第134話 【現今】九十九里の法律事務所と理子の理不尽な要求
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【現今】
その小さな灰色のビルは、繁華街に程近い路地の一角に建っていた。1階と2階に、居酒屋やスナックと言った飲み屋が数件あり、最上の3階に小さな法律事務所があった。
事務所の中は実に質素な作りで、玄関に面した10畳の仕事部屋、奥に6畳の応接室と資料室があるだけ。トイレは事務所を出て、廊下奥にある共同トイレを使っていた。
的井の相棒である九十九里は、この事務所で弁護士として働いている。以前は、別の事務所の軒先を借りていたが、訳あって今はここで居候をしている。
この事務所に舞い込む案件は、繁華街に近い土地柄のせいか、痴情のもつれや金銭トラブルが殆んどで、時折、刑事事件を扱う事も暫しあった。
だが、それは──依頼人が人間の場合だ。この事務所を訪ねる者は、何も人間ばかりではない。
九十九里は両手いっぱいに抱えていた書類を、よろけながら自分の机に置いた。そのうちの数枚が床に落ち、彼は慌てて紙を拾う。
「はぁー……」
九十九里は疲れた息を吐いて、椅子に腰掛ける。今から、眼前に盛られた紙の山に、目を通さねばならないと思うと、それだけで心労が募った。
だが、やらのねばならない。数日後には予備審問があり、それが終れば次に罪状認否がある。九十九里の依頼人が抗争を選択すれば、公判になるのだ。
時間が無い──にも関わらず、九十九里の依頼人は、己の権利を守らんとする弁護士に対して、非協力的だった。
厄介なのは、それだけではない。今回の依頼人は怪物で、これは怪物の裁判なのだ。対して九十九里は人間で、本来は人間社会の弁護士だ。
怪物社会の司法制度は、日本の司法制度とは異なる。無論、法律も然り。九十九里は怪物の裁判を担当する度に、それを面倒に感じていた。
しかも今回は特別面倒な案件で、彼は今更ながら断れば良かった、と激しく後悔していた。
九十九里は資料に目を通しながら、考え込んで口元を触る。読んでいるのは、過去の裁判記録で喰殺について書かれている物ばかり。今回、九十九里が担当する案件に類似している──が、何かが違うと感じていた。
「なぁ、吸血鬼ってさ……食人種なんだよな?」
九十九里がそう尋ねると、部屋の隅にあるキャットタワーの頂上から三毛猫が顔を覗かせた。
「そうだね。それがどうかした?」
猫はそう言って、九十九里を見下ろす。
「吸血鬼は血を吸うんだよな? 人間の肉は食べないのか?」
九十九里が尋ねると、三毛猫がキャットタワーから降りてきた。
「……多分、食べないね。吸血鬼が人肉を食べるなんて聞いた事がないよ」
言って猫は、体を伸ばす。
「……絶対に食べれないって言い切れるか?」
「……どうだろう? 吸血鬼は死人の血が飲めないらしいから、人肉も食べれないんじゃないかな?」
「つまり、確証は無いんだよな?」
「何でそんな事訊くのさ?」
猫は軽やかに跳んで机に上がり、山盛りの書類を踏みつけた。九十九里は疲れを主張するように、深い溜め息を吐く。
「今度の依頼人は吸血鬼なんだ。んでもって、喰殺事件の被疑者なの」
九十九里は、猫を持ち上げて膝の上に乗せ、再び書類に目を通す。
──その時、コンコンとドアを叩く音がして、九十九里は「はーい」と返事をした。きっと的井が来たのだろうと思い、来訪者を確かめる事なく、書類を読み続ける。
すると、またコンコンと音が響く。
「おい、九十九里。的井の兄貴じゃないみたいだぞ」
猫に言われて、九十九里はようやくドアに目を向けた。ドアには縦長の磨りガラスがはめ込まれていて、そこから女性らしき人影が見える。九十九里は猫を抱えて席を立ち「すみません」と言ってドアを開けた。
見れば事務所の入り口に、小綺麗な身なりをした、30代半ばの女性が立っている。
「お忙しいところ、突然すみません。私、入江と申します。あの……弁護士の方でしょうか?」
言って女性は、九十九里が抱いていた猫に目を向ける。
「ああっ! すみません。私、弁護士の九十九里要と申します。お伺い致しますので、どうぞお入り下さい。今丁度、他の者が出払っておりまして──」
「いえ、やはり結構です。お邪魔しました」
女性は九十九里の言葉を遮った。
「えぇっと、皆、すぐそこのコンビニに行ってるだけなので──」
上司も事務員も、直ぐに戻って来ると言いかけたが、彼女は「すみません。猫アレルギーなので……」と言って断った。
流石にそれでは引き留められないと諦めて、九十九里は猫がいる事を謝罪する。
幸いな事に、女性にアレルギー症状の兆候は見られず、九十九里や事務所側に対して嫌悪感を示さなかった。彼女は穏やかに事務所を去って行き、残された九十九里は、ふと気づく。
「……おい、ミケ。今日は【人避けの呪い】をしてたんじゃなかったのか?」
怪物の案件を引き受けている時は、事務所に人間が訪れないよう呪いを施す。
ミケと呼ばれた三毛猫は「ああ、そう言えば……」と言ってキャットタワーで爪を研ぐ。先程の女性は、確かに極普通の人間だった。だが──
「でも、もう1人の女性は妖怪だったみたいだよ」
ミケがそう言ったので、九十九里は目を丸くした。
「えっ? もう1人って?」
九十九里の眼には、女性は1人しか映らなかった。だが、ミケはもう1人いたと言う。
「どういう事だ?」
訳が分からず首を傾げた。
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九十九里がいた法律事務所から、西へ300メートル程行った先に、小さなコインパーキングがあった。横に並んだ4台の駐車スペースに、セダンが2台、ピンクの軽自動車が1台止まっている。そこに2人の女性がいた。
1人が軽自動車のドアロックを外し、すぐ隣にいた連れの女性に話かける。
「どうでしたか、あの事務所。私には猫がいる以外、特段変わった点は見受けられませんが……」
そう言って、連れの顔を覗き込む。連れの女性はサイズの合ってない男物の服を着て、フードを深々と被っていた。そのフードの奥に白金髪の長い髪が僅かに見える。
「いや。あの猫は恐らく怪物や。俺の姿が見えてたし……」
フードの女性はそう言って、コインパーキングの精算機のボタンを押し、クレジットカードを挿入した。支払いをしつつ、彼女は思案する。
(……気になるのは三毛猫より男の方や。暗示が通じるから普通の人間なんやろうけど、なんか……よう分からん違和感がある……俺より、リーに見てもろた方がええかもせん)
精算を終え、2人は軽自動車に乗り込む。フードの女性が後部座席に、もう1人の女性が運転席に座った。
「付き合ってくれて、ありがとう。一先ず、今日は帰宅するわ。さっき行った法律事務所やけど、また調べといてくれへんかな」
フードの女性はそう言って、ほんの少し、申し訳なさそうな顔をした。
「勿論、いいですよ。経費はちゃんと支払って下さいね、社長」
彼女は連れを社長と呼んだが、これは経営者を指す呼称でない。ふくよかな男性や、態度が大きい男性を【社長】と呼び、痩せた男性や気弱そうな男性を【先生】と呼ぶ。それは、彼女がかつていた界隈で、客引きをする際の決まり文句だった。その癖が抜けずに、時折、男性を【社長】やら【先生】などと呼んでしまうのだ。
「あと……鈴木理子の出生に関して、何か分かったら、即連絡して」
フードの女性にそう言われ、運転席の彼女は頷いた。
「社長の頼みとあれば、喜んで」
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──夕刻。
柏木が帰宅すると、理子が玄関で待ち構えていた。
「おかえりなさい」
ニコニコ笑う理子の背後に、怒りに満ちたドス黒いオーラが見える。
──怖い。柏木は瞬時にそう思い、ぎこちない笑顔で「タダイマ」と返した。
「どこに行ってたの?」
「し……調べものをしに行っとった」
正確には、奏を送ってから行ったのだが、奏の事は黙っておいた方が最良だと判断した。
「調べもの? 何の?」
「的井さんの周辺に、過去を探る能力を持った怪物がおるかと思って」
理子は意味が分からず、怪訝な顔をした。
「理子の事がバレたら不味いやろ。だから調べに行っとったんや」
柏木が怪しいと睨んだのは、水曜日に的井が化けていた人間の姿だ。
人の姿を持たぬ怪物が人間に化ける際、殆どの場合は実在する人間を模す。ならば的井が化けた姿も、身近な人間を模したものだと推理した。そして、それは的中する。
柏木は、かつての君主マグダレーナが所持していた羅針盤を使い、人間に化けていた時の的井を思い浮かべた。羅針盤に導かれ、辿り着いたのは弱小法律事務所だった。そこに的井が模した人間──九十九里がいて、的井の同族もいたのだ。
九十九里の正体は分からなかったが、的井と深い関わりがあると確証を得て、理子の待つ自宅に戻って来た。
「へー。肝心の私を置いて?」
「リーと志摩がおったやろ」
柏木が部屋の奥に目を向けると、こちらの様子を窺うリーがいた。そのすぐ足元に、同じく心配そうにこちらを見ている志摩がいた。
「そうだね。だから? 何?」
理子は語尾を強めて不満を表す。
「置いて行った事は、ホンマにごめん。理子を不安にさせた俺が悪い」
「私を蔑ろにした!」
「そんな風に受け取らんで欲しい」
「置いて行ってた時点で、蔑ろにしてるも同然よ!! せめて私が目を覚ますまで待つなり、メモやメールを残すなりすれば良かったでしょ!! 私の為に何かするなとは言わないわよ! でも、私に断りもなく私の前からいなくならないで!!」
「ごめん、理子」
「絶対許さない!」
理子は頬を紅く染めて、目を潤ませた。
「絶対許さへん?」
「絶対よ! そう言ってるでしょ!!」
言って理子はそっぽを向く。柏木は「許して欲しい」の一言を、言うか否か迷う。怒っている人間に対し「許して欲しい」と頼むのは逆効果だ。それは謝罪する側の本音と都合でしかない。
相手の許しを得たければ、己の本音と都合を言わずに、相手の怒りを誠実に受け止めている態度でいた方が良い。そうやって相手の主張を聞き、今後はどう対応するかを具体的に言えば、大概の謝罪は成功する。勿論、絶対ではないが、これが一番効果的なやり方だ。
だが──何を思ったのか柏木は、あえて失敗する方を選択した。
「りっちゃん、許して欲しい……何でもするし」
そう言って懇願する。
「何でも?」
訊かれて柏木は力強く頷いた。
「じゃあ……真っ裸で土下座して。そしたら許す」
どうせ出来はしない、と踏んでの発言だった。だが、柏木は躊躇無くスボンのベルトを外し、ファスナーを下ろした。理子は驚いて、咄嗟に玄関脇の傘立てを掴み、それで柏木の頭を思いっきり殴った。
「痛い!!」
柏木は膝をついて、頭を押さえる。
「こん、屑!! ド変態!!」
「脱げ言うたん君やん!?」
「本当に脱ごうとするな!!」
「理不尽過ぎへん!?」
「渚の馬鹿!! 私は真剣に渚の事を心配してたのに!!」
柏木は目が点になる。
「心配してた? 俺を?」
「当然でしょ!! 何かあったのかと思ったじゃない! 連絡ぐらいしてよ!」
理子が自分の身を案じていたと知り、柏木は嬉しくなった。それで、つい表情が緩む。
「……今、喜んだでしょ?」
「あっ……いや。ちゃうよ。ちゃんと反省しとる」
「嘘つき!!」
理子がそう言った次の瞬間──リーが柏木の頭を掴み、そのまま勢い良く、彼の顔面を床に叩きつけた。酷く痛々しい音が響き、理子は唖然とする。
リーは柏木を床に押し付けたまま、理子を見上げた。
「理子、もうええやろ。渚を許したってくれ」
言われて理子は戸惑う。
「渚を行かせた俺も悪かったんや。すまない」
リーは頭を下げて、日本流に謝罪した。
理子はまだまだ物言いたげだったが、暫し悩んだ末に「…………分かりました」と渋々言う。勿論、納得した訳ではない。胸に淀んだ気持ちが渦巻いていたが、リーの手前、それを堪える。
「……渚、早く起き上がって」
言って理子は、2人を置いて足早に奥へ行った。彼女の姿が見えなくなってから、リーは柏木に目を向ける。
「お前……わざと火に油を注いだやろ」
リーは小声で言う。柏木は床に突っ伏したまま僅かに笑った。
「バレた?」
「ったく、愛想つかされても知らんで」
リーは呆れて言って、柏木の頭から手を離した。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
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Thank You for reading so far.
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