ボタンの誘惑
夏恵は、七年ぶりにケータイを新調した。
新しい機種が、次々と発売されているのは知っている。若い人なら、もっと短いサイクルで買い換えるのであろうが、主婦ともなると、そちらに回せる出費など、ないも同然。今回だって、液晶画面が故障したので、仕方なく新しいものを買ったのだ。
夏恵の目に止まったのは、ラベンダー色のやや丸みを帯びたデザインのケータイ。
型落ちだが、必要な機能は付いているし、何といっても他の機種より安かったのが、決め手となった。
いつものように右手にケータイを握り、「あれ?」と思った。
ケータイのサイド、ちょうど中指が触れるあたりに、小さな突起状のボタンがある。今までのケータイには、なかったタイプのボタンだ。
何かのスイッチだろうか――気にはなりながらも、押してみることもなく、それから1週間が過ぎた。
※
いつもと変わらぬ月曜の朝、夫と子どもを送り出した夏恵は、一息つこうと愛用のマグカップを取り出した。
紅茶のパックを入れ、ポットの湯を注ぐ。
リビングのソファに腰を下ろし、TVのスイッチを入れた。相変わらず、芸能人のゴシップネタで騒がしい。
ふと、かたわらのケータイが視界に入った。
特に用事はなかったけど、ケータイを開いてみる。中指に、ポチッと触れるあのボタン――何となくその気になり、ボタンを押してみた。
何の変化もなし。
今度は長押しをしてみる。
すると、待受画面に設定した子どもの笑顔が、真ん中から捻れるように歪みはじめた。
そのまま、子どもの顔は消失、画面は闇夜の色に染まる。
「ピロリン」
突然、ピッコロのような音がケータイから響いた。
画面に、ゆらゆらと波間から浮上するように、白いゴシック文字が表示された。
<あなたが戻りたい年月日を入力して下さい>
―― 新手の占いサービス?
女性の多くがそうであるように、夏恵も占い好き。何だかワクワクした気分で天井を見上げ、脳内人生劇場を、超高速巻戻しで辿った。
停止ボタンを押したのは、高校2年の章だった。
グラウンドから、甲冑めいた装備に青いユニフォームを着たアメフト部員の一団が、ヘルメットを手にこちらへやってくる――その中に、彼がいた。
決してイケメンではない、地味なタイプ。
アメフト部と美術部と生徒会をかけ持ちしていることを聞いて驚いたのが、注目のきっかけだった。
もしかして、便利屋扱いか――と、当時の夏恵が心配したのも当然で、彼は、色白でヒョロリとした男の子だった。
が、それは余計な心配だった。
彼はいつも大勢の友達に囲まれ、穏やかに笑っていた。夏恵は、そんな彼に尊敬の念すら抱きつつ、一度も話さないまま卒業してしまった。
数年後の同窓会で、夏恵の親友が、彼に夏恵の想いを話したところ、彼は「あぁ、あの子か」と、照れながら素直に喜んでくれたとか――
戻るならここ。彼に近付いてみたい。優しい彼のことだから、少なくとも友達にはなれたかも……
夏恵は、高2だった年を入力した。
画面には〈間違いはありませんか〉の白抜きゴシック文字。
夏恵は、占いの結果にワクワクしながら、「はい」というコマンドをクリックした。
※
TVの話題は、最近多発する行方不明事件に移っている。
「共通点といえば、失踪地点にケータイが落ちていることなんですよね」と、司会者がコメンテーターに話をふった。歯切れの悪い、コメンテーターの口調が流れる。
TV画面の前には、持ち主を失った夏恵のケータイが転がっていた。
<了>