第130話 【1975年】◆チェスターの祈りとエミリーの記憶◆
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【1975年】
街から音が消えた。人々の笑い声、行き交う車、玄関のドアを開ける音、窓辺から外を眺める犬、囀ずる小鳥、枝に隠れたリス──それら全てが一切の音を殺して息を潜めた。
チェスターは異常な状態に戸惑いつつも、速度を上げて人狼を追った。大通りを外れ、住宅地を駆け抜け、やがて広い公園に入る。そこはチェスターとエミリーが初めて出会った場所だ。人狼の気配はここに留まっている。
(……何故だ?)
罠かも知れない──そう思って警戒した時、人狼の気配が忽然と消えた。
チェスターは直ぐ様、感覚を研ぎ澄まして、公園内の気配を探る。
──人間が十数人、把握出来る範囲にいるが、怪物の気配は無い。
(クソっ……やられた!)
おそらく人狼は人外の変身を解いて、園内にいる人間に紛れたのだ。
それに気づいた途端、停止していた【音】が一斉に戻った。園内にいた犬が吠えて、鳥が羽ばたく。遠い場所から、家路を急ぐ車のクラクションと、緊急車両のサイレンが聞こえた。
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──エミリーは夢を見ていた。
──幼い頃の夢だ。
エミリーは舞台の袖で、数人の女の子達と一緒にいた。エミリーと彼女達は、髪を1つに纏め上げ、愛らしいリボンをつけていた。下を向けば、淡いピンクのチュチュスカートが揺れている。更にその下──稚い足に、子供用のバレエシューズを履いていた。
エミリーはそれを見て、早く本物のトゥシューズを履きたいと思った。
やがて音楽が流れ、周りにいた女の子達と一緒に、袖から舞台の中央へと踊り出た。薄暗い観客席に目を向けると、大勢の保護者達がいる。
エミリーは踊りながら、3つ並んだ空席に注目した。
3つの空席の背凭れに【Walker】と書かれた紙が貼られている。
途端に悲しい気持ちが込み上げてきて、目が潤む。それと同時に──やっぱりかと落胆した。
(来る筈がない。だって……パパとママは……メアリーの……)
次第に、踊る手足の力が抜けた。バレエ講師が舞台の袖から、鬼の形相で手を振っている。エミリーに対して『しっかり踊りなさい』と促しているのだ。それが余計に腹立たしく……寂しさが増した。
すると──
観客席の奥の扉が開いて、2人の男女が入って来た。2人は薄暗い観客席の通路を進み、前の席を目指す。
(あ……)
1人はエミリーの母親だ。顔がハッキリと見えた。やや疲れた表情をしていて、目の下に隈がある。
もう1人は、仕立ての良いスーツを着た白金髪の若い男性。母親と違って、顔はぼやけていて見えない。
2人は空席に座り、エミリーに向かって小さく手を振った。それが嬉しくて、気持ちが一気に明るくなった。
(ママを連れて来てくれたのね……ミカ)
──そう思った瞬間、ぼやけていた顔の輪郭が鮮明になり、霧が晴れたかのように、彼の目鼻立ちが露になる。
──端正な顔立ちの青年だった。
──父親ではない。
(……あ、そうだ。……ミカはパパじゃない……彼は……)
それを思い出すや否や、舞台から飛び降りて、観客席にいる彼のもとに駆け寄った。
突如として背景が歪み、舞台にいた女の子達や他の観客達が、白く溶けて消えていく。無限に広がる真っ白な空間に、ミカと母親とエミリーの3人だけが存在していた。
エミリーの体は一歩ミカに近づく度に急成長し、彼のもとに辿り着いた時には、現実と同じ16歳の少女になっていた。いつの間にか服装はバレエのチュチュから普段着に変わっている。
『ミカ!』
エミリーがミカに近づくと、突然、頭を力強く引き寄せられた。ミカは両手でエミリーの耳を塞ぐようにして彼女の頭を掴んでいる。
エミリーは驚いて、ミカの顔を見た。そして、ようやく【今の記憶】と【昔の記憶】が符合した。
『……マイケル?』
その名前で呼んだ途端に、彼は眉を顰めた。
『……随分と悪い子だな。どうして、この瞬間に思い出したりするんだ?』
言われてエミリーは呆然とする。ミカの頬を見ると、僅かに血が付着していた。気づけば、ミカは全身に血塗れだった。
『血が着いてるわ!? どこか怪我したの!?』
言ってエミリーは、激しい違和感を覚えた。
(今の台詞……以前にも同じ事を言った?)
【ミカ……服に血が着いてるわ……どこか怪我をしたの?】
それを言ったのは幼い自分だ。横を振り向けば──16歳のエミリーの眼前に、7歳のエミリーがいた。幼いエミリーはパジャマを着て、腕に白い兎を抱いている。
『止めろ! 思い出すな!』
ミカはエミリーを抱き寄せて制止する。
『どうして、思い出してはいけないの!?』
不意に、母親の姿が目に映る。母親もミカ同様に血塗れだった。
『ママ!!』
思わず叫ぶと、母親は泣き崩れて、その場に踞った。
『ママ!? どうしたのママ!?』
そう何度も声をかけたが返答は無い。
『ミカ! 離して! ママが……』
するとミカは、母親を睨んで怒鳴り付ける。
『邪魔をするな!! 今すぐ、夢を終わらせろ!!』
辺りが一気に光り出して、エミリーは反射的に目を瞑った。
──ここで夢は終わる。
エミリーは、目が覚めて直ぐに飛び起き──額と鼻を強くぶつけた。
『──っ!?』
顔面を押さえて悶絶し、横たえた体を左右に転がす。チクチクとしたカーペットの繊維が、腕と脹脛に当たる。エミリーは痛みを堪えて、ゆっくりと目を開けた。
周囲は真っ暗だ。手を伸ばせば天井が眼前にあり、左右の空間にも壁がある。不規則な振動と、車のエンジン音が響いていた。
どうやら自分は、車のトランクに閉じ込められているらしい。それに気づいた途端にパニックを起こして叫んだ。
『開けてー!! 出してー!!』
暗闇は嫌だ。暗闇は怖い。自分はもう16歳で、小さな子供ではない。だが、それでも──
(暗い場所は嫌だ! 暗い場所は──)
──思い出してしまう。酷く悲しい記憶を……
夜暗くなると、男女の口論が聞こえて来る。それを聞くのが嫌で、毛布を被り、耳を塞ぐ。側にはメアリーがいて、自分と同じように毛布を被り耳を塞いでいた。
口論の声が次第に大きくなり、女の悲鳴が一瞬あがった。後は決まって、一晩中啜り泣く声が聞こえるのだ。これを聞く度に【ああ、自分達は愛されていない】と言う気分になる。
──それが辛く……悲しい。
『誰かー! ここから出してー!』
エミリーは叫びながら、徐々に記憶を取り戻していった。幼い頃の思いが鮮明に甦る。
──朝起きて、母親の顔に痣を見つけるのが辛かった。
──傷ついた家具や割れた食器に、暴力の痕跡を見るのが悲しかった。
──それらの理不尽に対して、抗議すると必ずこう言われるのだ。
【何も知らない子供が口を出すな】
『止めて! こんな記憶要らないわ! 思い出させないで!』
つい、そんな言葉が口から出て、涙が溢れた。
『違うわ! こんなの間違った記憶よ! パパはいつも優しかった!』
父親はいつも寝る前に絵本を読んでくれた。子守唄を歌い、おやすみのキスをしてくれた。
そんな父親が母親に暴力を振うなど……考えられない。
(…………でも……本当に?)
果たして自分は、母親が笑った顔を見た事があっただろうか?
記憶をいくら掘り起こしても、元気に笑う母親の顔を見た事が無い。
(じゃあ……パパは?)
それに気づくと共に、昼間に見た夢を思い出した。
──ミカとよく似た背格好の父親。顔と声さえ隠せば、どちらがミカで、どちらが父親か分からない。
(私に……私達に……優しくしてくれたのは……どっちだった?)
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チェスターは人狼とエミリーを探して公園内を駆けていた。
日没が近い。もう園内に残っている人間は少なかった。
(どこだ? どこにいる?)
気持ちばかりが焦り、次第に冷静さを失っていく。
(失いたくない……今、ここでエミリーを失う訳には……)
浮かんだのは慕っていたジョーが殺された瞬間だ。あんな理不尽はもう二度と経験したくない。
(もし、エミリーがジョーのように殺されてしまう事があれば……)
それは──世界の終わりに等しい気がした。何かに縋って慈悲を乞いたいような感覚に襲われた。
(下らない!! 今更、祈りなど……)
チェスターが神に祈らなくなって、もう随分となる。ジョーが殺されてから彼は信仰を捨ててしまった。吸血鬼になってからは完全な無神論者になっていた。
(俺は祈らない! ……祈りなど!)
──何故、人は祈るのだろうか?
──何故?
──どうして?
多種多様な文化が存在するにも拘わらず【祈り】は万国共通だ。その対象、形式に違いはあるけれど、本質は相違無い。
──それは【希望】だ。
希望を願う心が転じて祈りになるのだ。他者に縋りたいのではない。希望を信じたいから人は祈るのだ。
──希望とは未来だ。
──未来とは前進である。
それを奪われそうになった時、祈る気持ちが自然と生まれるのだ。
(馬鹿馬鹿しい……祈ったところで……何が変わると言うんだ……)
チェスターは焦燥感に駆られ、心の制御を失いつつあった。園内をいくら探しても、彼女は見つからない。
生い茂る木々の陰、長い遊歩道、池の隣にあるポンプ小屋、小さな遊具、それら全てを確認して──絶望する。
(頼むから……奪わないでくれ……俺から……大切な人を奪うのは止めてくれ……)
こんな理不尽な別れは到底受け入れられない。エミリーを失うなら心臓をもがれた方がマシだ。
『エミリー!!』
思わず、全力で彼女の名前を叫ぶ。広い園内に悲痛な声が空しく響いた。
(……返してくれ…… 頼むから……どうか……どうか……)
諦めたくない。諦められない。絶望的な状況下だとしても、希望を信じていたい。未来に向かって前進したい。
──エミリーは希望であり、チェスターにとっての未来だ。
『……どうか……エミリーを返してくれ……』
──気づけば、自然と声に出していた。
──それは祈りの言葉に違いない。
チェスターは、公園から遠ざかる人の気配を追った。それ以外、めぼしい手掛かりが無かった。
だが、気配を辿って追い付いてみれば、その殆んどが無関係な人間ばかりで、エミリーの姿は何処にもない。
最後に辿った気配の正体も、見るからに無関係な男性だった。彼は、公園に隣接した駐車場にて、毛深い小型犬を連れ、車に乗り込もうとしている。
チェスターはその男性を見て酷く脱力し、堪らずしゃがみこむ。負傷した体に鞭を打ち、無理をしたツケが回ってきた。
(……どうすればいい? 落ち着け……ヴィヴィーに連絡を取って……捜索を……)
すると不審に思ったのか、小型犬を連れた男性が、チェスターに声をかけてきた。
『大丈夫かい?』
『俺に構うな!』
チェスターは苛立って、つい怒鳴りつける。だが、男性は怯まない。乗り込もうした車のドアを閉め、チェスターに近寄る。
『……君、ひょっとして、誰かを探している?』
チェスターはその問い掛けに対して、黙りこんだ。返答する気力も余裕も無かった。
『……さっき、公園で誰かの名前を叫んでいたのは君か?』
チェスターは男性を無視して立ち上がり、その場を去ろうとした。無関係な人間に、構っている暇などない。
(一刻も早く、エミリーを救出しなければ!)
『赤毛の女の子なら、さっき見かけたけどね』
チェスターはハッと振り向いて、男性を見た。彼は続けて言う。
『もし君が探してる人が、赤毛の女の子なら、さっき駐車場で見たよ。丁度そこの──』
『どっちに行った!?』
チェスターは男性の言葉を遮り、彼の胸倉を掴み上げる。
『苦しい……落ち着いてくれ……』
『言え!』
チェスターがそう命令すると、男性は無表情になり、感情の無い口調で喋りだした。
『……彼女は男と一緒にいた。水色のフォード・マスタングに乗せられて、南の方へ……』
それを聞いて、チェスターは躊躇なく、男性の首に噛みついた。彼を殺さない限界まで血を吸い、そして一言『悪いな』と囁き、地面にそっと解放した。男性は力無く横たわる。噛みつかれた傷口は、綺麗に塞がっていた。
そのすぐ側で、男性の愛犬がキャンキャン吠えて、チェスターを威嚇する。
チェスターは男性の車を奪い、彼が告げた方角へと向かう。手掛かりを得た幸運に、思わず【何か】に感謝した。
その対象が、神かどうかは分からない。それでも──祈らずにはおれなかった。
(エミリー……無事でいてくれ!)
置き去りにされた男性は、虚ろな目をして走り去る車を眺めていた。彼はゆっくりと起き上がり、溜め息を吐いた。
『……駄目じゃないか、チェスター……暗示は最後まで完璧にかけなきゃ、意味が無いよ』
彼──ロバートはそう言って、僅かに笑った。
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