05 仮置き令息の小さな変化と願い事
カランド辺境伯領は北側の国境沿いにある。国の第三都市と呼ばれるほど大きな、要塞都市だ。
防衛を担っているが他国との外交も盛んで、珍しい交易品はもちろん、国内で流通している他国産の香辛料の半分はカランド辺境伯領から卸されている。
都市を囲う高い門を越えると、針葉樹の森が現れる。王都や故郷では見ない光景に、思わず身を乗り出してしまった。
向かいに座っていたリュシア様とカランド辺境伯が、小さく笑う。だがそれはいつも向けられていた嘲りではなく、優しいものだった。
「なにか珍しいものでも?」
「あ……失礼いたしました……。王都でも故郷でも針葉樹の森は見ないもので、つい……」
「気候柄カランド領から北にしか生えていないからね。逆に広葉樹の方が少ないな」
今まで聞く相手がいなかったのか、カランド辺境伯は嬉々として周辺の生態系について語り始める。どうやらカランド辺境伯は学生時代に動植物の研究をしていたらしい。
リュシア様はそんな父親を見て、呆れたように笑った。
屋敷に着くと、カランド辺境伯とリュシア様からの手紙で事情を知ったという夫人に歓迎された。だが夫人の後ろにいたリュシア様の弟の方は、何事もなく挨拶はしたが、その心情はよく分からなかった。
私に与えられた部屋はリュシア様の部屋の近くで、城で与えられた部屋より豪奢で広かった。思わず「何かの間違いでは」と呟いたのを、リュシア様とカランド辺境伯に叱られた。
リュシア様は目が赤みを帯びている。
感情が昂ると元の黄色に赤みが増すのだと、だから顔は平静を装っても目を見ると分かってしまうのだと、はにかみながら内緒話のように教えてくれた。
その時に私も自分の目の事をリュシア様に教えた。驚いて少しだけ赤みが増したので、本当に分かり易いと返すと、また目を赤くして可愛らしく怒っていた。
城で対面した時に赤みを帯びて見えていたのは、恐らく王の前だったから緊張していたのだろう。
……時々私と話している時も色付く事があるが、自分は緊張されるような人間ではないのにな、と思っている。
「部屋が広いと、本棚をいっぱい置けますよ」
「……確かにそうですね」
家具を動かして詰めれば本棚をたくさん置けそうだ、と年甲斐もなく浮かれてしまった。
更に、専属の従者までつけられた。
私なんかに勿体ないと言えば、辺境伯家の婿として気にして欲しいと言われたので、頷くしかなかった。
今日のディナーは歓迎会として私の好物を並べようと言われたが、好物で思い出す料理が私には無い。
私が城で食べていたのは具の無い冷めたスープと余ったパン。たまに肉の脂身や野菜の端。痛んだものや古いものは渡されなかったが、きちんと料理されたものを食べた事はほとんどなかった。
まあ、さすがにこの事を言うと気を遣わせると思ったので、無難に、肉料理は好きだと答えた。
たまに食べられる脂身は嫌いではなかったから、嘘ではない。
だが、カランドの方々の察しがいいのか、私が分かり易いのか、次の日には肉料理の他にも滋養のありそうな料理が目の前に並べられるようになり、それを私が食べるのを皆が笑顔で見ている、というのがしばらく定番になった。
……なんだか、もらわれてきた子犬のような気分だ。
色々食べさせてもらい、後に私はカランドの味付けがされた鶏肉料理が特に好きになった。
次の日の午前はリュシア様に屋敷内を案内され、午後は庭の散歩と、乱読家の祖父が建てたという離れに案内された。
小さな一軒家で、城で過ごした建物より広く、収められた書籍も倍以上だった。ジャンルも実用書、推理小説、冒険小説、恋愛小説等々と様々だ。
二階にも本が溢れていたが、祖父が寝泊まりで使っていたらしい寝室は片付けられていて、がらんとしていた。
「ここで祖父が亡くなったので、喪が明けてから全て片付けたんです。祖父が集めた本は、時々虫干ししてはいますが、量が多くてなかなか……」
「他に寄贈はしなかったのですね?」
「絵本や、文字の勉強に使えそうな物は孤児院に寄付しましたが、他は祖父が残したものだと思うと……。なのでアーヴィン様に気に入って使って頂けると有り難いのですが」
「ええ、とても気に入ったので是非使わせて頂きたいのですが……本当に良いのですか? そのうち庭まで本を溢れさせるかもしれませんよ」
「それは、祖父も大喜びするでしょうね」
私の軽口に、リュシア様が鈴を転がしたように笑う。
城に上がってからは誰かと会話をする事も、会話をしても今のように楽しいと感じる事が全く無かったので、とても新鮮に感じる。
マリーシャ様とは、そもそも会話が成り立たなかった。
私が口を開けば不要だと頬を打ち、返事をしろと言うからそうすれば舌打ちをし、彼女が望んでいない言葉を選んでしまうと罵られる。
マリーシャ様の聞き役に徹し、マリーシャ様が求めている言葉を言う以外は許されない。
そして彼女以外には、聞き役すら求められない。
十五年間。私の言葉と存在は無意味で、無力で、無用だった。
だが、リュシア様とは、会話が成り立つ。
どんなに些細な話題でも、私が口を開けば耳を傾け、返事をすれば嬉しそうに頷き、意見が反すればまず否定せずに話し合う。
リュシア様と交流して二ヶ月ほどになるが、彼女は私の言葉を聞いてくれるという信頼がある。
それでもそのうち愛想を尽かされる日が来る、と不安に思いながらも、私の心はリュシア様のそばにいたいと、強く願うようになった。