7-17 勝者は誰なのか
「おおおぉぉぉぉ!」
空気が震えていると錯覚する程の瑞樹の雄叫びは、恐らく自らを鼓舞する為のものでは無い。仇敵を殺す為、心の内から湧き上がる怒りと憎悪が噴出した結果だろう。それ程瑞樹の心は黒い感情で染まっていた。
低俗魔と相対しているメウェンやビリーも瑞樹の雄叫びに反応し、瑞樹に異常が起きている事を察したようだが彼らもそれどころではない。倒せど倒せど迫りくる低俗魔に向けて、必死に手を動かさなければ瞬く間に物量に飲み込まれてしまう。心の中で瑞樹の武運を祈るしか出来なかった。
「クフフフフ、なんて素晴らしい迫力。さぁ、存分に楽しみましょう?」
今生無い程愉悦そうな笑みを浮かべる淫魔に対し、瑞樹は一切動じることなく無謀な突撃を始めた。その姿はさながら獣、辛うじて無事な住民が一目で恐れを抱く程の。
戦いの歌と違い、狂戦士の歌は瑞樹の感情の揺らぎから生まれたもの。故に効果が自身の感情に大きく左右されるのだが、こと現在に限っては比類なき最上の燃料となってしまっている。今の瑞樹の身体はただ人はもとより、その道の達人ですら達する事が無いであろう域に入っていた。そこから繰り出される打撃や蹴りは凄まじい衝撃と音を生む。魔物程度一撃で骨身を砕けるであろう重い攻撃が身に迫ってもなお、淫魔は笑顔を絶やさなかった。
「おぉ怖い怖い。流石こっちのヒトとは訳が違うわねぇ」
さながら荒れ狂う暴風の中のような状況でも、顔色一つ変えず最低限の動作で躱し続ける淫魔。時折戯れと言わんばかりに、瑞樹に出を出してみてはクフフと笑い飛ばす程余裕があった。どちらの攻撃もまるで当たらず長期戦になるかと思われたその時、突如淫魔がパチンと指を鳴らす。
「さぁもっと過激にいきましょう。ほら低俗魔達、遊んでもらいなさい」
すると魔法陣からさらに低俗魔が現れ、瑞樹を睨み付けた。だがその直後に瑞樹を睨み付けた低俗魔は霧散、空へと還って行った。これには流石の淫魔も少しばかり驚いたのか、僅かに目を見開いて「あらまあ」と瑞樹を見つめた。そして淫魔の瞳には黒い靄を滲ませている瑞樹が映っており、酷く愉悦そうな笑みを浮かべた。
「その姿……! やっぱりアナタってヒトでいるよりもこっち側の方が向いているわ。ねぇアタシの仲間になって楽しみましょうよ」
甘く囁く淫魔だが、瑞樹は微塵も耳を貸さず再び苛烈に攻め始めた。この間も低俗魔達は不意打ちや物量のごり押しを試していたが、瑞樹に触れるどころか瑞樹を見た瞬間霧散して消えていた。そんな惨状に淫魔は小さく溜め息を吐く。
「所詮魔力と魔素で作った疑似生物ね、翼竜みたいなホンモノと違って駒にもならないわ」
飄々とした様子で独り言ちる淫魔。低俗魔が魔力と魔素で構成されているとなれば、確かに瑞樹に敵視を向けた途端黒い靄に魔力が吸収され、魔素だけが霧散して空へと還る現状は当て嵌まる。だからこそ淫魔が黒い靄の影響を受けていないのは不可解なのだが、黒い靄の性質上理由は絞られる。敵視を向けた者の魔力を吸い取る、それは逆を言えば敵視さえ向けなければ影響を受けない。つまり淫魔は本気で瑞樹と遊んでいるだけだった。
「ほらほらタチバナミズキ、アタシはこっちよ。もっと遊んでちょうだいな」
「ぐ、おおぉぁぁ!」
瑞樹の攻撃はさらに苛烈になるが、依然として淫魔はからかうばかり。膠着状態にも見えるが、事態は少しずつ進んでいた。瑞樹の悪い方に。
狂戦士の歌によって限界を遥かに超えて強化された瑞樹の肉体が、悲鳴を上げ始めていた。本来手に入る筈の無い能力を得れば当然と言えば当然とも言えるが、骨は軋み肉は悲鳴を上げる。それを物語るかのように瑞樹の振り抜いた腕や脚からは軌道に沿うように鮮血が舞うようになっていた。今、瑞樹の身体には身体が砕け散りそうな激痛が走っている筈だが、果たして脳が正しく感じているのかどうか、それ程瑞樹の動きに淀みが無い。
一切の攻撃を受けていないにも関わらず身体がボロボロの瑞樹に対し、未だ涼し気な様子の淫魔は大きく欠伸をしてみせた。
「フアァ……さぁて、お遊びも十分堪能した事だし……そろそろ真面目にやりましょう、か」
直後、顔目掛けて振り抜かれる打撃を首の動きだけで躱した淫魔は、突然瑞樹を無理矢理抱き締めた。離せと叫び暴れる瑞樹だが、身体同士が密着したまま少しも動かない。だが、瑞樹の黒い靄は淫魔に反応を始め、魔力を吸い始めていた。淫魔は明確に瑞樹を敵視し、本気で食事する事を決めたらしい。
「ん……あ、はぁ……成る程、低俗魔如きじゃ話しにならないのも納得。でも、んぅ、吸い取るのは、アナタだけの得意技じゃ無いのよ?」
艶やかな声を漏らし自身の唇をペロリと舐めた淫魔は、唾液で光る唇をそのまま瑞樹の唇に押し付けた。すぐさま押し退かそうとした瑞樹だが、直後瑞樹の頭に直接暴力的な快楽が流し込まれ、多幸感に打ち震えた。恐らく先程多くの人を狂わせた吐息を流し込み命そのものを吸い取る、ハンナと同様の事をしているのだろう。
「ん……ぐ、あぇぇ……」
淫魔の食事は恐ろしいまでに強力で、憎悪の塊のような状態の瑞樹が多少でも心奪われる程だった。ここ暫く男性としての機能を使用していなかったそれは、大いに欲を吐き出しぶちまける。まるで別の生物のように動く舌と指にあらゆる場所を嬲られ、快楽を刻み込まれた身体はより一層深く求める。常人であればすぐに虜になり廃人となろうが、この時の瑞樹に限っては様子が違っていた。
「クフフ、随分と耐えてくれるのね、嬉しいわ。なら、どちらの魔力が先に吸い尽くされるか勝負といきましょう」
瑞樹が白い欲を吐き出すたびに、瑞樹の黒い靄は心の奥底から憎悪などの黒い感情を生み強制的に補てんさせた。これによって自我を何とか保たせて、いたかはいささか疑問だが少なくとも虜になる事自体は防がれていた。これにより瑞樹の黒い靄と淫魔の食事、どちらが根負けするか、人類史に類を見ない静かで扇情的な戦いが幕を開けた。
この戦いによって淫魔も流石に余裕が無くなったのか、町の上にあった召喚魔法陣の維持が難しくなったらしく、無限とも思えるように湧き出ていた低俗魔がそれ以上出て来る事は無かった。さらには貴族諸兄達の魔法も再び使用出来るようになり、事態は一気に人間側へと傾いていく。
瑞樹と淫魔の魔力が渦を巻き、繭のように二人を包む。黒く淀んだ魔力は暴風を生み、雷をまき散らす。二人の周囲は一気に瓦礫の山へと変貌し、それを見る人々の目は淫魔のみならず瑞樹にも畏怖しているようだった。そして──
「──クフ、フ……まさか、このアタシが吸い尽くされるなん、て……」
消えた魔力の渦は瑞樹の黒い靄が全て吸い尽くし、中からは膝を付きながらも未だ瞳に力を感じる瑞樹と、対照にバタリと仰向けに倒れている淫魔の姿が出て来た。互いに天敵同士ともいえる戦いは、淫魔には無かった執念によって瑞樹が競り勝ったが、勝利の代償は決して小さく無かった。
「ク、フ……良いわ、殺しなさい……憎しみに染まって堕ちるのも……我が主としても喜ばしいでしょう……カ、ハァ……」
勝てば質問に答えるという淫魔との賭けを、完全に憎悪によって殺すという衝動に書き換えられてしまったらしく、瑞樹は淫魔の首を両手で思い切り締め上げる。あと僅かで淫魔の首が折れようかといったその時、瑞樹の身体を後ろから誰かが大きく揺さぶった。
「瑞樹、おい瑞樹! 俺が分かるか、おい!」
堕ちかけた瑞樹の心は、とても馴染みのある声によってすんでの所で免れた。ゆっくりと後ろを振り向いた瑞樹、その瞳にはかなり傷を負っているビリーとメウェンの姿が映り、スッと身体の力が抜けていった。自身も満身創痍ながらも、瑞樹が無事である事を確認しひとまずビリーに任せて置こうと、メウェンは視線を淫魔へと移す。
「おい、口を聞けるのか」
「……なにアンタ。馴れ馴れしいわね」
「私はこの土地の領主でもある貴族だ。聞きたい事が山ほどある、嫌だとは言わせんぞ悪魔」
「ハッ、お貴族サマって奴? ヒト如きがよくもまぁそれだけ傲慢になったものね。……でも特別に許してあげる。賭けに勝ったタチバナミズキはあの様子だし」
口撃の応酬の後、淫魔は瑞樹に視線だけ向けるが生きているのか死んでいるのか判断に困る程生気を感じられなかったらしく、若干勿体無さそうに唇を尖らせた。
「何故お主は瑞樹の名を知っているのだ!?」
驚いた様子で問いかけるメウェンに、淫魔は鼻で笑いながら「我が主から聞かされてたんだから、当然でしょ」と答える。何が当然なのかと頭を抱えたくなるメウェンだったが「ならばその主とは一体誰だ」と問うと「当然魔神様に決まってるのでしょ、お貴族サマのくせに脳みそ詰まって無いんじゃないの?」と罵倒を多分に含んで答えたが、メウェンにはそんな罵倒が些末事に感じられる程驚愕したようで、これ以上ない程大きく目を見開いた。
「馬鹿な……魔神だと!? そのような事が……」
「別に狭量なヒトに信じてくれなんて少しも思っちゃいないわ。今回わざわざここに来たのもそこのソイツを誘き出して、我が主の言伝を伝える為だし」
淫魔の視線の先には当然のように瑞樹が居た。
「ならばその言伝とは、一体何だ!? その為にこれ程甚大な被害を出したと言うのか!?」
「まぁね、ヒトいくら死のうが知った事じゃ無いし。もっと言えばこの身体を使ったのもその為、タチバナミズキの知り合いで尚且つ使いやすかっただけ。アタシ達にとってヒトなんて、それこそヒトから見た虫けらみたいなもんよ」
鼻で笑う淫魔に対し、放心状態ながらも耳に届いていた瑞樹が「そんな事の為にシーラを……ハンナを殺したのか!」と激昂するが、ビリーに羽交い絞めにされたままの状態では動く事もままならなかったようだ。
「そ。伝言役なら別に誰でも良かったんだろうけど、我が主も良い趣味してるわよね。わざわざアナタの知人と知っててあえて巻き込んだんだから」
淫魔にさらなる追い打ちを掛けられた瑞樹は全身に走る激痛もお構いなしに暴れまわるが、ビリーの必死の抵抗に合っていた。ただ流石にビリーも限界だったらしく「メウェン様、早くしてください!」と懇願する。どうやら二人は悪魔から情報を聞き出そうという腹積もりのようだ。
「して、その言伝とやらは」
「あぁそうだった。どうしても我が主はタチバナミズキと会いたいそうよ?」
「その意図は?」
「アタシみたいな下っ端の伝言役が知ってると思う?」
「……ならばそれを断った場合は?」
「今後も見せしめに町を滅ぼし続けるそうよ。アンタ達も知ってるでしょ? 古龍の事」
「……まさかそれすらもお主達が仕組んだのか!?」
さらに驚くメウェンに対し、淫魔は愉悦そうな笑みを浮かべながら「さぁてね、どうかしら」とあえて明言は避けた。真偽の程はともかく、まだまだ聞きたい事があるとメウェンが問おうとしたその時、淫魔は「あら残念、もう時間切れね」と笑った。淫魔の身体が手足の指先から消え始めていたのである。
「アタシ達悪魔はヒトの肉体を使って顕現するんだけど、その時元の肉体の心臓は抜き取るの。で、代わりに我が主の魔力が込められて、その魔力が切れたら空へと還る。残念だけど最期はヒト同じ空に還るのよねぇ」
何故突然そのような事を口走ったのか定かで無いが、ぼんやりと空を眺めた淫魔の瞳は最期にもう一度瑞樹を見つめ、口を開いた。
「ねぇミズ……じゃなくて瑞樹。本当に、ごめんね」
死に際に一瞬だけ微笑んだのは、果たして淫魔とシーラのどちらだったのだろうか。完全に身体が霧散し、塵一つ残っていない今となっては誰にも知る事は出来ない。ただ、淫魔の最期は瑞樹の中に辛うじて残っていたまともな部分を砕き、闇に堕とした。
「あ、あは……アハハハハ……!」
「お、おい瑞樹……大丈夫、か……?」
ビリーは壊れたように笑う瑞樹に声を掛けてみるが、振り返る素振りを見せない。ごくりと固唾を呑み正面の方から瑞樹の顔を覗いたビリーの瞳に映ったのは、黒い闇。怖気すら覚える光景に、ビリーは思わず尻もちを搗く程だった。
過去に二度、瑞樹は絶望に堕ちていた。一度目はこの世界に来てすぐ、二度目は謁見の間での事件。そして今、三度目となってしまった瑞樹の瞳は黒く、光すら吸い取ってしまうかのように深い。瑞樹にその気があれば本当に世界が消滅させられてしまうだろうが、幸運な事に今の最優先対象はそんな些末事では無かったようである。
未だ壊れた笑みを浮かべる瑞樹の口がゆっくりパクパクと動き始める。言葉にはなっていない、だが口の動きに酷く嫌な予感を覚えたらしく、ビリーは血相を変えて立ち上がった。直後──
『──ハンナとシーラの二人は生きか──』
「──駄目だ瑞樹!」
ビリーは開いた瑞樹の口に無理矢理手を突っ込み、それ以上言葉を発せられないようにした。恐らく瑞樹は言霊を発動させ、二人を生き返らせようとしていたのだろう。確かに死の運命を捻じ曲げる言霊であれば、死者すら蘇るかもしれない。だがその代償は、ほぼ間違いなく命そのもの。さらに二人分ともなれば結果はもはや想像すら意味を為さない。だからこそビリーは何としてでも瑞樹を止めたのだろう。
「ア、アァ、ガアァァ!」
「おいビリー、大丈夫か!?」
メウェンが心配そうに駆け寄るが、ビリーは精いっぱいの強がりでニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫、です。だから……手を出さないでください……!」
今の瑞樹はビリーすら認知出来ていないらしく、口の中に突っ込まれている手を食い千切らんと思い切り噛みつく。一欠けらも手心の無い噛みつきに、瑞樹の口からは次第にビリーの物と思われる血がポタポタ流れ始め、ビリーも苦悶の表情を浮かべていたがそれでもなお、例え食い千切られようとも止める。そんな覚悟が滲んでいるようだった。
「お前まで、死なせる訳にはいかねんだよ……! 戻って来い、瑞樹!」
ビリーの願いは届いたのか、じきに瑞樹の噛みつきは弱まっていく。錯乱状態から落ち着いたのかとビリーとメウェンがホッとしたのも束の間、瑞樹は事切れたようにその場に突っ伏した。