第八話 加冠
東の空が白み、微かに黄金色が差す頃。二階堂一族縁のお堂近くの邸内では、密やかに粛々と儀式の準備が行われていた。
白檀と菖蒲、蓬の入り混じった清々しくもどこか厳かな薫物が、辺りを守るように包み込む。十二歳となった羅睺の『元服の儀』が行われるのである。
今、椿が乳母と二名の侍女を従え、彼女たちの立ち会い見守る中、羅喉は水浴びで全身を清めている。
何もかもが異例ずくめの儀式だ。通常、元服は五歳から二十歳の間と幅広く、戦の都合や御家の事情により決められる。男子の成人の儀式であり、水干から直垂の大人の衣装に着替え、男児の髪形、総髪(※①)から髷(※②)を結い上げ、烏帽子を被る。そして最も重要なのは、幼名から諱を賜る事である。諱は忌み名であり、主君か両親しか本名で呼ぶ事は許されない。何故なら本名は魂を支配すると考えられていた(※③)からである。故に、諱を授ける役目は主君や後継人の立ち場にいる者が殆どであった。以下、一般的な儀をあげておこう。
「加冠の役」、いわば烏帽子を被せる役目を担うもので烏帽子とも呼ばれる。儀式の中で最も重要なものであり、家臣まやは親族の重要人物からまたは父親が選出される。これは元服の儀式のなかで最も重要な役割となり、後見人のような立場とし、義理の親子の契りを結ぶ儀式も兼ねている。烏帽子親を権力者に引き受けて貰える事で、今後の出世も望めるのである。
「理髪の役」、髪を結い上げる役。
「烏帽子の役」、烏帽子を持つ役で、理髪の役が担う。
「泔杯の役」、米の研ぎ汁を入れる容器を持つ役。髪を整える際に使用。
「打乱箱の役」、理髪で切り落とした髪をおさめる箱を扱う役。
「鏡台并鏡の役」、鏡台を扱う役。
このように役目が決められ、厳かに儀式が行われた。
二階堂一族の元服の儀式は、「諱を授ける役目」は有恒の卜いにより禍津日神の御神託により決められる。「加冠の役」は佳月が、「理髪の役」と「烏帽子の役、泔杯の役」「打乱箱」「鏡台并鏡の役」はそれぞれ代々二階堂家に仕える忠実なる家臣たちが選ばれた。
佳月も、そして椿も、息子が成人の仲間入りをする事は喜ばしい半面、ついに人柱の宿世の事を伝えねばならぬ事、そして間もなくそれが行われる事に胸が潰れそうな想いを抱えていた。だが、家臣たちの手前、堂々と凛然と振る舞わねばならない。
一方、羅喉は水を浴びながら今朝方見た不思議な夢を思い返していた。夢と呼ぶには、あまりにも生々しいものであった。濡れた白銀色の髪は、銀色に耀きながら額に、顔に、背中に流れる。
『……羅睺、羅睺』
どこからか自分を呼ぶ声が響く。目を覚ますと、塗りつぶしたような暗闇が広がっている。
『羅睺、羅睺!』
気のせいではない、声は頭上より響いて来る。錫杖のように厳かで澄んだ声だ。不思議と怖さは無い。ゆっくりと起き上がり。虚空を見上げた。
「どなた、ですか?」
声をかける。するとボーッと仄白い光が浮かびあがった。それは月の光を思わせ、どことなく己が身に着けている蜂比礼の褥を思わせる。その光は徐々に明るさと大きさを増し、光に包まれた人型のようなものが浮かびあがった。
それは純白の束帯装束のような衣装に身を包み、烏帽子はつけていない。そこには金色の絹糸のような髪が腰の辺りまで水簾のように優雅に流れていた。優雅な眉に豪華な金色の睫毛、上品な二重瞼に緩やかな弓なりの瞳。その色は深い蒼色で、さながら瑠璃(※④)のようだ。雪のように白い肌、華奢で嫋やかな体付き、優男とも女性ともつかない優しく儚げな美貌の持ち主であり、この世の者では無い透明感を醸し出していた。
「……あなたは一体?……何故、私の名を?」
羅睺の問いに、その者は悲し気に微笑んだ。
『私の名は夕星(※⑤)。そなたも聞いた事があるであろう?』
「夕星……様……」
羅睺はすぐに思い当たった。幼い時より繰り返し繰り返し聞かされてきたこの世とあの世の階層、そして十種神宝の話、そして……信濃国、二階堂一族が治める土地のみが災厄もなく、豊かな恵みに溢れているその秘密を。
「……あなたは、炎帝様の前の代の……」
およそ五十年に一度、禍津日神を始めとした夜や闇を統べる神々と、魔を司る妖しのモノ達にその身を捧げる人柱が存在する事を。その贄によって、肥沃の大地と平和が維持されているという忌まわしくも哀しい事実を。
『ええ、その通りです。あなたに伝えたい大切なお話があります』
夕星はそう言うと、ふわりと羅睺の目の前に降り立った。
(※①…今でいうところのポニーテール)
(※②…冠下の髻~かんむりのしたのもとどり~と呼ばれる髪型)
(※③…既に佳月や椿を始め、物語の便宜上、登場人物が本名で呼ばれる事を今後ともどうぞご了承下さいませ)
(※④…ラピスラズリ)
(※⑤…金星の和名)