第144話 【1944年】◆◆利一と不二子と一子◆◆
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【1944年】
山荘の洋間は赤い絨毯が敷かれており、壁は白の漆喰で塗られていた。
利一は壁際に立ちならが、親戚の男性に二種類のカメラで撮影された。
(不思議や……こない穏やかな気持ちになるなんて……)
昨日──あれ程、龍神を拒絶し、怒りに震え、絶望に打ちひしがれていたにも拘わらず、今は自分でも驚く程、心静かだった。
(人間って、覚悟が決まると怒りを忘れてまうんかな……)
ふと、そんな事を思いながら、ミカを手招きする。呼ばれたミカは利一の側に立つ。
「あの……彼と一緒に撮って下さい」
利一はそう言って、カメラを持つ親戚に声をかけた。
「ああ……ええよ」
親戚の男性は快い返事をして、首から提げていた蛇腹カメラを構えた。
出来上がった写真を見る事はないだろうが、何かを残して起きたかった。己がここに存在した証しを──爪痕に代わる物を──ミカと一緒に残したかった。
「利一……そろそろ」
当主の娘にそう言われ、利一は「はい」と潔い返事をした。
部屋の隅にいた三葉がハッと顔を上げて、利一に駆け寄ろうとしたが、親戚の女性に止められる。
「りっちゃん!!」
「三葉……またな」
利一は寂しそうに笑って、手を小さく振った。
(またなんて、ないんに……)
内心そう思っていたが、口にする事はなかった。30年後に解放されたとしても、笑顔で再会出来る気がしない。
(今から会う前の生け贄は……解放されて笑うんやろか?)
僅かでも前任者と話せる時間があるならば、是非とも訊いてみたいものだ。
──今、どんな気持ちかと……
利一達は三葉と女中の前川を残し、山荘を出た。山門とは反対側、石畳が敷かれたその奥に、ミカよりも少し背の高い鳥居が幾つも連なり、短いトンネルを形成している。
濃霧で鳥居の奥は見渡せないが、奥に行けば行く程、闇が色濃く映った。
一行は提灯の灯りを頼りに、当主の娘を先頭にして進む。
ミカは頭を鳥居にぶつけぬよう屈みながら、利一の後ろを歩き、その後ろに親戚夫婦がついて歩いた。
2分もせぬうちに、短い鳥居のトンネルを抜け、縦に割けた洞穴の入り口に辿り着く。
「みかさん、ここから先はご遠慮下さいね」
当主の娘がそう言って、利一は「あっ」と小さな声を出す。
(ここで……お別れなんや……)
胸が締め付けられ、喉が詰まる。
「えぇー駄目ですか? もっと奥まで見たかったんにー」
ミカは戯けた声を出して、利一にピタリと引っ付いた。
「ここまでお連れするだけでも、特例なんですよ。ここから先は聖域ですよって、流石にお通しする訳にはいきません」
キッパリとそう言って、当主の娘はミカを睨む。
「ミカ……今度こそお別れや」
利一は胸の痛みを堪え、潤んだ瞳でミカを見つめた。
「色々、ありがとう……ミカに出会えて、ホンマに良かった……俺……」
伝えたい事を山程考えて、まとめていた筈なのに、いざ言葉にすると虫食いのように抜け落ちてしまう。
(もっと上手く伝えたいのに……感謝を……)
利一は想いを上手く言語化出来ず、歯痒く思った。
「利一、俺も君に会えて良かった。ここで別れるのは残念やけど……30年後にまた会いに来るよ」
「30年後……」
ふと疑問が湧く。
(俺が一族最後の生け贄なら……これまで通り、30年のお勤めで解放されるんやろか?)
生け贄が30年毎に捧げられるからこそ、前任者は解放されるのだ。後任の生け贄がいない利一が解放される保証は無い。その事に気づいたが、今更後には引けなかった。
「さようなら、ミカ」
言って利一が手を差し出すと、ミカはその手を取り、そのまま利一の頬に口づけした。途端に、当主の娘と親戚夫婦が、顔に朱色を登らせて小さな悲鳴をあげる。ミカの行為が恐ろしく破廉恥に思えたのだ。
「またな、利一」
利一はコクンと頷いて、ミカの首に抱きついた。
「うん。またな……ミカ」
当主の娘は、別れを惜しむ利一の腕を軽く引いて「さぁ、龍神様がお待ちやから」と促した。
利一はゆっくりミカから離れ、振り向く事なく洞穴の奥へと進んだ。
ミカは少し屈んだ状態で、去り行く利一の姿をいつまでも見つめていた。
(……これで良かったんや)
一族にかかった呪いは解け、恐らく正二と三葉は結ばれる。ミカは息子を探しに行って、そしていつか再会するだろう。
(これで良かった……これが最善なんや……)
己にそう何度も言って聞かせる。次第に喉が渇き、胃が痛む。一時は静かにしていた心が、再度ざわつき始める。
それはきっと──否、間違いなくミカと別れたせいだ。最後に残された心の拠り所を失って、利一は動揺していた。
「もうすぐよ」
当主の娘はそう言って進む。その足取りに迷いはない。
「以前にも、ここへ来た事があるんですか?」
「ええ。何度か……母と一緒に」
利一はハッとした。彼女の母親──大おばは、今朝方、自害した。それで、しまったと思ったのだ。
「……すみません」
迂闊に母親の死を思い出させたと悔やんだ。
「あら、ええんよ。あんな人死んでも、ちっとも悲しないわ」
「え!?」
利一は思わず耳を疑う。実の母親が自害したと言うのに、当主の娘は悲しむ素振りもなく、忌々しそうに顔を歪めた。
「遺書があったんよ。あの人の死体の側にね。……なんて書いてあったと思う?」
当主の娘は自分の母親を【あの人】と呼んで蔑みを顕にする。
「さぁ……なんて……書いてたんですか?」
恐る恐る尋ねると、当主の娘は溜め息を吐いた。
「私の事産んで、ごめんやて。私だけちゃうよ。本家も、分家の皆含めて、子供を産むべきやなかったって書かれてたんよ」
利一は唖然として、当主の娘と親戚夫婦を見た。親戚夫婦は何か言いたげな顔をしていたが、目をそらして黙っていた。どうやら、彼らも遺書の内容を知っていたらしい。
「子供を産むべきやなかったって、私らは魔物に生け贄を捧げる呪われた一族やて、早くに滅ぶべきやったて書かれてたんよ! 今更……今更、後悔して! 1人だけ善人面して! それで自害して……あまりにも卑怯や! あんな卑怯者、親やと思われへん!」
狭い洞穴に、恨みの声が響く。利一は戸惑いを隠せなかった。
「前に生け贄になった子ね、一子ちゃんって言うんよ。えらい生け贄なるん嫌や言うて、泣いて駄々こねて……でも結局、あの人が激しく叱咤してね。私、泣きながら『一子ちゃんを連れて行かんで』て頼んでんけど……誰も聞いてくれへんかった。嫌がる一子ちゃんを生け贄にしたクセに、今更、後悔するやなんて許せる筈ないやん。あの人も、父も、私も皆、共犯なんよ! 誰かを生け贄に差し出して生き長らえる呪われた家に生まれたんよ! 皆、鬼や!! それを今更!!」
背筋に寒いものを感じた。この女性は、自害して鬼から人に戻ろうとした母親に怒っているのだ。
自身も母親の意思を継いで鬼になったのに、当の母親は自害して、後悔の言葉を遺書に残した。それが許せないでいる。
「あの人ね、生け贄になった一子ちゃんのところに何度も私を連れて行って、自分はなんも間違ってなかったって、お前もいずれ私と同じ事をするんやて、そう何度も何度も説教したんやで……笑えるやろ? 今、私……あの人の言う通り、同じ事しようとしてんねん」
(……大おば達は、前の生け贄を何度も訪ねてた?)
そんな話は初耳だった。生け贄は龍神の宮で暮らすものだと聞いていた。てっきり、祠の先に桃源郷のような異世界があるのだと思っていたし、そこは外界と隔たれているのだと想像していた。
(訪ねる事が出来るんなら……違うんやろか? ミカ達がおった裏側のような場所があるんとちゃうんか?)
「……利一、おいで。もう、すぐそこや。あんたに一子ちゃんを紹介してあげる」
当主の娘は利一の腕を強く掴んで、奥へと進んだ。
利一は踏んだ地面の感覚に違和感を覚える。
(なんやろ? 地面がやけに軽く感じる……)
まるで軽石の上を歩いている気分だった。先程まで、ハッキリとした重い質感のある地面は消え失せ、いつの間にか酷く軽い物質に変わっている。
奥に進む程に土や古木の臭気が濃くなり、湿度が増した。
(なんか、ここ……前にも来た気がする)
──いつ?
(いや、ちゃう……こことよく似た場所に行った事が……)
──どこ?
(それは……)
「着いたわ」
当主の娘の声を聞き、利一は顔を上げた。
──眼前に広がる暗闇に、ぼんやりと何かがある。天井から垂れ下がる巨大な水滴のような何か。
それはまるで、ふっくらとした形の氷柱石のようだった。
利一が訝しんで目を凝らすと、当主の娘が提灯を掲げた。
「ほら、彼女が一子ちゃんよ」
その声に誘われて、一歩、二歩と踏み出すと、ようやく【それ】が目に入った。
「ひっ……」
思わず、ひきつった声を出した瞬間、先程から痛んでいた胃が逆流した。堪らず吐きかけて、壁際に顔をそらす。二度えずいて、激しく咳き込む。
今、見たものが信じられず、血の気が一気に引き、頭の中が真っ白になった。
「げほっ……げほっ……まさか……それが?」
利一は震えながら、もう一度ゆっくりと目を向ける。
それは氷柱石などではなかった。海月のようなゼラチン質の繭の中に、裸の人体が胎児の体勢で収まっていた。
人体の皮膚は半透明で、血管や骨や内臓、眼球や歯が透けて見えている。胸元に注視すると、紅く熟れた柘榴のような心臓が、規則的に動いていた。
「……これが一子さん? これが生け贄!?」
「そうや。彼女が一子ちゃん。私の妹……まあ、妹言うても同い年やったけどね」
「妹!? 同い年!?」
前任者が当主の実子などとは、それこそ初耳だった。以前、前任者について父母に尋ねた事があるが、その時は「前の生け贄については訊いてはならない」と厳しく叱られた。
だから、そう言う禁句のような、触れてはならない決まりがあるのかと思っていたが──
「一子ちゃんはね、妾の子でね。私とは腹違いなんよ」
言って当主の娘は、氷柱石のように垂れ下がる一子の前に跪いた。
「……ほら、生け贄の名前あるでしょ? 生け贄候補は生まれた順に、数の入った名前がつけられるやろ? 利一、正二、三葉みたく」
利一の心臓は段々と早鐘を打っていた。昼間は比較的まともに思えた当主の娘だが、今は明らかな狂気が滲み出ている。
明るく軽やか口調で話す彼女の顔は、その声とは真逆に笑みが一切なく、無表情で不気味だった。
「私の方が先に生まれたのに、あの女……私に不二子て名前つけて、妾が産んだ妹に一子て名前つけよった!! 私の方が先に生まれたんに!! 妹を差し出しやがって!! 挙げ句の果てに産むべきやなかったやて!!」
当主の娘──不二子に気圧されて、利一は思わず後ずさったが、背後にいた親戚夫婦に両脇を抱えられた。
「逃げるな、利一!! 一子ちゃんが生け贄になったんに、あんただけが逃げる気か!?」
「ちゃ、ちゃう!!」
逃げようとした訳ではない。ただ不二子が怖かったし、半透明になっている一子が怖かった。知らなかった事が一変に明かされて、唯々、混乱していたのだ。
当主の娘の名前は知っていたが、字は花の『藤』に子供の『子』だと聞いていた。改名したとは知らなかったし、腹違いの一子の存在も初めて知った。
ましてや──不二子がこれ程までに、母親を憎んでいたなど思いもしていなかった。
「龍神様! 龍神様! 利一を連れて参りました! どうぞお納め下さい! そして妹を──一子ちゃんをお返し下さい!! お願いします! お願いします!」
洞穴全体が一瞬揺れた。低い地響きが僅かに聞こえたかと思うと、ゼラチン質の繭がどろりと溶けて、半透明の一子が地面に落ちた。
「あああああ!! 一子ちゃん!!」
不二子は、一子に駆け寄り抱き締めた。彼女は狂ったように何度も妹の名前を呼んで、おいおいと泣いていた。感動の再会と言うよりは、狂気に満ちた光景だった。
「あーなるほどね」
明るい口調の声が洞穴に響いて、利一と親戚夫婦は慌てて後ろを振り向いた。
「ミカ!?」
いつの間にか、別れた筈のミカがいて、意地悪そうに微笑んでいる。
親戚夫婦は「どうしてここに!?」「入ってはならんと言うた筈や!!」と怒鳴ったが、ミカは全く気にする事なく、飄々としていた。
「ずっと疑問に思てたんですよねー。何で龍神に捧げる娘を【花嫁】やのうて【生け贄】と呼称してんのか。ああ、こう言う事やったんですねー」
(あ……!)
ミカの言葉に、利一もようやく気づく。
これまで、龍神に捧げられる役目は尊いものだと──捧げられた娘は夜伽をするのだと聞かされていた。ならば、その役目の呼称は【生け贄】よりも【花嫁】が相応しい筈だ。
現に、利一が龍神の事をミカに初めて説明した時、ミカは生け贄ではなく花嫁──強制結婚だと指摘した。
だが、柏木家では役目の内容は【花嫁】だと言いながら、その呼称を【生け贄】だとしてきた。
確かに、最初は口減らしの生け贄だったが、生け贄である市と龍神は子をもうけたのだ。婚姻と認識を改めて、呼称を【花嫁】にするべきだろう。
いつまでも【生け贄】と言う呼称を用いる理由──それは……
「捧げられた娘がこないな姿になるんやったら、流石に花嫁とは呼べませんわな」
利一の背筋を、ひやりと冷たいものが撫でた。教えと現実との差異はあまりにも強烈で、体の震えが止まらない。
これから己も、ああなるのかと思うと、どうしようもなく生理的な嫌悪に襲われた。
「こんな状態から、どうやって出産するんです?」
ミカは馬鹿にしたように尋ねて挑発する。
「黙りゃ!! 去れっ!! 穢らわしい妖怪め!!」
不二子は激昂して、札を懐から取り出した。
利一は「やめてや!!」と叫んだが、札はミカ目掛けて飛ばされた。
だが、以前と同様に、札はミカに届く事なく落下する。
「なんで当たらんの!?」
ミカは自分の胸に手を添えて「それは」と切り出す。
「今、着ているこの服は特別製で、俺の主より賜った物なんですけどね。周囲にいる敵を弱体化してくれる上に、俺の力を強化してくれるんです。龍神の加護のおかげで、貴女方に俺の暗示は効かへんみたいですけど、どうやら術はちゃんと弱体化出来るみたいですね」
言ってミカは、不敵に微笑んだ。
(あ、それで……)
本家で誰もミカを祓えなかったのも、裏側で利一を襲った怪物を一撃で仕留められたのも、全て服の効力だったのかと納得した。
(だとしたら……龍神の毒は……)
昨晩、龍神は広間の畳やミカを庇った利一を一切傷つけず、ミカだけに狙いを定め、強力な溶解の毒を放った。つまり、弱体化された状態であの威力と言う事になる。弱体化されていなければ、ミカは一撃で全身を溶かされていた筈だ。
「ミカ、逃げろ!!」
また龍神が出てきたら、今度こそ、容赦はしてくれないだろう。ミカがいくら不死身でも、全身溶かされた状態から再生するのは容易ではない。
利一はミカの身を案じて、彼に逃げるように叫ぶ。
「了解」
ミカは明るく返事をして、利一を素早く抱き上げた。
「はっ!?」
「一緒に逃げんで」
ミカは利一を抱えたまま、脱兎の如く走り出した。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
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