第10話 【4月25日】理子と振り払われた手
ずぶ濡れの理子を乗せた車は、閑静な町並みを走っていた。ゆったりとした道幅や、すれ違う車の種類から、この地域に住まう人々の層が窺えた。
現代的なデザインの家が建ち並ぶ一郭に、柏木の自宅はあった。高校の非常勤講師が住むには、似つかわしくない一軒家。玄関だけで、理子の自室程の広さがある。
靴と靴下を脱いで、理子は家の奥へと入る。天井が高いせいで、理子は頭上の空間に違和感を覚えた。
案内された脱衣場で、濡れた衣類を全て脱ぎ、海水と豪雨で冷えた体をシャワーで温める。掃除の行き届いた風呂場は、使っていて心地良かった。入浴前に渡されたバスローブに腕を通し、理子は脱衣場を後にした。
リビングに行くと、大きなテーブルにティーセットが用意されていた。
「何か飲む?」
柏木にそう訊かれ、彼女はお言葉に甘えて紅茶を頂く事にした。紅茶が出されるまでの間、理子はソワソワと落ち着かない様子でリビングを見渡す。
一方、柏木は呵責と後悔の念に襲われていた。これまでの軽率な行動が、結果として彼自身の首を絞めていた。
認めたくは無いが、否定する事が出来ない感情にまごつく……
海からの帰路の途中、つい彼女を帰したくない衝動に駈られ、理子を自宅に連れ込んだ。その事を、今更ながら悔やんでいたのだ。
柏木は身に付けていたペンダントを、シャツ越しに触る。己を戒めたい時に、ペンダントを触るのが彼の癖だ。ソファーの隣に座る理子は、そんな彼の心情を知る由も無い。
柏木は温めたポットに茶葉を入れ、熱湯を注いだ。
それから用意していた砂時計をひっくり返し、3分待つ。砂が落ちきったタイミングで、回転式のティーストレーナーを用いてカップに紅茶を注ぐ。
「美味しい! こんなに美味しい紅茶は初めて!」
柏木が淹れてくれた紅茶は驚く程美味しかった。普段、安物のティーバッグしか飲まない理子にとって、一種のカルチャーショックに等しい。
「ホンマ? 良かった」
柏木が微笑む。
「あっ……濡れた服の洗濯せなアカンな」
「あっ!(マズイ! 下着は触られたくない!)自分でします!!」
理子は慌てて柏木を制止した。脱衣場に戻り、濡れた服を自分で回収すると、別室にある乾燥機能付きの洗濯機に放り込んだ。洗濯機の隣にはガス式の乾燥機もあったが、全自動で洗いから乾燥までを選ぶ。
(今日の服がおしゃれ着じゃなくて助かった……)
おしゃれ着と呼ばれる服の大半は、乾燥機などの温風に弱い。下手に使えば、2度と着れない事もある。今日の服装がラフなものだった事を幸運に思いつつ、理子は全自動のボタンを押す。
「乾く迄の間、ピアノでも聴く?」
柏木の提案に、理子は目を輝かせた。
案内されたのは、贅沢にも防音を施された部屋だった。大きなグランドピアノが、部屋の大部分を占拠している。
柏木はピアノの屋根をゆっくり開け、突き上げ棒を直角に立て掛けた。彼の動作の一つ一つから、ピアノをとても大切に扱っているのが伝わる。
「何がええかな?」
「何でもいいの?」
「何でも弾けるで」
「何でも?」
「何でも」
言葉を掛け合いながら、理子はリクエストを考える。
「何か……難しそうなヤツ」
「ぷっ……何やそれ」
笑いながら柏木はリクエストに応える。
彼が弾いたのは《月光第三楽章》
これは素人が簡単に弾ける曲では無い。音と音が重ならない様に指をよく動かし、手首を軸に左右に半回転運動をしなければいけない。非常に難易度の高い曲である。
理子は彼の演奏を間近で観賞し、指が鍵盤の上を踊っている様だと思った。
「ちょいミスった」
曲を弾き終えた柏木が、そうぼやくも、 理子にはミスした箇所が分からなかった。ただ、とんでもなく難易度の高い曲だとは思った。
その後も、理子の大雑把なリクエストが続く。流行りの歌からアニソンまで、柏木は知ってる範囲でリクエストに応じた。
時間はあっと言う間に過ぎ……2人で服を確認しに行く。理子の濡れた衣類はすっかり乾いていた。後は理子が着替えれば良い。
「ほな、俺向こう行くわ」
柏木はそう言うと、脱衣場から理子を置いてその場を離れようとした。
しかし……背後から腰あたりの服を引っ張られて、彼は立ち止まる。理子が無言で服の一部を掴んでいる。その手は少し震えていた。
柏木は後ろを振り向けない、理子の顔を見るのが怖かった。自分の中の戒めが崩れてしまう気がしたからだ。
理子は無言だが、その胸中は穏やかでは無い。
(何でこの状況で引き留めた、私!! 馬鹿か!?)
柏木に側にいて欲しい……自然と理子はそう思った。彼の服を掴んだのも、殆ど無意識の行動だった。
柏木はペンダントを握り締める。
「すまん」
彼はそう、か細く呟くと服を掴む理子の手を軽く振り払い、脱衣場を出た。柏木は自分の殻に引きこもり、己の気持ちに蓋をした。理子に対する気持ちが何も無ければ、ここまで拒絶はしなかった。通常の彼ならば、もっと上手く対処出来た筈だ。それが出来ないのは心に余裕が無いからである。
理子は拒絶されたショックと恥ずかしさから、その場にしゃがみこむ。胸の中で、色々な感情が渦巻いていた。自分が情けなかったし、またも恥ずかしかった。拒絶されて悲しかった。
柏木に対する、好意が芽生えている事を自覚した。
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理子の着替えが終わってから、柏木は彼女に話しかける。
「……家まで送るわ」
理子は無言でずっと下を向いていたが、柏木に促され玄関へと向かう。濡れた靴の代わりにサンダルを借り、ガレージに出た。
柏木の車は2台あった。1台は通勤用。もう1台は今日海まで乗った車だ。こちらは座席が濡れていて、乗れそうにない。
仕方なく、2人は通勤用の車に乗り込んだ。理子は助手席ではなく後部座席に乗った。柏木の隣に座る事は憚られた。
今日一日で一番気まずい空気の中、柏木は理子を送り届けた。車内で2人は一言も発しない。理子の家に辿り着き、車を降りてから、柏木がやっと声をかけた。
「……理子」
理子は振り向かずに、涙が混じる声で告げる。
「もう名前で呼ばないで!」
そう言うと、理子は足早に家へ入る。やや乱暴に戸を閉め、自室に駆け込み、ベッドに突っ伏してまた泣いた。