06 ある従者が彼に抱いた不安と悲憤
私は、カランド辺境伯家に所属する使用人。
そして、辺境伯家嫡子リュシア様の婿になるアーヴィン様の専属の従者となった。
アーヴィン様はとても低姿勢な方で、私や他の使用人、下働きに対しても申し訳なさそうに接する。
正直、不安しかない。
リュシア様も穏やかで優しい方だ。何より「女」というだけで見下す者もいる。その女主人を支えて守るのは、主人であるアーヴィン様になるのだが。
もらわれてきた子犬のような彼を、旦那様達は暖かく見ているが、いつまでも「もらわれてきた子犬」でいてもらっては困るという事を分かっているのだろうか。
従者という立場だが、私だけでも厳しく接するべきなのだろうか。
そう考えていた私がアーヴィン様に対する見る目が変わったのは、リュシア様が本格的に旦那様から辺境伯の引き継ぎを受け始めた頃だった。
リュシア様の補佐という事で、旦那様とリュシア様の横で作業していたアーヴィン様が、ふと手を止めて小首を傾げたのがわかった。どうしたのかと様子を窺っていたが、アーヴィン様はお二人に遠慮しているのか、ちらちらと様子を見ながらも話しかけに行こうとしない。
焦れったくなって「如何なさいました」と声をかけると、アーヴィン様はとても驚いた顔をした。……私が声をかけると思わなかったのだろう。
「あ、いえ、この書類の訳が……意味が、少し」
おどおどと視線をさ迷わせて、しかも要領を得ない。
本当にこの方は大丈夫なのかと内心肩を落としていたら、旦那様とリュシア様が気付いてこちらを振り返った。
「何かあったのかね」
「あ、その、書類の訳が……」
「翻訳の事ですか? 間違いがありました?」
「あの、翻訳前のも確認したのですが、ここの『ーーしない』って……『ーーしなくもない』って意味にもならないでしょうか……」
今度はアーヴィン様以外が首を傾げる。旦那様がどういう事なのか訊ねると「ウィンネル地方の特徴で……」と答えたが、旦那様もリュシア様も、私もぴんと来なかった。
「確かに、原文は隣国のウィンネル地方で作られているが」
「翻訳自体は、間違ってはいないんです。……ですが、ウィンネル地方は言い回しが少し独特で……なのでこの文だと『ーーしない』ではなく『ーーしなくもない』の場合もあるんです。……作成者も交易に使う書類なので隣国の言い回しに合わせたと思いますが、一度確認した方が良いかと……」
「そうだな。後から『そういう意味だったが』と言われると面倒だ。確認するとしよう」
旦那様は頷いて、すぐに問い合わせた。
結果的に、内容は訳されたままの意味で、その時はアーヴィン様の杞憂で終わった。
だが、過去にトラブルが起きた時の書類を旦那様がアーヴィン様が確認させたところ、今回のような「地方独特の言い回し」や「単純な翻訳ミス」が数ヵ所見つかった。
「……殿下は細やかな方だったので、些細なミスでもすぐ気付かれるんです。なので私も自然と気を付けて見るようになったんですよ」
そういうものなのかと私は納得したが、真実を知る旦那様とリュシア様は、無言のまま憤っていた。
この日以降アーヴィン様が契約書や報告書等の翻訳チェックを任されるようになったのは、言うまでもない。
数字のミスやスペルの間違い等、細かなところに気付く他にも、アーヴィン様は交易の場でもその国の言語で会話し、気に入られては、時々新しい契約を持ってくる事もあった。
その最たる出来事が、ヴェディン布の交易だ。
今まで我が国と接点のなかった帝国イグニシアで作られている布で、稀少な植物を使っているため国外に出回った事が無い代物だ。
どの国が珍しい物を差し出しても、決して首を縦に振らない。それほど稀少な布だという。
しかし、アーヴィン様が、ヴェディン布の販売を担当していた方と親しくなった。別の国との商談の場で偶然会い、読んでいる本が共通していて意気投合したという。
しかも実際にヴェディン布を見た際の一言が、商談の話ではなく、「リュシア様に似合いそうだ」という感想だったのだが、なんと、それが決め手になった。
実はヴェディン布は「求婚」の意として男性が女性に贈る布で、受け取った女性はその布で婚礼衣装を仕立てる。その国では常識だったが、他国は全く知らない事だった。
謀らずもアーヴィン様が「婚約者に贈りたい」という意思を示したため、同じように使用する事を条件に一時的にだがヴェディン布の交易が許可されたのだ。
アーヴィン様がリュシア様にヴェディン布を贈るためだけの許可、と言っても良いだろう。
その事を契約の場で聞かされたリュシア様と、ばらされたアーヴィン様は、顔と目を真っ赤にし、愛妻家である販売担当者と大使にからかわれていた事が、まだ記憶に新しい。
ちなみにその後、アーヴィン様はヴェディン布を「求婚」の意としてリュシア様に贈り、その布を使って婚礼衣装を作る予定だ。
私が過去に「もらわれてきた子犬」と感じたその敵意ない雰囲気、裏を感じさせない誠実な態度、その反面、甘く見ると逆に足元を掬ってくるわずかな狡猾さを先方が気に入ってしまうらしい。
ヴェディン布の交易が終わった後も、アーヴィン様を気に入られたためカランドとその国の交易は続いている。
更に驚いたのは、アーヴィン様の学習能力だ。
覚える早さは凡人並みなのだが、しかし一度覚えたものは決して忘れる事なく、しかも応用が利く。
マリーシャ殿下や側近たちには「役立たず」と呼ばれていたというが、アーヴィン様の活躍を直に見た私にはその方が信じられなかった。
恐らくマリーシャ殿下や側近はアーヴィン様より優れているから、そう見えていたのだろう。国を担う者なのだから、そうに違いない。
この頃になると私も、かつてアーヴィン様を侮って見ていたことが恥ずかしく思えるほど、すっかり彼を「主人」として信頼し敬うようになっていた。
だが、アーヴィン様は違っていた。
「私は『役立たず』ですが、城で学んだ知識は辺境伯様や貴方のお役に立てて良かったです」
仮置きだからと軽んじられてきた十五年間の時間の重さを思い知った瞬間だった。
アーヴィン様は自身の能力で周囲の信頼を得てきたのに、それを正しく自覚されていなかったのだ。
自身ではなく、知識が役立ったと思っている。
悲しくなった。それと同時に怒りを覚えた。
それは、同じ言葉を聞いたリュシア様も同じだった。