神になった幕末の志士とクリスチャンになった幕末の志士
『皇后陛下の夢枕に立ち、「微臣ガ海軍軍人ヲ守護イタシ候」と語り……』
「それで、その坂本というのは誰なのです?」
「御一新前の土佐藩の下士らしい」
父上が新聞を読みながら母上に説明している。ロシアに立ち向かう我らが連合艦隊は坂本龍馬に守られているらしい。ボクが生まれるずっと前に亡くなった人がどうやって船を守るのかな。
「父上、母上、いってまいります」
ボクは玄関を飛び出した。こういう時は学校のあの先生に聞くに限る。
蓬莱橋を渡って大井川の向こう岸に出た。教会はすぐそこだ。今日は日曜日。先生はそこにいらっしゃるはずだ。
一時間くらいで島田の教会に着いた。だいぶ早い。ボクは真っ白な息を吐いた。
「やあ、浩一くん。中に入りたまえ。温かいお茶を淹れてあげよう」
牧師さんが迎えてくれた。
「ありがとうございます。まだ、だれもいらっしゃらないんですか」
「君が一番だ」
礼拝堂は静まり返っている。なんの飾りもない。大きな十字架が正面にあって、あとはオルガンがあるだけだ。
ボクは十字架の真ん前に立った。
絶対触っちゃいけない気がする。でも、そう思うと余計に触りたくなる。
「……」
ひんやりとした十字架に触れると穢れを吸い取ってくれた気がした。
「いやぁ、寒い。お茶を淹れますから待っていてください」
「助かります」
牧師さんの声が聞こえてきた。ボクは思わず教卓のうしろに隠れた。
向こう側に誰かが来た。
「主よ。罪深き私をお許しください」
この声は先生だ。
「一体なにを……」
いけない。ボクは慌てて口をおさえた。
「私は人を殺めました」
声がこもって聞こえる。床に伏せたまましゃべっているみたいだ。
「今から三十七年前、私は幕府の役人でした。京都で乱暴している浪人の隠れ家が見つかり、私たちはそこを囲みました。
そして、ひと思いに斬り殺してしまったのです」
「そのあと私は彼が書いていた文を目にしました。
そこには我が国がこれから進むべき道が示されていました」
「私は我が国の発展を十年、いや二十年は遅れさせてしまいました」
押し殺したような鳴き声が聞こえてくる。ボクは初めて聞いた今井先生の話に息を呑んだ。
「その人の名は?」
「坂本……龍馬」
ガタガタとボクの体は震え始めた。
慶応3年11月15日。坂本龍馬は土佐藩御用達の醤油商、近江屋の二階に身を潜めているところを暗殺されました。手を下したのは幕府直轄の治安部隊、京都見廻組という説が有力です。
その中のひとりである今井信郎は明治になってからも生き続けました。
彼の後半生は静岡県榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市)の議員や教育者として地元のために尽くそうとする日々でした。そのきっかけとなったのがキリスト教への入信です。
大正5年、脳卒中で倒れた今井は、2年間の闘病生活の末に大正7年6月25日に亡くなりました。享年78歳。