【第壱部】 第一話 御神託
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
今宵は満月。血のように紅い月が、夜空の闇を不気味に彩る。星屑は月に恐れをなしたように震えながら瞬く。夜空は底知れぬ闇を湛え、吸い込まれそうに深い黒だ。
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
草木も眠る丑三つ時。僅かに湿り気を含み、血生臭さが鼻につく風に混じって不可思議な呪文のような言の葉が響き渡る。辺りには篝火一つなく、ただ紅い月のみが地上を照らし出す。辛うじて照らされるは深い山間と獣道。
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
それは『ひふみの祝詞』と呼ばれるものである。よく通る凛とした男の声だ。更に注意深く聞くと、地を這うような低い声でボソボソと別の何かを唱える声も響いて来る。
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
単調に永遠と唱え続けられるそれは『布瑠の言』と呼ばれるものである。それらの声が響いてくる場所は鬱蒼と生い茂る木々の間を縫い、山道を歩き続けた先にあった。そこだけ切り開かれたかのように立つ五角形の建物。それは紅い月に照らし出され、全体がいぶし銀のように鈍い光を放つ。屋根は錆色で月の光が当たる部分はまるで血の池のように赤黒く見える。どうやらお堂のようだ。
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
この中から、これらを唱える声が入り混じって聞こえて来る。本堂には禍津日神を中心として、天津甕星や月読命や伊邪那美命など、冥府や闇を司る神々、それに関連する像が九柱ほど祀られている様子だ。五角形の部屋の大きさは、およそ二十畳ほどであろうか。
禍津日神と対面する形で、白の狩衣姿に紫色の袴、黒の立烏帽子姿の陰陽師が座禅を組み、印を結びながらひたすら無心に唱えている。その落ち着いた風貌からして初老、といったところか。
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
繰り返し、繰り返し。
右手前に松明が灯され、不気味かつ異様な姿の像たちを禍々しい影を演出する。松明に照らされ陰陽師は目を閉じており、がっしりとした高い鼻、狡猾そうに引き結ばれた唇に大きな耳を持ち、背は高く筋骨逞しい体付きのようだ。左手には1mほどの水晶の数珠を三重にして絡めるようにして持ち、右手には直径5cmほどの球体黒水晶を掲げていた。
手前には小さな祭壇が設けられており、一枝の榊と白い器に入れられた酒と紙垂が立て掛けられている。この男は安倍有恒。安倍有世の腹違いの兄である。有世といえば、官位は従二位・刑部卿。そう、陰陽師として初めて公卿の地位についた、かの安倍晴明の十四代目の子孫だ。
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
この男に合わせるようにして声を揃えて唱える陰陽師達が三名ほど。ちょうど有恒の真後ろとなる北側入り口に一人、北西の方向に一人、北東の方向に一人と壁沿いに位置し、座禅を組んで印を結びながら目を閉じ、無心に唱えていた。それぞれ黒の立烏帽子に朱の袴、白の狩衣姿である。彼らはまだ若く、初々しい。元服を迎えたあたりだろうか。
本堂の中心部に、朽葉色の直垂と折烏帽子に身を包んだ男が座禅を組み、静かに目を閉じて一心不乱に『ひふみの祝詞』を唱えている。
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
長身細身、面長の非常に端正な顔立ちの若い男だ。お堂の中心部を言いかえれば、安倍有恒とこの男、そして入口で布瑠の言を唱える陰陽師が等間隔に並んでいるといえる。
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
有恒の持つ球体黒水晶の内側が、ボッと燃えるような光を放ち始める。
……ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ……
……一二三四五六七八九十 布瑠部 由良由良止 布瑠部……
その光は唱えられるごとに徐々に強くなっていき、ついには黒水晶内部は燃えるような紅い光で満たされた。それはさながら地獄の業火のようだ。有恒がカッと目を見開いた。そして黒水晶を目前に掲げ、食い入るように炎の光を見つめる。鋭い視線だ。どことなく鷲を思わせる。
「おう! 出ましたぞお告げが!」
有恒はやや興奮君に言の葉を発した。その声を合図に、皆一斉に沈黙をする。目を開け、有恒の言の葉を静かに待った。
「……間もなく、生まれつき白銀の髪、紫色の瞳の男子が生まれるであろう。その子が元服を迎えるまで大切に育てよ。元服を迎えてから最初の忌み月に、その子を人柱として捧げよ、そう出ておりまする」
有恒はそう言い終ると黒水晶と数珠を丁寧に手前の祭壇に置き、直垂姿の男を降り返ると正坐に座り直した。黒水晶は僅かに燻るような鈍い光を宿しており、それはやがて跡形もなく消えた。紙垂が風もないのにゆらゆらと揺れている。
「……そうか。今度は白銀の髪に紫の瞳とは。これはまた、浮世離れしているのだな。前回、人柱となったのも男子と聞いているが、まるで鬼の血を引いているかのように紅い髪と緑の瞳の持ち主だった、と伝え聞く」
高めの澄んだ声が、形よく怜悧に引き結ばれた唇より零れ出る。どことなく横笛を思わせる声色だ。上品な二重瞼に涼し気な切れ長の瞳。漆黒のそれは濡れたように艶めき、どこか憂いの影を含む。睫毛は長く、つんと高い鼻筋に彫の深さを演出する。面長の顔立ち、色白の酷く美しい男だ。
「あれから五十年ほど経つ訳ですが、どうなさいました? 何か気がかりでも?」
有恒は心配そうに男を見つめる。
「いや、人柱となる為に生まれてくるとは何とも哀れな、そんな風に思ってな。男子とあれば、私の跡継ぎとして生きる道もあろうに……」
男はそう言って寂し気に笑った。
「全ては定めにございます! それに、その子は人柱として代々大切に大切に育てられますし。人柱となった後も手厚く祀り永久に感謝を捧げられていくのですから。普通に生きていれば、病や戦に駆り出されたり、または二階堂家の嫡男として暗殺されてしまうかもしれない。そう考えれば、幸運だとすら思いますぞ」
有恒は励ますように熱く語った。
「ふふ、そうだな。物は考えようだな」
男はそう言って自嘲気味に微笑んだ。
「私の兄上も、幼い頃暗殺されてしまった。本来なら、兄上が跡を継ぐ筈だったのだ」
この男の名は二階堂佳月。信濃国の守護大名の一人であった。そして安倍有恒は、本来なら正当な安倍晴明の子孫として弟のように表舞台で活躍出来る筈が、その出自から決して表には出ず、芦屋有恒と名乗り、民間の陰陽師としてひっそりと活動し、生計を立てていた。