いよく扉が開いた。
「なにやら、面白い依頼があるって聞いてね!」
低く艶やかな声と共に、ひとりの女性が颯爽と入ってきた。
黒に近い紺色の髪が光を受けて揺れ、短く整えられた前髪が鋭い眼差しを際立たせる。
肩には漆黒のマント、身体に沿う黒革の軽装鎧が陽光を反射して微かに輝いていた。
腰の剣には魔法刻印が走り、鞘がわずかに蒼光を帯びている。
その姿は、まるで嵐を引き連れた戦士のようだった。
「ドワーフの里を荒らす大蛇は、早々に刻んできたよ!」
彼女は笑いながら、一直線に棚のほうへ向かう。
カイトは呆気に取られたまま立ち上がった。
「あの……どちら様ですか?」
「とりあえず、飲み物でももらうよ」
返事も聞かずに棚を開け、迷いなく瓶を取り出す。
ラベルには“警告:燃焼性注意”の文字。
カイトが止める間もなく、一息に半分ほどを呷る。
「え、それ飲み物なんですか!?」
「当然だろう? 飲めば体の魔力循環が三倍速くなる。……まぁ、心臓も三倍動くけどね」
「いやいやいや! ただの危険物ですよ!」
彼女は気にも留めず、さらに一口。
強い酒の香りが部屋中に広がった。
「ふぅ……で、依頼を聞こうじゃないか!」
「い、依頼?」
「そう。教授に呼ばれてきたんだが……あれ? 君は誰だい?」
ようやくこちらを向いた彼女の瞳は、琥珀のように深く輝いていた。
「えっと、カイト――カイト・ランディーニです。落人で教授の助手兼、養子で……」
「ほう? ランディーニ? 教授が養子をとった? あの気まぐれ女神が?」
彼女は愉快そうに笑い、瓶を掲げた。
「ふーん、なるほど。あの人が興味を持つだけのことはある。……君、中々いい顔じゃないか」
「あ、ありがとうございます……?」
「顔に書いてある。“理の外側”を覗いた奴の目だ。それでいて、まだ先を求めてる」
カイトは息を呑んだ。
まるで、心の奥をそのまま読まれたような感覚だった。
彼女は瓶を空にし、軽く肩を回す。
「改めて名乗ろう。マチルダ・ハートランド。特級冒険者、周りからは“人族最強の一角”なんて呼ばれてるが、そんな大層なもんじゃない」
「気まぐれで依頼をこなす酒飲みさ。教授とはそれなりの仲でね。面白そうな話に飛びついたってわけさ」
「はぁ……人族最強の酒飲み、ですか」
「そう。あとは、君みたいなビギナー冒険者が死なないようにするための先導役だな」
その言葉に、カイトは思わず苦笑した。
彼女の登場と同時に、静かな研究室の空気が一変していた。
まるで嵐が通り過ぎた後のように――熱と風だけが残っていた。
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2話予定です。
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