第165話【1944年】◆◆利一の償いと達成された龍神の願い◆◆
感謝イラスト2022/08/12
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かつてあった幸せな日々
【これまでのあらすじ】
齢12歳の柏木利一は、柏木一族を支配する龍神の生け贄として産まれ、育てられてきた。
だが、生け贄の儀式を1ヶ月後に控えたある日、庭に現れた兎の妖怪(怪物)を追いかけているうちに、誤って異世界に転移しまう。
利一はそこでミカという怪物と出会い、ひょんなことから彼に保護される。
最初はミカに反発していた利一だが、彼に何度も助けられていくうちに、やがてミカを信頼するようになる。
そして利一はミカの協力を得て、元の世界に帰還を果たした。
元の世界に帰還した利一は、己の一族を救う為に龍神の生け贄になろうとするが、寸前のところでミカに助けられ、彼の説得を受け、龍神を退治すると心決めた。
何とか龍神を瀕死に追い込み、安堵したのも束の間、今度はミカから衝撃の事実を告げられてしまう。
ミカ達の正体は人間に仇をなす人喰い怪物であり、ミカ達がいた異世界は人喰い怪物を封じ込める為に作られた檻だったのだ。
更にミカは、マグダレーナを檻から脱出させる為に、利一を利用していた事を打ち明ける。
絶体絶命の中、利一は一縷の望みにすがり、瀕死の龍神に協力を求めるが……
【登場人物紹介】
柏木利一(12歳)
生まれた時から生け贄になる事を定められた少年。
龍神から(龍神の呪い以外の)呪術を無効化する加護と、日没の間、女体化する呪いをかけられている。
紙を媒体に呪術を行使する事が出来る。
ミカ
裏側と呼ばれる異世界に封印されていた怪物。
裏側に迷いこんだ利一を保護する名目で主従の契約を結び、利一を奴隷にした。
龍神
柏木一族の始祖であり、支配者。
亡き妻『市』を甦らせる為、長年に渡り、柏木一族に呪術をかけてきた。
利一を市の生まれ変わりだと信じ込んだ挙げ句、ミカの罠にはまり瀕死の重傷を負う。
【1944年】
──どうか応えて欲しい。
──自分勝手は重々承知している。
──貴方には、貴方の事情があり苦悩があった、と今は理解している。
──貴方は明日への希望を信じて、生きてきたのでしょう。
──愛しい人に再び逢えると信じて、努力してきたのでしょう。
──その希望を、期待を、こんな形で裏切られて、さぞかし怒っているのでしょう。
──ごめんなさい。
──貴方の努力に報いる事が出来なくて……
──貴方の希望を叶える事が出来なくて……
──もし……その埋め合わせをする機会があるなら……
──もし……やり直す機会があるなら……
「……仮にあるとして、どうなる?」
利一が心の中で何度も呼び掛けていると、龍神からの返答があった。地の底から這い出てくるような暗い声が、少年の脳内に響き渡る。
「貴方に償いたい」
利一は心の中でそう答えた。
「否」
龍神は怨みを込めて拒絶する。
「お前の言葉はその場しのぎの偽りだ。私を騙し、陥れる為の罠であろう」
「……お怒りは当然です。許して頂こうなど思ってはおりません」
「ならば、潔く諦めるが良い。何を言われようとも、折れた私の心が戻る事は無く、怨みが消える事も無い」
そう強い口調で言って、地響きのような唸り声をあげた。
例えば──
芸術家や文豪とって、作品とは血肉を分けた子供であり、魂を切り分けて錬成した遺産である。
その絵の一筆一筆に、その本の一文一文に、作家の血と肉、魂が込められている。
龍神にとって柏木一族は、血肉と魂を込めた作品を生み出す為の工房だった。
生み出したかった作品は最愛の妻──市である。
これまで捧げられた生け贄は、市を失った悲しみを癒す為の玩具であり、市の依代を育てる為の苗床に過ぎない。
生け贄の腹に種を仕込み、反魂の呪術を施す。市の魂を呼び寄せて、種に定着させようと何度も試みてきた。
だが、そう易々と成功はしなかった。
強い呪術を用いた為か、生け贄は呪術を施す度に奇形化して、もはや人とは呼べぬ代物に成れ果てる。それでも、仕込んだ種に市の魂を宿そうと、何度も何度も試みては失敗を繰り返し、苗床が人の形を保てなくなる限界まで試し続けた。
そうして限界に達した苗床を棄て、新しい苗床を得る──その周期が30年。
限界に達した苗床は柏木一族に引き取らせた。その腹には市ではない別の魂が宿り、十月十日を経た後、雛が卵の殻を破るが如く、腹を突き破って生まれ出る。当然、苗床──生け贄は助からない。元より生かす気などなかった。
不毛な挑戦を繰り返すうちに、目的と手段が入れ替わり、虚無と孤独に拍車を掛ける。龍神自身、無駄な努力では、と疑うが──今更止める事は出来なかった。市という作品を完成させる事が、己の存在意義になってしまっていたのだ。
そんな龍神に転機が訪れたのは、12年前──利一が母親の腹から産まれ瞬間だった。
(不思議と直感した……産まれた赤子は市だと……市の魂が宿っていると……)
幸いな事に利一は生け贄の第一候補、龍神が黙っていても、柏木一族が捧げてくれる。
(確証はなかったが、利一が市だと確信していた……否、そう期待していた……なのに……)
その期待は惨たらしく裏切られた。利一は龍神よりもミカを選び、彼と共謀して龍神に瀕死の重傷を負わせた。絶対に許せる筈がない。
(他の種と同様に、利一も市ではなかったのだ……市だと思ったのは、単なる気の迷いだ……私が間違っていた! なんと愚かしい!!)
「私は……未来永劫に渡り……お前達を呪い続ける」
龍神は怒りに震えながら、そう言った。だが内心は、無限に溢れる罵詈雑言を利一に浴びせてやりたかった。どれ程の時間と労力、何人もの生け贄を消費して、どんな思いで、今に至るかを伝えたかった。
龍神自身、奇妙に感じていたが、憤りが極まって上手く言葉にならず、唯々(ただただ)、腸が煮え返り、身体の内側が焦げる思いでいた。
重苦しい沈黙が数十秒間流れ、やがて利一は不敵な笑みを浮かべて口を開いく。
「それは……どないやろか?」
利一の口調がガラリと変わって、皮肉めいた笑いを含んだ。
龍神は怪訝な声で「何だと?」と聞き返す。
「未来永劫など有り得へん。だって俺達はもうすぐ殺されてまうんや。人喰い達を閉じ込めている檻が壊されたら最後、もう貴方と俺は用済やし。あのミカが、俺達を生かして置く理由が無い。縦しんば殺されへんかったとしても、俺の所有者はミカや。ミカに俺らの繋がりを遮られるんがオチやし、貴方の怨み事なんて俺には届くわけがない」
聞いて龍神は一声唸る。利一が裏側に落ちて以来、龍神はこれまで何度も、利一に語り掛けてきた。それで上手く繋がる事もあったが、ミカが繋がりを妨害してくる事もあった。
今のように、利一から進んで繋がりを求めてくれるならともかく、利一からも拒絶され、ミカからも妨害され続けるとしたら、接触する事は難しいだろう。つまりこれが、利一と龍神がまともに言葉を交わせる最後の機会なのだ。
利一は続けて言う。
「貴方の市はもうおらへん。全てミカに奪われてしもた。これ迄、貴方に捧げられた花嫁らも、産まれ落ちた子孫らも、全て無駄やった。俺への怨みも届かず、貴方はここで朽ち果てるんや」
「黙れ! それを望んだのは他でもないお前だ! 人喰いどもが世に解き放たれるのも、一族が死に絶えるのも、全てお前のせいではないか! お前の浅はかさが招いた結果だ!」
「ああ、その通りですけど?」
あっさりと認めた──その言葉と太太しい態度に、龍神の怒りが限界を越えた。ガクンと力が抜ける。まるで突然、宙に放り出されたかのように踏みしめていた地面を奪われ、心の方向感覚を見失い、怒りを放つ機会を逃す。
龍神が唖然とした──その瞬間、利一の目に映る景色が変わる。周囲は墨で塗り潰されたかのように真っ黒になった。
だが、これは本物の闇に非ず。利一と龍神の心が深く繋がった際に現れる、謂わば幻覚である。その為か、利一の姿は闇に飲まれる事無く、くっきりと切り抜かれて見えた。
利一がふと見上げると、真っ黒な空間に2つの月が浮かんでいた。月は時折、上下に瞼を閉じたかのように消えては現れる。目を凝らして見れば、上下の瞼が閉じられる刹那、薄い白濁の膜が月を覆い隠す。
──龍の眼だ。
龍神は真っ直ぐに利一を見つめた。それに応じて、利一も2つの月を見つめ返す。
「お前は私を嘲笑う為に呼んだのか?」
その問いに、利一は毅然と首を横に振る。
「貴方に償いたい。そやけど、このままやと償う機会を失ってまう」
「悪いと思うなら、まず詫びを言うのが筋だろう!」
「貴方に悪いとは思っとらん。寧ろ、一族に呪いを掛けた事や、これまで生け贄になった犠牲者に対して、詫びて欲しいぐらいや!」
「ならば、何故、私に償いなど──」
龍神はそう言いかけて、直ぐに察した。
「……お前……私と取り引きしたいのだな?」
訊かれて利一は力強く頷く。利一はつい先程まで龍神に対し、どのように謝罪を述べて説得するべきか悩んでいたが、途中でそれが誤りのような気がして、やり方を変えたのだ。
(詫びたらアカン)
(相手に諂う姿を見せたらアカン)
(己から縋り付けば、それで相手との立ち位置が決まってまう)
(それやと交渉が不利になる)
己を粗末に扱えば、相手もこちらを粗末に扱う。これは対人関係における基本である。
【断じて己を粗末に扱う事なかれ】
【断じて相手を粗末に扱う事なかれ】
(……どこかでそんな台詞を聞いた覚えがある)
粗末な者がいくら泣いて縋ったところで、状況は好転しない。一方的な謝罪で和解は成立しない。そもそも、利一は謝罪がしたくて龍神に呼び掛けたのではないのだ。目的は──
「人喰い達を……ミカを殺したい。殺さんとアカン。その為に力を貸して欲しい」
利一はそう明言した途端に胸が痛んだ。頭を過ったのは渚に佇むミカの姿だった。
「奴は不死身だ。私の毒でも殺せなかったのだぞ」
「方法はある」と利一は断言する。
聞いて龍神は訝しむ。直ぐ様、その疑念を口にしようとしたが、それより先に利一が高らかに言った。
「檻が破壊される前に、俺が死ねばええんや!!」
漆黒の精神世界に、少年の迷い無き声が響く──
龍神は、その透き通った響きに衝撃を受けた。頭の中で、何かが破裂する。まるで冷水を浴びせられて、頬を打たれたかのようだった。
途端に目が冴える。
(…………市だ)
眼前にいる少年に、追い求めていた少女の姿がピタリと重なって映った。
「……市?」
思わず尋ねた。
「……ちゃう。俺は利一や」
落ち着いた口調で否定される。
だが龍神は──
(ああ、そうか)──と思った。
途端に、一度は消えた【確信】が【確証】に変わる。
(私は……間違っていなかった……やはり、利一は市だった!!)
──同時に、龍神は反魂の呪術が成功していた事実に思い至る。
(柏木一族の中から、市の魂を持った子が産まれたのは、やはり偶然ではなかったのだ……!!)
呪術を施された種から子孫が産まれ、産まれた子孫がまた別の子孫との間に子をもうける。そうやって何世代にも渡り施した呪術は、知らず知らずのうちに子孫の血脈に受け継がれ、絹糸の様に寄り集まった。
(それが……利一の代でようやく花開いた……のか……)
末子である利一に、市の魂が定着した理由は定かではないが、生け贄候補の赤子が市の生まれ変わりであったのは、やはり偶然ではなかったと言えよう。
失敗だと思っていた過去の積み重ねが、実は間違っていなかったと【証明】された──そう思えた。龍神は突如湧き上がる喜びに困惑する。血肉と魂を込めた作品は既に完成していたのだ、と気づく。
「ミカが檻を壊す前に俺を殺せ。それをせめてもの償いとさせて欲しい」
利一がいなければ檻は壊せない。檻から出られなくなった人喰い達は、裏側で死に絶えるだろう。少年は自らの命と引き換えに、表の世界を守ろうと覚悟を決めていた。
「……償いはそれだけか? あの人喰い女の隙を突くのは容易でないぞ。それ相応の対価を頂かねば割に合わぬ」
龍神は動揺を悟られぬように声を抑える。
一方、利一は説得する事に頭がいっぱいで、そんな龍神の心情の変化に気づいてすらいない。対価と聞いて、一瞬狼狽えていた。
すかさず龍神が口を開く。
「では……市は代わりに何を差し出す?」
内心、浮き立ちながら尋ねた。
「全てや。足の先から頭の天辺まで、血も肉も一滴残らず、俺の全てをお前にやる」
今の利一は虜の身だ。己の肉体以外、差し出せる物はない。
「魂もか?」
訊かれて、利一は力強く頷いた。そして「お前が望むなら」と言い放つ。
とうとう龍神は、辛抱堪らず、くつくつと笑い出す。かつての市も、全く同じ台詞を言った事を思い出したのだ。
「何が可笑しいねん」
利一は訝しむ。
「これが笑わずにはおれるか。自己の犠牲を顧みず他者を助けようとする、その純真たる傲慢さ──正に私が知る市だ」
同じ魂だからと言って、ここまで思考が似通うのが妙に可笑しかった。
(ああ……市だ……市だったのだ……)
「……龍神、手を貸してくれ」
「お前は私のものになると言いながら、あの男と逃げたのだぞ? なのに今更、手を貸せと?」
龍神は少し意地悪く尋ねた。
「ああ、そうや。ここで俺を見捨てるのであれば、二度と市には会われへんぞ。それでええんか? よう考えてくれ。これがお前と俺にとって、最後の好機や」
少年の利一はそう言って、闇に浮かぶ2つの月を見据えた。龍神もまた利一を見据える。
(二度と会えない……と?)
(……いいや)
(……ようやく会えたよ)
(……お前に)