第三話 黎明
そこは果てしなく広がる叢雲の波。天には優しい空色が続く。柔らかく輝く陽光が降り注ぎ、叢雲の波間にところどころ顔を出す柔らかな緑の大地を鮮やか照らす。そこには浮き通るような白と、黄金色の蓮の花が咲き乱れていた。
ちょろちょろと心地良く流れる水音が爽やかな風に乗って聞こえてくる。音を辿って行くと、大地より直接泉が湧き出ており、溢れ出るそれは小川となってさらさと水が流れていた。小川を辿ってしばらく行くと、突然大地はぱっかりと割れ、断崖絶壁となっている。下を覗くと果てしない暗闇で底は見えない。割れた大地の向こう側は、乾いた砂の大地が広がり、枯れ木がところどころにその身を天に伸ばしている。更に、血のように赤い曼珠沙華が咲き乱れており、遠目から見るとまるで地獄の業火のようだ。そしてそちらの空は深い闇。星はなく、赤黒く大きな丸い月が大地を見下ろしていた。
どうやらこの場所は、光の大地と夜の大地、そして闇の谷底。この三つの世界にくっきりと別れているようだ。光の大地に、一人の男が佇んでいる。ちょうど大地が割れる寸前の場所だ。彼は憂いを秘めた翡翠色の眼差しで向かい側の赤黒い月を見上げていた。燃えるような紅い髪は漁火のように波打ち、腰のあたりまで伸ばされている。青みがかった白の小袖と袴を身に着けており、裸足で大地を踏みしめていた。まるで彫刻で精巧に作られたかのように彫りが深い顔立ちだ。きりっと男らしい濃い眉は、やはり炎のように紅い。長い睫毛もまた、まるで篝火で作られたようだ。歳若く見えるが、実際はどうであろう? 妙齢、とでも言っておこうか。
「そろそろ代替わりの時期か……」
おもむろに男は呟く。高いとも低いともつかぬその声は、どことなく琵琶の音色のように不思議な響きを持って空を伝う。そして右手を懐に入れ、手の平大の丸玉を取り出した。
その丸玉は一見すると透明な水晶玉である。男はそれをしばしじっと見つめると、おもむろに口を開いた。
「我、汝(※①)と契約する者也。炎帝の名において願い奉る。我の後を継ぐ者を示し給え」
すると丸玉の中心が炎を宿したように輝き始めた。それは徐々に輝きを増し、さながら水晶玉の中に陽光を封じ込めたようだ。
男の名は『炎帝』。そう、人柱として捧げられた者の一人である。やがて水晶は、長い白銀色の髪に紫色の瞳の美しい者の姿を映し出した。そしてゆっくりと揺らめく炎が穏やかになると同時に映し出されたものも消えていった。光は少しずつ小さくなり、やがてフッと掻き消えるように消えた。清浄なる湧き水をそのまま固めたような透明の水晶玉へと戻った。
「哀れな……宿世(※②)は変えられぬか……。愚かな、悪しきしきたりめ……」
彼は絞り出すように言った。彼の持つ玉こそが生玉。願いを神に託す時、また神の言の葉を受け取ると時、言わば神と人を繋ぐ光の玉である。十種神宝の一つである。代々、贄となる者はこの玉を引き継ぎ、己の捧げる身によって神との契約の元、その地が繁栄されているかを確かめたり、神の要望を聞く際にも使用した。この玉を持つだけで、神々の声が聞こえたし意思の疎通も可能となった。
ウォーーーーーーーーゴォーーーーーーー
突如として谷底より響く恐ろしい声。
「チッ、もうご所望か。このところ、頻度が多くなってきやがったぜ」
彼は舌打ちをすると、崖の淵ギリギリまで歩いて行き、そのまま身を投げた。真っ逆さまに落ちて行く彼を待ち受けているのは、奈落の底に巨大な、血のように赤い口を開けている魔物、というべきか。信濃国に起こるべき災害や争い事を含む人災を始め、人々の嫉妬や憎悪、殺意、欲望、などのあらゆる負の感情を総称したモノであった。それは底知れぬ闇に巨大な口がついていて、伸縮自在に体を変化させられるので決まった形はない。
人柱として捧げられたものは、次の代に変わるまで永遠に、生きたまま魔物に体を食われ続けるのだ。食われた後は、神の力によりまた元通りの体に戻される。魔物が所望すればまた体を捧げ……その繰り返しだった。
そうする事によって、信濃国の繁栄と平和が保たれているのである。それが、人柱の役目なのであった。
トクン、トクン、トクン、と規則正しい音が心地良い。藍色の海の中をたゆとう白銀の髪。大人の手の平程の長さだ、ゆらゆらと水中に靡きまるで白銀の海藻のようんも見える。白玉(※③)のような肌が藍色の海中にボーッと浮かび上がる。白の長い睫毛の帳を閉じ、幸せそうに微睡む胎児の姿である。母親の体内で守られ、最も安心安全な場所だ。
時折、低く穏やかな声共にポンポン、ポンポン、撫でるように軽く叩く音が聞こえ、それがまた、胎児を至福の眠りへと誘う。
突然、藍色の海が激しく波立った。胎児は不安げに、柔らかな白銀の眉をしかめる。
『……ソナタハ人柱トシテカミ二ソノ身ヲ捧ゲル為二生ヲ受ケタノダ。ユメユメソノ事ヲ忘レルナ……』
天より響く不思議な声。直接胎児の脳内に響くような、心の臓にグサリと突き刺さるような冷たい声。まるで氷柱のようだ。けれども、荒波はすぐにおさまり元の穏やかな流れへと戻る。胎児はゆったりとたゆとい、幸せの微睡に身を委ねた。
ポカポカと女郎花色陽の当たる縁側にて寛ぐ椿の方の姿。桜色の打掛を羽織り、白の小袖にゆったりと白い帯を締めている。大きく膨らんだ自らの腹を、愛おしそうに両手包み込む。紅い椿の蕾のような唇は綻び、瞳は誇らし気に輝いていた。
「名前、どうしようか?」
甘さを秘めた柔らかい声が背後より響く。椿が降り返ると、この上無く優しい笑みを浮かべた佳月が立っていた。そのまま妻の後ろに座り込むと、。両手で妻と赤子を包み込むようにしてふわりと抱きしめた。
「キャッキャッ」
赤子の無邪気な笑い声が響く。
「本当にお美しい」
乳母の梅子が目を細めて、椿の方の腕の中の赤子を見つめる。桜色の布にふわりと包まれた赤子は、母親の腕の中で満面の笑みを浮かべていた。赤子の白玉を思わせる肌は、まるで内側から月の光を宿したようだ。輝く白銀の髪は顎の辺りまで伸びており、触れるとさらさらと音がしそうなくらい滑らかだ。頬に影を落とすほど長い白銀の睫毛は、瞬きをする度にバサバサと音がしそうなほどたっぷり生えている。
「生まれたばかりで、こんなに整ったお顔で。お鼻もこーんなにお高くて。お口などは桜の花びらのようでございますねぇ」
うっとりと赤子を見つめながら恍惚として話す梅子。歳は椿より十ほど上である。彼女は椿の乳母であった。小柄で丸顔、誠実そうな円らな瞳の持ち主で、笑顔を絶やさない大きめの唇が社交上手である事と人柄の良さを表している。
「もう、乳母やってば暇さえあれば褒めっぱなしで」
クスクスと可笑しそうに椿は笑った。
「キャッキッ」
赤子は母親に釣られたように笑う。まるで陽だまりのを思わせる笑い声だ。
「あらあら、お母様が嬉しいとこの子も嬉しいのですね。賢い! だって本当にお美しいではないですか! とりわけこのお目めですよ。こんなにくっきりした二重は見た事がございません。まるで花菖蒲みたいに深い紫色。飛び切りお美しい」
褒めながらも、梅子は複雑な思いを抱えていた。椿の嫁ぎ先の秘密、二階堂の一族が代々受け継いできた人柱の事も全て承知していた。それ故に、敬愛する主である椿の事も、贄という宿世を背負って生まれた子も不憫で仕方がなかった。口には出せないが、贄の代償とでもいうように、赤子がこの世の者とは思えない不可思議な美貌を授かったのであろう事も、気の毒で仕方がなかった。
赤子の幼名(※④)は『|羅睺《らごう》』(※⑤)と名付けられた。信濃国の繁栄と平和の為、人柱として生まれた彼を不吉の象徴としての星の名をつけたのは佳月と椿の神への、そして悪しき伝統への密やかなる皮肉とせめてもの精一杯の抵抗であった。
(※①…あなた様、「あなた」を尊敬して言う古語)
(※②…宿命、変えられぬ定めの古語)
(※③…真珠)
(※④…元服前の名。古来は魔物や不届き者に魅入られぬよう、敢えて汚い名前や人から嫌われそうな名前をつける習わしがあった)
(※⑤…印の神話で日食や月食を起こすとされた架空の星。九曜の一つで『ラーフ』とも読む)