第123話 【1944年】◆◆利一と月の兎◆◆
【1944年】
利一はしゃがんで兎に手を伸ばし、ふわふわとした柔らかな毛並みを撫でた。兎は大層不服な様子で、少年に抗議する。
『信じらんねぇ!? 人間の従魔に成り下がるなんざぁ、有り得ねぇ!!』
『嫌でも、すぐに信じるよ。文句を言わず、俺に協力しろ』
言って利一は兎を抱き上げた。
その様子を見ていたミカは、ヒューっと軽く口笛を吹いて、遅い拍子の拍手と、冷ややかな視線を利一に送る。
利一は気まずそうにミカを見た。今までの隠していた事を、眼前で披露したのだ。冷たい目で見られても当然だろう。
「……」「……」
「……」「……」
「……」「……」
「……」「……」
「……」「……」
「……」「……」
「あの──」「知っとった」
「へっ!?」「最初からな」
利一が説明しようとすると、ミカはその言葉を遮り【知ってた】と暴露する。
「えっ? えっ? 知っとった?」
ミカは焦る少年に対し、歯を見せニンマリと笑った。
「今のも、従魔に下す呪術なんやろ? それとも……今のが、か?」
「今のも、や。……黙っとってゴメン」
「ええよ。最初にその話を聞いた時、何となく……隠しとるなって思っとったし」
ミカは肩を竦めて言った。
(……最初から、見透かされとったか)
利一の浅知恵は、ミカには通用しなかったようだ。
『利一、もう1羽も従魔に──式神に下してしまおう』
利一は頷いて、ミカが捕らえていた兎を白い籠玉に閉じ込める。先程の兎同様、籠玉が収縮して、式に下った兎が現れた。こちらの兎は、最初に下した兎よりも従順だった。
『おい、坊主。俺達に協力して欲しい事ってなんだ?』
利一に抱かれていた兎が尋ねる。
『お前達は、空間に穴を開けて表と裏を往来出してるだろう?』
『……そうだ。それがどうしたってんだ?』
『俺にも潜らせてくれ! その穴を!』
『はぁ?』
『日本の……俺の家に来たのは、お前か?』
言われて、もう1羽が耳を伏せる。
『……そうか、お前か』
指摘された1羽は忌々しそうに、少年を睨む。その兎こそ、利一が庭で最初に出会った兎であり、トンネルで逃がしてしまった兎だ。
『俺を覚えているか?』
『勿論、覚えてるよ。僕を追って、穴に落ちた子供だろ?』
利一は真っ直ぐに白い兎を見つめ、力強く頷いた。
『ああ……そうだ。あの時は追い回した上に捕まえたりして、すまなかった。俺は家に帰りたいんだ。協力してくれないか?』
『嫌な言い方をするね。従魔に拒否権は無いのだろう? 命じればいいじゃないか……そうすれば僕達は否応無しに働く』
『それは、つまり……俺は家に帰れると言う事か?』
利一の声色に希望が滲んだ。
『……保証はしない。裏側は強力な呪いの壁で閉ざされた世界だ。僕達は通行出来るけれど……人間や他の怪物は特別な呪いを付与しなければ、壁を突破出来ないと聞き及ぶ』
そこでミカが口を挟む。
『その点は問題無い。この子自身に特別な加護が付与されているからね。壁は無いも同然だろう』
『──だろう? 曖昧だな。無謀な賭けに等しい……
』
『賭けでも良いんだ。寧ろ賭けるしかない。お前達に拒否権が無いように、俺には選択肢が無いんだ』
利一は吐き捨てるように言って、拳を握る。その様子をミカは見逃さない。握られた小さな拳に、複雑な感情が込められている事を察した。
『随分と必死だな……事情は知らないが……』
『頼む、やってくれ。日本に帰る為の穴を開けて欲しい』
『一応はやってみる……が、大体の座標しか覚えていない。君の家を目指して穴を開けたとしても、多少の誤差が出るだろう』
『どの程度の誤差だ?』
『15マイル程』
「15哩!?」
15哩は、どれ程の距離だったか──尺貫法の里に換算しようと頭を回転させて──とある小説で読んだ【10哩は凡そ4里】と言う一文を思い出した。
(ほな……15哩は5里以上ある……?)
それだけ距離に誤差があるならば、家を目指しても最悪、海に出る可能性がある。利一はそれに気づいて、直ぐ様、慌て出す。
「そんなん困る!!」
利一は思わず、母国語で口を衝く。
『当然、最悪の想定も必要だ』
兎は淡々と無機質にそう言った。
『議論しても進まない。ものは試しだ。利一、やってみよう』
ミカはそう言うが、不安は拭えていない。そもそも、壁もとい檻を突破する事さえ、理屈の上では可能でも、実際にやるまでは机上の空論に過ぎないのだ。
よしんば、上手く突破出来たとしても、出た先が海上では溺れてしまう。
賭けるしかないと言ったのは自分だが、思わぬ不安要素を追加され、利一は戸惑いを隠せない。恐れを払い除ける何かを求めて、少年は兎に尋ねる。
『やる前に聞きたいんだが……表の世界の殆どが海だろ? つまりは海上に出る確率が高いって事だ。なのに何故、お前達は無謀にも穴を開けて移動するんだ?』
その問い掛けに、兎達は顔を見合せ、ミカも目が点になる。
『え? なんだよ?』
『利一……表の殆どは虚空だ』
言われて利一は目が点になり、間を置いてから「あっ」と、気づいて声を出す。
──人類と怪物は、広大な宇宙空間の中に浮かぶ小さな星に生まれただけで、その星が世界の全てではない。
──少年の頭に浮かんだのは、お伽噺の月に降り立つ兎と、兎を出迎える十二単の輝夜姫だ。
「……ミカは、他の星に行った事あるん?」
利一は思いつきで、そんな事を尋ねる。
「まさか。無いわ。でもきっと、他の星にも生命がおって……その星に住まう怪物がおるんやろな……」
話は壮大に逸れてしまったが、利一はまたも固定観念を覆され、奇妙な解放を感じる。
──利一が知らない世界が無限大に広がっている……
そう考えると、何とも言えない不安な気持ちが湧いたが、それと同時に、卑小な井戸の中に、思考を閉じ込めていたと気づかされる。
(まるで蛙や……)
『さっきの質問だけど……僕らだって、手当たり次第に穴を開けたりはしないよ。でも、身に危険が迫れば、仕方無く穴を開けて脱出する必要がある……ただそれだけさ。普段は決まった座標に穴を固定し、その上で表と裏の世界を往来している。決められた出入り口であれば、海上に出る危険は無いからね』
『じゃあ、うちの庭に出現したのは危険を回避した末か? 何から逃れようとしていたんだ?』
すると、兎に緊張感が走る。何かを思い出したようだ。
『……それが僕にもよく分からないんだ。攻撃を受けて、逃げたしたのは確かなんだけど……相手の姿を確認する余裕が無くて……とにかく、がむしゃらに逃げて……行き着いた先が利一の家だったんだよ』
兎の話をまとめると、兎は裏側で何者かに襲撃され、一時的な避難を余儀無くされた。その避難場所として、偶然、柏木家の別荘に出たのだと言う。
兎は表の世界に出てすぐ、固定された穴を通じて裏側へ帰ろうとして──利一に見つかった。
兎にとって想定外だったのは、利一が無効化の加護を受けていた事だ。そのせいで【人避けの呪い】を施していた筈の壁をすり抜けられ、トンネル内への侵入を許してしまう。
『なんとも……奇妙な偶然が重なった事故だな……』
兎はそう言った。確かに話を総合すれば、これは事故だ。
──兎が襲撃を受けなければ……
──避難場所の座標をずらしていれば……
──利一が疎開していなければ……
──龍神の加護がなければ……
──トンネルに……ミカがいなければ……
何かが1つでも違っていれば、今の状況は有り得ない。利一は裏側に来る事も、ミカと出逢う事も無かった。
仮に来たとしても、あの時、ミカがいなければ利一はレッドキャップに殺されていただろう。
奇妙な偶然が重なった不慮の事故であり、不幸中の幸いとも言える2人の遭遇。
『……運が良いのか悪いのか分からないな』
利一がそう呟くと、ミカが日本語で尋ねた。
「なぁ、利一……君の無効化の力……制御する事は可能なん?」
「え?」
「その力を制御して……俺も一緒に【檻】の隙間をすり抜けられへんかな?」
「そんなん、急に言われても……」
「可能であれば、例え出た先が海上であれ、戦場であれ、俺が利一を守る。守って家まで送り届けたる」
一筋の光明が見えた。利一が無効化の加護を自在に操れるなら、ミカを表に連れ出す事が出来る。海上であっても、飛翔してしまえば問題無い。
「……やってみる」
利一はそう言って、兎に事情を話す。
『やっぱり、いきなり試すのは止めだ。まず別の事に挑戦する。それが終わってから、俺の家に通じる穴を開けてくれ』
兎達は了承し、一行は一先ずマグダレーナの城に戻る事になった。
【作中解説】
15哩は約6里(約24キロメートル)
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
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