5-12 邪神なる魔物
鬱蒼とした山道を抜けた瑞樹達一行の眼前には広大な海が広がっていた。なだらかな斜路を下っていくと時折吹く潮風の匂いがより濃さを増し、その匂いに懐かしんだり顔を顰めたりと各々反応させながら遠目に見える町並みへと近付いていく。
ニィガより若干規模の小さい港町シフマは、やはり海に隣接している為か内陸の建造物と違い頑丈そうな石造りで建てられている。その風景はあえて例えるならば水の都と呼んでも差し支えないかもしれない。ただ入り口の簡素な門を超えたその先、町の中はやけに閑散としており、リンディ伯爵の屋敷へ向かう道中も住人とすれ違う事は殆ど無かった。
何か様子のおかしい異様な静けさ。それを誰よりも疑問に、そして不安に感じているのは他でも無い、この町出身のトリエである。その顔は不安の極みといった表情となっており、今にも外へ駆け出したいような焦燥感も見え隠れしていた。そわそわとしきりに窓を眺めてはちらちらと瑞樹の方へ視線を送る、そんな行動を幾度か繰り返した後、瑞樹はトリエの懇願するような視線に耐え切れなくなったらしく、ふぅと軽く息を吐いてから彼女と視線を合わせる。
「トリエ、気になるのでしたら先に貴方の親御さんの元へ向かっても良いですよ? 」
「えっ!? 良いのですか? 」
「良いのですかって……実はそう言われるのを待っていたのでしょう? 鈍い私でも流石に察しましたよ。まぁそれはともかくとして情報が欲しいのも事実ですし、私もリンディ伯爵にそれとなく伺ってみますが貴方も情報収集に努めてください」
「はい、かしこまりました」
トリエは返事をした直後ばっと外へ飛び出し、全力疾走ですぐに町並みへと姿を消す。正直瑞樹は彼女と落ち合う場所を決めたかったようだがもう今更。伯爵の屋敷も間近というのもあり、すぐさま瑞樹は頭を切り替える。
リンディ伯爵の住まう屋敷は町を抜けた少し先の小高い丘の上にあり、石造りながらも白磁のように白い光沢が眩しい、見目の素晴らしさに瑞樹も感嘆の声を上げる。玄関前に到着してもそんな様子のままの瑞樹を、エレナは苦笑しながら馬車から降りるよう促し、瑞樹も慌ただしい様子で外へ降りる。そのままリンディ伯爵の従者数名の出迎えを受けながら屋敷内に入ると、玄関兼広間も白を基調とした内装や鮮やかな青い絨毯、所々にある観葉植物が瑞樹達の目を楽しませる。
さながらリゾート地のホテルのような印象を受け、再び感嘆の声を漏らしながらぼけっとしている瑞樹を、エレナは少し呆れた様子で彼の手を引きながら、リンディの従者を先頭に一階のとある一室へと向かう。
「リンディ様、瑞樹伯爵及びメウェン侯爵様の御令嬢エレナ様をお連れ致しました」
「あぁ分かりました。部屋に入って頂いてください」
室内から屋敷の主であろう人物の声が返ってきたが、その声色は随分と若い。瑞樹は勿論エレナも初対面なので二人は僅かに首を傾げながら部屋に足を踏み入れると、その部屋の奥の立派な執務机に座っている人物は二人の想像以上に若い見た目をしている。薄い栗色の髪に白い肌、翡翠のような澄んだ瞳、ともすればトリエと同年代かもしれない程の少年が落ち着いた様子で座っていた。
「遠路はるばるようこそいらっしゃました。初めまして瑞樹伯爵様、エレナお嬢様。僕が当主であるリンディです。どうぞよろしくお願い致します」
「えっあ、はい。この度は従者を含めた私共を快く受け入れてくださり大変感謝しております。私が瑞樹と申します、今後ともよろしくお願い致します」
落ち着いきがありそれでいて貫禄を感じる、ともすれば自分よりも上手かもしれないと瑞樹は面食らったような様子で少年の口上を聞いていると、傍らに居るエレナが肘でとんとんと軽く小突く。そのお陰ではっと我に返った瑞樹が挨拶をし、エレナも同じように挨拶を済ませると、部屋の脇の方にあるテーブルをリンディと共に囲んだ。
彼の従者に供されたお茶で一息ついた後、最初に言葉を発したのはリンディだった。ただその顔は何故か申し訳無さそうに眉尻を下げている。
「まず最初に皆さんに謝らなければならないことがあります」
「えっ、それは一体何でしょうか? 」
「以前瑞樹様から頂いた手紙には、ここへ新鮮な海の幸を求めて参じる旨の内容が書かれておりましたが……故あって現在は海の幸が殆ど獲れない状態にあるのです」
「港町にしてそれは穏やかでは無いですわね。もしかしてこの町の静けさと何か関係がおありですか? 」
「えぇ、お察しの通りです。実は数か月ほど前から海に邪神が頻出するようになってしまったのです。ただでさえ寒い時期は海が荒れやすい為漁に出られる日が限られているというのに……その為町の住人は僅かに保存された食糧で生活したり、ここから離れた場所に出稼ぎにいったりという有様なのです」
邪神。聞き慣れぬ言葉に瑞樹とエレナは顔を合わせながら首を傾げる。ただ瑞樹の胸中は若干違い、魔神の存在が脳裏を過ったらしく、僅かに眉を顰める。
「その邪神とは一体どんなもの何ですか? もしただの魔物であるならば、冒険者ギルドに依頼として出せば解決するかもしれませんが」
「いえ、残念ですが既に依頼は出してあるのです。ただ邪神は沖合でしか姿を現さないせいで、依頼を受ける者が一人も現れないのです。現状に耐えかねた屈強で勇敢な漁師が何度か討伐を試みたのですが……凄惨な結果が残るのみでした」
リンディは口惜しそうな様子で言い終わると、唇をぎゅうっと噛みしめる。その幼い双肩に住人の全てが懸かっているとなれば、その無念さの全てを推して知るのは容易では無く、瑞樹達も沈痛な面持ちを見せ始めるが、ただ一つ瑞樹には疑問が残った。それはアートゥミでこの話しを全く聞かなかった事である。情報収集に余念が無いファルダン、それに依頼があれば必ず知っているであろうギルドマスター、瑞樹はその両名に会っているがただ一言もそのような事は聞いていない。
不思議に思った瑞樹は恐る恐るリンディにその旨を聞いてみると、依頼を出したのは旧年の十二月でもしかしたら忘れ去られていているのかもしれないと、乾いた笑みを浮かべながら答える。その痛々しい姿に何処か自身と重なって見えたらしく、瑞樹は一度目を閉じた後凛とした顔をリンディに向ける。
「リンディ様、もしよろしければその依頼……私がお受けしたいと存じますが、如何でしょうか? 」
全く予想だにしていない事を提案してきた瑞樹に対して、リンディのみならず傍らに座っているエレナですらぎょっとした様子で彼の方を向くと、先にエレナが慌てた様子で言葉を口にし始める。
「ちょ、ちょっと瑞樹様!? あまり考え無しにそのような事を言ってはいけませんわよ? 」
「そ、そうですよ。瑞樹様のお気持ちは嬉しいですし、民の間で噂されている事も存じておりますが……相手が海の中ではどうにも出来ませんよ」
「大丈夫です。こう見えても私は以前冒険者をやっていましたし、奥の手もあります。それに何より私の従者であるトリエはここの出身でもあるのです。彼女に悲しい思いをさせたくありません」
「トリエ……確か町で唯一の酒場を経営している者の娘でしたか? 」
「いえ、私はそこまで詳しく存じないのですが……リンディ様はご存知なのですか? 」
「僕も彼女については殆ど存じないのですが先代当主……僕の父が逝去する随分前にメウェン様の元へ奉公に出したとか少しだけ聞いております。見ての通りこの町は漁が盛んで収入源もほぼ全てそれに頼っております、故に収入にもかなりの幅がある為に、悪く言えば偶然年頃だったトリエを売りに出したようです」
リンディの言葉を聞き終わった瑞樹は顔をむっとさせていた。この世界では奴隷商が普通に存在するように、人間を売買する事自体は人目を憚りながらも平生から行なわれているし、何より瑞樹自身もノルンを買った事実がある。何より背負っている人命の多さを考えれば致し方無い、自身の思う綺麗事に歯噛みしつつも、瑞樹は再び口を開く。
「ともかく、私はその依頼をお受け致します。リンディ様、よろしいですね? 」
「……本当によろしいのですか? 下手をしたら二度と陸地に戻って来れないのですよ? 」
「勿論です。そもそもそんな簡単に死ぬつもりは毛頭ありません」
「……承知致しました。そこまで仰って頂けるのならば僕からも正式にお願いしたいと存じます。それに討伐に向かう際は僕も同行します。客人に任せてばかりでは家の名が泣いてしまいますので」
「……もう、殿方はどうしてそう危険な道を歩みたがるのですかね? 」
「申し訳ありませんエレナお嬢様。ですが男には時に退いてはいけない事があるのです。何卒ご理解ください」
「分かっておりますわ瑞樹様。いついかなる時も貴方様の味方である事を誓ったのですからこれ以上苦言を呈す真似は致しませんが、従者の皆や護衛騎士の説得はご自身でしてくださいね? 」
瑞樹はすっかり忘れていたというような面持ちでうっと唸ると、じんわりと冷たい汗を流しながらエレナに助力を懇願した。するとエレナははぁと深い溜め息を吐き、肩を竦めながら「今回だけですわよ」と彼のお願いを聞き入れる。
その後リンディが自身も知らない情報を持っているかもしれないから、直接漁師の話しを聞いた方が良いと瑞樹に提案すると、彼もその提案を受け入れる。こうして瑞樹達は情報のすり合わせと未だ正体不明の邪神なる魔物への対策を講じるべく、トリエが居るであろう酒場へ向かおうとするのだが、その前に瑞樹には絶対にやらなければならない事がある。瑞樹は脳裏に何人かの怖い顔を過らせ、むしろ討伐よりも緊張しているような面持ちで従者と護衛騎士の待つ別の客間へと向かうのであった。