7-16 悪魔は嗤う
シーラを探す為に各地を転々としていたハンナはその日、偶然にもニィガの近くまで来ていたようで、異変に気が付き一目散に町まで戻って来ていた。後ろを振り向いた淫魔とハンナは互いに向き合い、じっと見つめる。その間に流れる嫌な感覚に瑞樹は怖気を覚えたらしく、割って入ろうと身体を動かそうとしたが何故か四肢が言う事を聞かなかった。
「なん、で、動かないんだ!」
「それはねぇ、アタシがちょっと細工をしたからよ。せっかくこれからオタノシミなのに邪魔されたら嫌だから。是非とも特等席で眺めててちょうだい」
クフフと笑いながら指を振る淫魔を、瑞樹は歯を剥き出しながら睨み付け何とか動かそうと力を込めるがまるで効果が無い。恐らく淫魔の魔法である筈だが何故か瑞樹の黒い靄は反応する事が無く、ただ見ている事しか出来なかった瑞樹は必死にハンナに逃げるよう声を掛け続けた。
「ハンナ、頼む……! 逃げてくれ!」
ハンナは愚かでは無いが、馬鹿だった。瑞樹の声に「ごめんな……瑞樹」とただ一言反応した後は歩みを止める事無く淫魔へと近付いていく。姿かたちが変わろうとも、声色が変わろうとも、顔を見ればわかる。淫魔の正体は──
「なぁ、シーラなんだろ?」
瑞樹も気が付いていた。だからこそ説得などという他の者が見れば憤慨しそうな手段を取ったのだろう。心底悔しそうに「お前、ハンナに手を出したら殺す!」と睨み付けるが、淫魔はクフフと笑みを零しながら一瞥するだけだった。
「おい、何とか言えよ……! シーラなんだろ……?」
「クフフ……う、うん。そうだよ、良く分かったねハンナ」
その声はシーラのそれと同一だった事もあり、ハンナの顔は心底ほっとしたように微笑んでいた。
「あたしが……お前の事分からない筈無いだろ?」
「う、うん、嬉しいよハンナ。……ねぇハンナ、ボクの事、スキ?」
「え、うえぇ!? 何だよ突然!?」
いきなりの事で狼狽えるハンナだが、淫魔はそんな彼女の事を優しく抱き締めた。後ろの方から瑞樹が騒ぎ喚くが、淫魔はともかくハンナの耳にさえその声が届かなかったようだ。
「……あぁ、好きだ。好きに決まってんだろ。でなきゃずっと一緒になんていなかった」
ハンナの気持ちが言葉となって溢れていく。秘めた想いが涙となって溢れていく。ただ、ハンナの想いはもう「シーラ」に届く事は無かった。
「クフフ……! 嬉しいよハンナ。……じゃあ、一つになろう?」
「……え、ちょ、なにを!? んむ……!?」
慌てるハンナの顔を抑えつけ、淫魔はハンナと唇を重ねた。直後ハンナの肌が一気に紅潮し、文字通り至る所から体液を噴出させている。四肢が力無くだらりとぶら下がり、ピクピクと痙攣を繰り返すばかりになった頃、淫魔は用済みと言わんばかりにハンナとその場に放り捨てた。
「ご馳走様。流石はこの身体の想い人、ただのヒトのクセにとぉっても美味しかったわよ?」
酷く愉悦そうに笑いながら物言わぬハンナを眺める淫魔の瞳には、彼女など美味しそうな餌程度にしか映っていなかった。そしてハンナの身体は、徐々に紅潮していた肌が青白くなり、痙攣していた身体はピクリとも動かなかった。
恐らくはもう。怒りに震える瑞樹が「てめぇ……ハンナに何をした!」と激昂するが、淫魔は顔色一つ変える事「何って、ただの食事」とさも当然のように答え、瑞樹の怒りがさらに吹き上がる。
「ざけんな! ただの食事だと、じゃあ……ハンナを食ったってのか!」
「そうよ? ヒトだって家畜なり魔物の肉なりを食ってるじゃない。同じことをしただけ。まぁアタシは肉なんかより、こうやってヒトの命そのものを食べるのが好みなんだけど」
「……なら、ハンナはもう……」
「ただの肉塊。でもこの身体の持ち主と一つに慣れたんだから本望でしょ。むしろ感謝されたいくらい」
微塵も悪びれる様子がない物言いに、瑞樹は歯を砕かんばかりに食いしばった。そんな瑞樹の姿に愉悦そうな笑みを浮かべた後、淫魔はさてと再び浮き上がった。
「さて、と。お遊びも程々にして我が主の言いつけでもこなすとしましょうか」
「……何をする気だ」
「見てれば分かるわ。でもそうねぇ、強いて言うなら……狂宴?」
そう言い放った後、淫魔は空へと飛びあがった。地上ではメウェンを筆頭に待機していた貴族諸兄が臨戦態勢を取るが、淫魔は大して興味も無さそうに一笑に付す。そして淫魔が両手を口の前に出しながらフゥっと息を吹きかけると、徐々に町全体、果てはさらに外まで甘く淫猥な香りが立ち込めていく。
「こ、この香りは……!?」
「……! マズい、風系の使い手は全力でこの香りを吹き飛ばせ!」
メウェンはそこまで淫魔に詳しい訳では無かったが、この香りの正体は文献等に記載されているらしく血相を変えて貴族諸兄に指示をした。だが、何処からともなく「クフフ、ちょっと気付くのが遅かったわね」と微かに声が聞こえた途端、建物に隠れていた者や町の外まで逃げた者の様子が変貌する。
その香りを深く嗅ぎ、心奪われてしまった者は男女関係無く異性を求め始め、外聞など気にすることなく獣のように身体を重ね、まぐわっている。至る所から生々しい嬌声が響き渡り、辛うじて免れていた者の心にも感染していく。
「クフフ、アハハハハ! 流石ヒトの肉欲は凄いわ! あぁ、なんて素晴らしい眺め、なんて素晴らしい音! アタシもどんどん力がみなぎってくわ! さぁて、もう少し過激に行きましょう……!」
淫魔が指を鳴らすと、町の上空には瑞樹にも見覚えのある召喚魔法の陣が一瞬にして形成された。まさか翼竜かと冷や汗を垂らしたが、そこから現れたのは幸か不幸か翼竜ではなく、所謂低俗魔と呼ばれる灰色の肢体のゴブリンのような物が魔法陣からボトボトと降り注いだ。その数は以前メウェンも言っていた通り尋常では無く、あわやそのまま町が埋まってしまうのではないかと錯覚する程。
「メウェン卿、低俗魔が!」
「クッ、風魔法はそのまま! 他の者は低俗魔を蹴散らせ! 冒険者にも手伝わせろ!」
一刻も早く低俗魔を排除しなければ住民に甚大な被害が出る。そうでなくとも身体を重ねている男性の首を刎ね、低俗魔が取って代わって女性を貪り食い始めていた。慌てた様子で貴族諸兄や冒険者にも指示をするメウェンだが、ここで悪いの知らせが彼に届く。
「メウェン卿、魔法が……発動しません!」
「何!?」と自身でも詠唱し魔法の発動を試みるメウェンだが、言葉通り魔法が発動しない。厳密には魔力を消費している感はあったようだが、発現しないといった方が正しいかったようだが。
「如何致しますかメウェン卿!? このままでは……」
「……ギルドや武器商に行けば剣の一つや二つはあろう! 魔法などに頼らずとも我が身を以て低俗魔を排除する! 冒険者に任せたなどとは貴族の名折れ、奮起せよ!」
メウェンは貴族諸兄に喝を入れてみせるが、内心は焦燥や不安が滲んでいたらしく、遠くに見える瑞樹を見据えた。現状を打破できるのは恐らく瑞樹しかいない、彼に再び重荷を背負わせるのはメウェンにとっても非常に不本意のようだが、それでも手を選べるような贅沢は現状出来なかったのである。
「クフフフフ、実に良い光景ねぇ。どうして命がぶつかり散る様ってこんなにも素晴らしいのかしら」
上空で高みの見物を決め込んでいた淫魔に向けて、突如凄まじい速さの石ころが顔面目掛けて襲い掛かった。だが、死角にも関わらず顔を僅かに逸らして避けた淫魔は、一体誰の仕業かと不愉快そうに飛んできた方向に視線を向けると、そこには先程まで動けなかった筈の瑞樹が凄まじい形相で睨んでいた。
「降りて来いオラァ!」
瑞樹の激昂に応じたのか、淫魔はスゥっと瑞樹の前に再び降りて来たのだが何故かその顔は悦に浸っており、身体をゾクゾクとさせていた。
「あぁ、やっぱりアナタってヒトなんかよりもこっち側の方が合っているわ。自分でもそう思わない? タチバナミズキ」
何故自分の名を知っているのか、問おうとした矢先に淫魔が「ちょっと待って」と遮ると、クフフと笑いながらさらに続けた。
「さっきからアナタばかり質問してズルイと思わない? と、いうワケで少しお遊びをしましょうか」
「お遊び、だと?」
「そ、オアソビ。とは言っても本気の殺し合いだけどね。もしアタシが負けたら、死ぬまでの間幾らでもアナタに付き合ってあげるわ」
「……俺が負けたら?」
「壊しちゃうと我が主に怒られちゃうし、死なない程度に遊ばせてもらうわ。ヒトならざる至上の快楽を味わえるんだから、負けたがお得よ?」
そう言いながら笑い飛ばす淫魔は、どうやら本気で自身が負けるとは微塵も思っていないらしい。何処からそんな自信が出て来るのか不明だが、瑞樹にとっては些末事だったらしく「上等だ……絶対にぶち殺す!」と叫んだ後、全力で狂戦士の歌を自身ただ一人に向けて歌う。