最後に
一週間が経った。
私の死ぬ日だ。
あれから、本当に何も、夫婦らしいと思われる事も考えつかず、また、死ぬ手段も考え付かないでいた。
でもこれで良い。
清々しい気分で毎朝を迎えていた私は、今日は一段と素晴らしい日が来た気がしてならなかった。
「おはようございます」
凛とした声に振り返ると、いつもと同じように無表情を浮かべた彼女がいた。
「おはようございます。今日はとても良い朝ですね。晴れているし。今日が晴れで本当によかった」
私は彼女に何度見せたであろうかの笑顔を見せ、挨拶を返す。
「そうですか」
彼女は表情を崩さない。
「あ、朝食の時間ですね。行きましょう」
これが最後の朝食だと思うと、毎日食べているものもまた一段と味に深みが出たような気がしてくる。
緊張しているのだろうか?
いや、期待しているのだと思う。
この日の朝食は、いつもより少し多めに食べることができた。
朝食を済ませ、私たちは完成しているであろう指環を取りに向かった。
ホテルはチェックアウトを済ませた。
もう、戻るつもりはない。
結婚してから変わらず、2人で並んで歩いていく。
移動中、相変わらず彼女は何も話さない。
ただ、私が歩く隣をほつほつと同じ速度で付いてくるだけだ。
私も相変わらず何も話さない。
話す必要が無いと思っているからだ。
話してしまえば彼女が彼女としてあり得なくなってしまう気がするから。
お互いに口を開く事なく歩いている。
会話のない状況でも、変に緊迫する事なく、不思議とその状態が安心する空気なのだ。
これで良い。
私はただ、そう思いながら、彼女と並んで歩ける幸せを噛みしめるように、目的地までゆっくりと歩いていった。
まだ、死ぬ方法は思いついてはないない。
店に入り、名前を告げると店員が笑顔で小箱を持って来た。
「お待たせ致しました。こちらになります」
中身を確かめる。
それは、確かに一週間前に惹かれた指環だった。
指環の取り扱いに関して、レクチャーを受ける。
一通り話が終わると私は箱を閉じ、店員に礼を言い、店を後にする。
店を出てしばらく歩くと、私は彼女に尋ねた。
「さあ、この後どうしましょうか?」
私は彼女に聞いてみた。
「どのように自殺なさるおつもりですか?」
「まだ考えついてはいません。どうするのか、どうしたらいいのか」
私の返事に、彼女は何も答えない。
私たちは、目的もなく、まっすぐ歩いていった。
しばらく歩いていると、私にとって懐かしいものが見えてきた。
私が働いていたオフィスのあるビルである。
それを見て、思いついた場所がある。
とりあえず、そこに行ってみよう。
…
日が暮れて、都会の灯りがキラキラと存在を示すのがこの場所は一段とよく見える。
「ここは、誰も来なくて、見晴らしも良いので、よくここで昼飯を食べていたもんです。今となっては懐かしいな」
オフィスがあったビルの屋上に私たちはいた。
普段立ち入る人間がいないせいか、端っこには、転落防止のフェンスも無く、落ちようと思えば簡単に落ちられる所だった。
「死ぬのはここにしようかと思います。特に良い思い出はありませんが、まぁ、良い思い出がある場所で死にたくもありませんし」
もう死ぬ寸前だというのに、私はとても落ち着いていた。
いや、今から死ぬから反対に落ち着き払っているのだろうか。
それもわからない。
「私は、貴女が現れるつい数時間前に死のうと思い付きました。私はこの世界に生きていけないと思っていました。
そんな時に貴女が現れました。
貴女が死神だと名乗った時、死んでいい許可をもらったんだと私は思ったんだと思います。
そして、貴女が一瞬だけ零してしまった笑顔を見て恋をしました。生まれて初めてでした。人を好きになるのがこんなに幸せなものだとは思いませんでした。
話を理解しない私を見て、吃る(どもる)私を見て、蔑むこともなく、馬鹿にすることもなく、ただ待ってくれた貴女に更に恋をしました。
貴女から宣告された15日をどう過ごしたいか、それが貴女に恋をした事で決めてしまいました。こんな私にこんな長い間付き合ってくれて、感謝しています」
持っていた小箱を彼女の目の前に持っていく。
「これを」
私は小箱を開け、昔見たドラマのように彼女へ向ける。
「受け取ってください」
彼女は無表情のまま、手をこちらへ向ける。
私は小箱から指環を取り出し、彼女の薬指にはめる。
「どうですか?指環は」
彼女の言葉を待つ。プロポーズした時よりも返答を待つ時間が長く感じる。
どうだろうか?
しばらく指にはまったものを見て、彼女はそう答えた。
「悪くありません。指に馴染みます。とても」
彼女の答えを聞いて、私は安堵することができた。
これで、なんの悔いもなく、死ぬことができる。
「そうですか。良かった。気に入ってもらえて、私は嬉しいです」
彼女は無表情のまま、指環を眺めている。
「とても綺麗です」
思ったままを口に出した。稚拙な表現だが、それしか出てこなかった。
彼女の指にピタリとはまった金の指環は、彼女の滑らかな褐色の肌の中で静かに光っていた。
「ありがとうございます」
そう答えてから、彼女はまじまじと見ていた指環を触り始めた。
見たこともないものを与えられた子供のように、彼女は可愛らしい動きで指環を確かめている。
その動作を見た私は心の底から指環を贈れた事に感動した。
感動が心の奥底から湧き出てくる感触があった。
感情が湧き出すぎて涙が出てくる。
「私が死んでも、その指環を付けてくれますか?」
はじめての感触を確かめるように指環をいじっていた彼女に尋ねる。
「…善処しましょう」
私の希望に、彼女は指環から目を離し、私の方を向いて言う。
「そうですか。よろしくお願いします」
私は体を後ろへ倒した。
走馬灯とは本当に見るものだと生まれて初めて知った。これから死ぬのだが。
浮かぶ記憶は、彼女と過ごした15日間のわずかで、とても静かな記憶だった。
苦痛を過ごした時間は一切見ることなく、彼女と出会った時から指環を付けた彼女がまじまじと自分を見ている可愛らしい姿まで、鮮明に蘇ってくる。
幸せな記憶だった。
涙はまだ出ている。
その涙は悲しい涙ではない。苦行の毎日に絶望し、流した涙ではなかった。
体の真ん中から湧き出る幸せな感情から自然と出た涙だった。




