第十四話 守られた領地・後編
雲のような白い靄それは極上の綿花に包まれたような心地良さだった。安心して身を委ね、揺蕩う。ぼんやりと前方を眺めていると、遥か遠くに光が差して見えた。厚い雲から一筋の陽光が差し込むような感覚だ。その光は少しずつ楕円形のかたちを作りながら氷輪の元に近づいて来る。何故か不思議と怖さはなかった。そのまま近づいてくる光を見続けた。
光はゆっくりと氷輪の前までやってくると、それは空に少し浮くような感じで徐々に人の形をかたどり始めた。やがて光の中に、唐の宮廷衣装を思わせるような金色の豪華なものに身を包んだ老公が浮かび上がった。足首まであろうかと思われるフサフサとした髪と顎髭は、見事な純白だ。品の良い顔立ちと堂々たる存在感が、物語で伝え聞く仙人とはこういう風格の者なのだと納得させる。両手を前に上げて肘を曲げ、左手は右の袖の中に、右手は左袖の中に入れ込み、腕を隠すようにして掲げている。氷輪は無意識に姿勢を正して老公に向き合った。
『……ようおいでなさった。二階堂様』
老公は穏やかに声をかけた。天から響き渡るような落ち着いた声だ。
『……あの、あなたは? 何故私の名を?』
何の違和感もなく話しかけている自分に戸惑う。自らの声もまた、確かに自分の声であるにも関わらず、遠くにから響いて来るように聞こえる。だが、どこか夢の中にいる自分に納得しているような感覚だ。
『申し遅れました。私はあなたが選んでくださった欅の精霊にございまする。この森界隈を束ねる長でございます。あなた様に御一族のお陰で、私たちは繁栄させて頂いております。此度、このようにして直接お目にかかれました事を光栄に存じまする』
老公はそう言って、掲げていた両腕をそのまま上にあげるようにして丁寧に頭を下げた。
『なるほど。けれども、私はこれから……』
『存じ上げております』
これからその人柱のしきたりを終わらせる為の旅に出た、そう言おうとした氷輪を、老公は穏やかに遮った。
『私たちは今まで不可思議な力によって栄えてきた。けれどもそれはいつしか終わりを迎え、今までのツケを払った後に通常のあるべき自然のかたちに戻るもの。全てを承知で、甘えさせて頂いたのです。その時がきたら、それを静かに受け入れるだけにございます』
と言葉を続けた。彼の瞳は、思慮深く穏やかな鳶色である事に気付いた。
『全て、承知の上……と?』
『はい。この現世は陽と陰で出来ておりまする。男と女、光と陰、善と悪……全てはその均衡の上に成り立っており、どちらか一方に偏り過ぎると災厄などが起きて調整を取るようになっている、それが自然の営みであり、私たちや人が支配出来るものでございません。よって、これまで御一族のお力で陽と光、善の世界が長く続き過ぎた。故に、陽極まって陰となる、これもまた自然の摂理にございます』
老公は落ち着いて淡々と語った。その言の葉は、氷輪の胸に、静かに波紋を起こしていく。
『ですから、あなた様には迷わず、ご自分の使命をお果たしくださいませ、とお伝え申し上げたく存じまする』
そう言って、彼は再び両腕を上に掲げ、丁寧に頭を下げた。
『ただ、残念ながら人間は自分勝手で欲深い者が多くおりまする。それらの事を素直に受け入れる事は難しいでしょう。……私の真の名は、翠白と申します』
氷輪の脳裏に、翠白の文字が浮かび上がる。
『この先の旅で、人や妖など、悪しきモノも沢山近づいて来るでしょう。中には善人、味方のふりをするものもございます。そんな時、真実を見抜く力の保護となれたれましたなら幸いに存じます。どうかこちらを、肌身離さずお持ちくださいますよう。そして迷った際は、私の名をお呼びくださいませ。きっと、迷いの霧も晴れましょう。また、雑魚相手でしたら妖魔を大人しくさせるくらいは出来ますでしょう』
そう言って、彼はそっと腕を元に戻すと両手に何かを捧げるように持ち、氷輪に手渡した。
『有難う』
彼は素直に両手を差し出す。何の疑念も抵抗感も涌かなかった。
『御武運をお祈り申し上げまする』
そう言って彼は深々と頭を下げた。徐々に、白い靄が老公を包み込んでいく。
ハッと氷輪は目を覚ました。東の空が白みかけている。まだ森は薄青色に闇に包まれていた。ふと両手を見る。そこには木彫りで出来た手の平大の観世音菩薩があった。