第四話 聖域
「ははうえ! ふじのおはなに、しろいちょうが!」
まだよく口が回らず、そしておぼつかない足取りで、嬉しそうに山藤を指す童の姿。淡い空色の水干姿が、ちょうど蒼天に溶け込みそうだ。豊かな白銀色の髪が、穏やかな陽射しに煌めく。深い紫色の瞳は光の加減で時に淡い菫色に、時に深い花菖蒲色に変化して見える。それは感情によっても変化するようで、嬉しい時は明るい紫色でキラキラと輝き、哀しい時や思案中などは深い紫色に艶めく。実に神秘的だ。
「白い蝶と藤に花、緑の葉が素敵ね」
椿の方は口元を綻ばせる。
「香りも良いな」
椿の左隣にいた佳月は、そう言って香りを味わうように瞳を閉じた。
「羅喉様、そんなに走られては、転びでもしたら!」
影のように付き添っていた梅子が、焦って声をかける。父親に抱かれていた羅喉は、城の中庭に出た途端に歩きたがった。梅子はハラハラし通しだ。転んで怪我でもしたら大変だと気が気ではない。
「まぁまぁ、乳母やったら大げさな」
椿はクスクスと笑う。
「大げさだなんてとんでもない!」
食ってかかりそうな勢いで梅子は異を唱える。大事な人柱、という事も勿論あるが、何よりも主の御子だ。その上過酷な宿世を背追っているのだ。元服を迎える前までは、出来るだけ病も怪我も悩み事も無縁の生活を送らせてやりたかった。話には聞いていたとは言え、生まれたばかりの羅喉を見た時は恐怖の念を覚えた。美しいとは言え、瞳も髪も異形の姿に。だが、子守役として彼に接するやいなやたちまち愛情が芽生えてしまった。
「いや、少しくらいの痛みや怪我は身を持って知らねばならんと思うぞ。大事にし過ぎるのは、この子の為にはならん」
佳月は諭すように言った。
「そんな! 佳月様まで……」
梅子は不服そうだったが、主人に逆らう訳にはいかない。それに尤もな意見だった。
中庭は楓や銀杏、桜や椿、花橘などの花木を始め、四季折々の花々が楽しめるように沢山植えられている。歩く場所には白い小石が敷き詰めらて、中央には鹿威しと池があり、優雅に鯉が泳いでいた。貴族の邸の大半を占める書院造りの庭を意識して作られているようだ。
「さて、羅喉や。十種神宝のお話の続きをしようか」
佳月は息子に優しく声をかけた。夢中で蝶を捕まえようと奮起していた彼は、パッと振り返り瞳を輝かせて破顔した。
「はい! ちちうえ!」
と幼子らしい可愛い声で元気よく答えると、よちよちした足取りで父親の元へと懸命に走り出した。梅子がぴたりと後を追う。
羅喉は、城内と城より直径一里ほどの区域で、信頼できる限られた者たちのみと接して生活できるよう、徹底されていた。
「ちちうえ、とくさかんだから、ぜんぶもってるとどんなおねがいもかなうのでしょ?」
羅喉は無邪気に父親を見上げる。二人は今、城内の佳月の書斎部屋にいる。様々な書物が保管されている十六畳ほどの部屋だ。
「あぁ、そうだよ。今はばらばらに散らばってるから、全部集める事は難しいのだけれどね。どの恩宝がどこにあるのかも、本当のところは誰も分から無いんだ。国の安泰を願い、悪い霊を祓うと言われる、八握剣は、代々帝になる方が受け継いでおられる、というお話だけれどね」
(その十種全てを我が手中におさねられたなら、この子の贄を反故に出来るのに……。そして悪しき伝統など白紙に戻し、信濃国だけでなく、この和の国全てに平和をもたらす事を願おう。神も妖も全て互いの領域を侵さぬよう厳しい制約も設けられすのに……)
佳月は笑顔で息子に応じながも、内心では胸が張り裂けそうだった。
「そしたら、ははうえもちちうえもばあやも、みんなたのしくいられる。わたしがいつか、そのすべてをあつめてさしあげたいなぁ」
羅喉は夢見るように空を見上げた。双眸は明るい紫色に移り変わり、きらきらと輝き始める。
「どうしてそのような事を?」
佳月は不思議に感じた。まだ、息子自身の宿世の事には一切触れていないし、まだ幼い事もあり、人以外の存在の事は軽くしか教えていないからだ。
「だって、ははうえもちちうえも、ばあやも。のぶゆきにまさのりだって、ときどこかなしそうなおかおになるから」
羅喉は小首を傾げながら答えた。
「羅喉っ!!!」
佳月はたまらなくなって息子を抱き締めた。
「ちちうえ?」
羅喉は不思議そうに目を見開く。
(この子はまだこんなに幼い内から、無意識に己の使命に何かを感じ取っているのだろうか。私たちの心の奥を見透かしていると言うのか……)
息子の宿世に抗う事も出来ず、ただ流されている自分が情けなかった。代われるものなら代わってやりたい、何度思った事か。
「……ちちうえ、ないてらっしゃるのですか?」
小刻みに震える父親の腕の中で心配そうに問いかける。
(泣いてはいけない! そのような場合ではない! 導く立ち場にある私が、息子に心配されてどうする?!)
佳月は己を奮い立たせた。
「いや、お前は優しい子だな。思わず抱きしめたくなったのだよ」
息子に見えぬよう抱きすくめたまま、右手で涙を拭う。
「さて。我が二階堂家に代々受け継がれている御宝を教えようか」
そっと腕を外し、息子を解放する。
「わがやに?! おたからのひとつが!」
羅喉は嬉しそうに爛々と目を輝かせた。
「あぁ。ついておいで」
佳月は立ち上がると、右手で息子の左手を取った。
佳月はそのまま真っすぐに足を進める。そして書物が置かれている六つの棚のうち、右から二番目の棚の上に左手を置いた。その棚は他の棚同様、佳月の腰の位置あたりの高さで細長く、木目が美しいものだった。
『少し離れて見ててご覧。いいかい、これから行くところは二階堂一族の秘密の場所なんだ。何があっても静かにしておいで』
佳月は屈み込むと、息子にそっと耳打ちをした。羅喉はこっくりと頷くと、三歩ほど後ろに下がる。佳月は息子に意味あり気にニヤッと笑って見せると、今度は両手を棚に置いた。そして棚の両脇を持つようにしてゆっくりと棚を時計回りに回していく。その棚が真横になったところで手を止めると、隣の棚との間が丁度ひと一人通れる広さになった。そこで突き当りの壁に左手を翳すようにしておく。すると壁がすーっと音もなく開いた。いや、壁が開いたというよりは壁に見せかけた扉というべきか。
(あっ! ひみつのおへやだ!)
羅喉は驚きの声をあげそうになるのを両手の平を口にギュッとあて、必死で堪えた。何故か不安と希望が入り交じったような不可思議な予感がした。
『おいで』
小声で呼ぶ父の元へ足早に向かう。父親は息子を隠し部屋に先に入るよう促した。中は墨を塗りつぶしたように暗闇が広がっている。無意識に父親の狩衣の端を右手で握り締めた。息子が自らの衣装を握り締めている事を微笑ましく感じながら、佳月はどかした棚の後ろ側に設けられていた扉を開けると、燭台と火打石を取り出した。そして棚を元に戻し、息子と共に室内に入ると静かに扉を閉めた。暗闇の中、慣れた手つきで火打ち石をこすり合わせてすばやく火をつける。そして燭台に灯りを灯した。
(ちちうえ、すごいです)
その手際の良さに、羅喉は憧れの念を抱く。
浮かびあがった光景は、十二畳一間ほどのこじんまりとした部屋だった。真ん中には一畳ほどの大きさで、佳月より少し高いくらいの祭壇が設けられている。祭壇の周りは、こよりをつり下げたしめ縄で囲い、入口には左右に狛狐の石像が置かれている。石像はちょうど羅喉と同じくらいの背丈だ。
佳月は燭台を入り口に置くと、息子の手を引いて祭壇に向かった。燭台炎が揺らめくごとに部屋に浮かび上がる影も揺れる。いつか乳母から聞いたお伽話に出て来るような恐ろしい魔物でも出て来そうだ。羅喉は急に怖くなって、父親の手にしがみついた。
『大丈夫、怖いものではない。むしろ私たち……いや、特にお前を守ってくれるものだ』
佳月は優しく息子の頭を撫でた。そして握っている小さな手を包み込むようにして力を入れると、そのまま祭壇に進んだ。羅喉は父親にしかみついたまま怖々と歩く。狛狐の間を通り過ぎた。
(こわいよ、こわいからこっちこないでね、かみつかないでね)
狛狐などは、燭台の灯りでおどろおどろしい影を作り今にも羅喉に襲いかかってきそうに見えた。
『さぁ、両手の平を胸の前で合わせてお辞儀をして』
羅喉は頷くと父親に倣う。父子は同時にお辞儀をした。
『これが、二階堂家に代々伝わる御宝、十種神宝のひとつだ』
佳月はそう言って、祭壇に祀られていた布を両手で丁寧に取った。それは墨色の布に包まれており、丁寧に布をめくる。
『うわぁ……きれい』
羅喉は感嘆の溜息をついた。中から出てきたものは、青みがかった純白の布だった。まるで内側から光を放っているように輝き、薄暗い部屋全体を照らす。それはまるで夜空に輝く月のようだった。月の光で織られた布と呼べそうだ。
『これはね、蜂比礼と呼ばれる魔除けの布なんだよ。天空からの邪霊、魔物、妖魔、悪霊から身を守る御宝でね。霊、魔物、妖魔、悪霊などの不浄なモノの上に被せる事で、魔を封じ込める事も可能だと言われてるんだ』
父親の言葉は、じんわりと羅喉の胸に響き渡る。
(なんだろう? ちちうえからはじめてきくおなはしなのに、まえからしってるようなかんじがするのは)
そして不思議な既視感を覚えた。ある疑問が芽生え、素直に言葉にする。
『おそらからのコワいモノからまもるものなら、ちからのコワいものをまもるものはあるのですか?』
佳月はほんの一瞬、哀し気に眉を下げた。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
『さすがだ、羅喉は賢いな。それは蛇比礼という魔除けの布だ。毒蛇に遭遇した際にも利用出来るそうだ。この布はな、正確な事は分かっていないのだが、魔族が手に入れているという話だ。もう少し大きくなったら、もっと他の御宝についても詳しく教えよう』
と答えると、そっと息子を抱き上げた。
(神と人を繋ぐ生玉は、贄自身が前の贄から受け継ぐのだ、という話を伝えなければならぬ日が、永遠に来なければ良いのにな……)
やるせない思いを抱えながら。