平穏を迎えて
日が明けて、時計を見る。普段出勤する時間よりもだいぶ遅い時間だ。毎日整えられるしっかりしたベッドの上で熟睡できた頭はしっかりと冴えていた。
「おはようございます」
鈴の音色を奏でるかのような挨拶は、それが私の起動スイッチであるかのようで、私を気持ちよく目覚めさせる。
「あぁ…おはようございます」
朝一番に彼女の美声が拝聴できる幸福は、ここ数日の日課だった。
「朝食ができている時間ですが、召し上がりますか?」
美しい褐色の顔をふわりと近づけながら彼女は尋ねてきた。
「あぁ。行きましょうか」
私たちは食堂へ降りた。
結婚した翌日。自らの死期を知った私は、早速会社を辞めることに決めた。
とはいえ、辞め方を知らない私は上司のデスクへ電話一本、
「やめます」
と伝え、そのまま電話を切って終えた。
もちろん寝耳に水の上司は、すぐさまこちらにかけ直してくる。携帯から聞こえてくる暴言をじっくり五分は聞いただろうか。
人間として終わってるうんぬん。
ここで辞めたらどこ行ってもかんぬん?
一生懸命に働いていた時は、畏怖の存在だった暴力的な上司の怒鳴り声は、いざ辞めるとなると酷く矮小な独り言に聞こえてくる。
私はこんなものに恐怖し、頭を下げ、従っていたのかと自分自身に呆れかえってしまった。
何度も同じセリフを繰り返しながら怒鳴っているだけのことに気づいた私は、いい加減黙って聞いてるのも飽きてしまい、そのまま携帯を折ってほかってしまった。
携帯を捨てた次は住まいを捨てる。会社の人間が様子を見に来ない為だ。来るとは思っていないが、来てしまったら対応しなければならない。
せっかく切った縁が修復されてしまわないように、現在の住処を変えるのだ。
今まで使っていたアパートを引き払う。
引っ越し先は、二駅離れた大きめのホテルだ。
必要なものは特にない。着るものと財布・通帳くらいだ。他は全て捨ててしまった。
見えた希望を胸に抱き、私たちは住処を変える。少し大きめの鞄に入ってしまった持ち物を肩にかけ、彼女と二人きりで。
「えー、と。で、では、行きましょうか」
声をかけられた彼女は、ゆっくりと立ち上がり、私の後を付いてくる。
部屋を出る時、彼女は少しだけ振り返り、空っぽの部屋を見渡した。
移動中、彼女は何も話さない。何処へ行くのか、何をするのかも聞こうとしない。ただ、私が歩く隣をほつほつと同じ速度で付いてくるだけだ。
初めて会った時から変わらない彼女の無表情は、彼女と結婚してからも崩れる事はなかった。
私も何も話さない。話す必要が無いと思ったからだ。話してしまえば彼女が彼女としてあり得なくなってしまう気がしたのだ。
お互いに口を開く事なく歩いているが、会話のない状況で緊迫する事なく、不思議とその状態良いかのような安心する空気だった。
これで良いのだ。
私はただ、そう思いながら、彼女と並んで歩ける幸せを噛みしめるように、目的地までゆっくりと歩いていった。
そうして新たに拠点を移した部屋は、夫婦2人で過ごすのには問題ない程度の広さだった。
意気込んでプロポーズしてみたは良いものの、夫婦というものは何するのだろうか。
とにかく彼女の近くに居たい一心で思いついた回答だったので、その後どうするかなど、まったく考えてはいなかった。
何をするのか、何がしたいのか。うだうだと考えているうちに、彼女と結婚してから数日が過ぎていたのである。
しかし、何もせず、ただのんびりと日がな一日を彼女と過ごしているだけでも良いような気がした。
もう少し噛み砕いて表現すると、何故だか自分を取り戻せるようなそんな気がした。
そんな些細な幸せをしみじみと感じながら、ほとんど何もしない日を過ごしていた。
2人で食事を食べ終え、一休みをしていると、従業員が皿を下げに来た。
なんの気もなしに見ていると、彼女が指輪を付けている事に気がついた。
結婚してからどうするのかは知らないが、結婚するときにどうするかは知っている。
結婚指環だ。指環を渡さなければならない。
私はまだ、妻となった彼女に指環を渡していない。買ってすらいなかった。
「ああ、そうか」
声を出して納得した私を見て、一瞬怪訝な表情を浮かべた目の前の女性に、私は姿勢を正して言う。
「買い物に行きましょう」
唐突に出た発言に彼女は戸惑う事なく、無表情のままでわかりましたと頷いた。
そして私たちは数日ぶりにホテルの外へ出た。
街中を並んでゆったりと歩いていく。
元々住み慣れた街だ。何処に何があるかは大抵わかる。
道中、工具店を見かけ、まだ自分が死ぬ方法を考えていない事を思い出した。
そろそろ死期は近い。早々に指環を買って、それから決めねば。
宝飾店の前に着いた時、彼女は疑問を顔に出していた。
私は彼女の表情に答える。
「いや、結婚したのに、結婚指環の一つも渡していないのは、なんだか寂しいと思いまして」
私の答えに彼女はとうとう疑問を口に出す。
「私は別に必要ありませんが?」
「私が気にするんです。指環はお嫌いですか?」
私の質問を聞いて、しばらく彼女は自らの玉のような手を眺めて答える。
「…付けたことが無いのでわかりません」
付けたことが無い。そう聞いた時、私は心が踊った。そういった経験が無いのだ。つまり彼女は私以前に結婚した経験が無いということだ。
あっけなくプロポーズを受け取られた時は慣れているものだと絶望していたが、そうではなかったのだ。
そう発想した私は、笑顔を浮かべ、彼女に指環を渡さなければと決心した。
「では、付けてみてから考えはどうでしょうか?」
私の問いにしばらく考えていた彼女は、
「わかりました。お願いします」
そう答えた。
店に入ると、上品な店員がこちらに声をかけてくる。
私は、彼女に指環を買いたいと伝え指環の前まで誘導される。
店員が彼女に好みを聞くも、わからない、特に無い、というように淡々と答えられ戸惑ってはいたものの、何とか商品を勧めてくれた。
勧められた商品を見ていくと、シンプルな金の指環を見つけた。
そういえば、彼女は死神だが、銀とかそういったものは大丈夫なのだろうか?
よく、銀は対魔の武器として扱われていると聞く。
銀よりも、金の方が良いのではないだろうか?
いや、魔物でも妖怪でもなんでもないのだから関係ないものなのか。
しかし、金の指環を見つけてしまった私は、その考えから抜け出せずにいた。
じっと金の指環を見ていた私を見つけた店員は、助け船を見つけたかのように私に声をかけた。
「あ、あの!こちらは結婚指環に人気の物でして、如何でしょう?旦那様も気に入られたようですし」
結婚指環用か。自分の目利きは間違っていなかった。
金か。たしかに彼女の美しい褐色の指には白く光る物より、彼女の肌をより美しく見せる色だ。
「これにしますか?」
彼女に聞いてみる事にした。
「構いません」
相変わらずの淡々とした返事が返ってくる。
「ありがとうございます!では指の採寸をしますね?」
店員が彼女の指の大きさを計り、支払いを済ます。
「ご成約、ありがとうございます!では奥様のサイズに合わせたものを発注いたしますね」
「どのくらいで出来上がるものなんですか?」
私が、質問をすると、しばらくお待ちください、と店員は店の裏へ行き、しばらくすると戻ってきた。
「お待たせしました。今確認したところ、ちょうど一週間後にお渡しする事が可能です」
一週間後。ちょうど私が死ぬ日だ。間に合ってよかった。
店を後にした私たちは、行きと同じように並んでまたホテルへと帰っていった。
死に方は、まだ決めていない。まだ、何の道具も準備していない。
結婚生活というものも、まだ何もわかっていない。正直なところ、指環を買ったのも正解だと、確実には言えない。
でも、このままでいい気がしてきた。
そうして、残りの一週間、私は、最愛の人と一緒にのんびりと余生を過ごしていった。




