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信じられない生物。信じられない轟音。信じられない衝撃。信じられない光景。信じられない修羅場。信じられないづくしのオンパレードのこの状況で、さらに葛城勇気に追い討ちをかけるのは、何の統一性もないこの面子であった。
「よいか、お主ら! 敵は強大! だが拙者の方が更に強大! うははは、恐れることは何もない! いーざー、拙者に続けえええ!」
腰に差した日本刀を抜き放ち、はしゃぎながら一直線に目標に駆けていくのは、自称日本一強かったという凄腕の侍だ。
「壁だ! 目の前に壁がある! この壁を乗り越えた時、僕は生まれ変わることが出来るんだ! 笑いの神様は常に僕を見守ってくれている! ビビんな、おるらあ!」
などと、アドレナリン全開で侍の後に続くのは、自称日本一の潜在能力を秘めているという肉体派お笑い芸人だ。
「こ、怖くない。怖くないぞ。奴を部長だと思うんだ。今こそ積年の恨みを……いちいち小さなミスでネチネチ嫌味言ってくんな、クソボケハゲがあ!」
開き直ってその後に続くのは、自称日本一ついてないサラリーマンだ。
そして、彼らの背中を黙って見守るのは、葛城勇気と水野雅。二人共に、別に肩書きはないが、どちらも平凡の枠には収まらない高校生だ。ちなみに、この五人はまだ出会って間もない、いわゆるほとんど見ず知らずの他人同士だった。そんな五人がこうしてチームを組むことになったのには、それなりの理由がある。
そして――。
「ぬううおお! 必殺ツバメ返しぃ!」
「笑いの神様見てますかあぁ!」
「死ねや、クソハゲ! 口臭えんだよ、てめえ!」
彼らのその行動が勇敢なのか無謀なのかは難しい問題だった。勇気にとって、そんなことよりも重要なのは夢にしてはあまりにもリアルなこの臨場感だ。いや、これが夢などではないことは知っていた。ただ、その光景を前に、またしても妥協の基準を緩める必要性が出てきたというだけの話だ。それをなすには、さしあたって、現実に全長二十メートルは優に超えるゴーレムが存在し、人を襲いまくっているという事実と、そんな怪物にひるむことなく立ち向かっていく、いろいろな意味で勇敢な人間が蟻の群れのように溢れかえっていることを受け止める精神力が要求された。かなり酷な話だ。
「あの、葛城君……」
勇気の傍に立つ雅が、おずおずと固まった空気を溶かすように勇気に声をかけた。勇気の身にまとった学ランの袖の端をちょこんと握り、不安げに曇った瞳を勇気に向ける雅の仕草は、しかし、勇気からすれば「ゴーレム対人類」の決闘を目の当たりにするよりも、よほどショッキングな出来事だった。
「さ、さ、ささ――触るな……!」
とっさに雅の手を振り払い、勇気は逃げるように後ずさった。身長180センチ、体重八十キロを誇る巨漢が、一見して迸る喧嘩上等なオーラを見る影もなく萎縮させ、後ずさった拍子に自分で自分の足を引っ掛けて、地面に尻餅をつく。
巷の不良から喧嘩最強と言わしめ、凶器つきの不良二十人に囲まれても眉一つ動かさない勇気をここまでうろたえさせるのは、殺気や威圧、威嚇の行き交う世界に身を置いてきた勇気にとって未知の生物と言っても過言ではない――女の子という人種だ。
勇気の後方五十メートルほど先では、巨大な岩の塊が暴れ狂い、飛び掛る人間を踏み潰している。が、勇気にとっての脅威は後方のゴーレムよりも、目の前の女の子だ。地を這う地響きも、舞い上がる粉塵も「ぬうう! 踏ん張れ、物干し竿! そうりゃあ、つばめ返しぃ!」「笑いの神様ぁー!」「ひいい! すんませんした、すんませんした、部長! 許してー!」など幾多の悲鳴の間に挟まって聞こえてくる怒号も、水野雅のかもし出す魅力には敵わない。
肩甲骨辺りまで下ろした艶やかな黒髪。ブラウスの白は、彼女の肌の色と同調するかのような決め細やかさを携え、華奢な体を包み込んでいる。胸元の膨らみに添えるように飾った赤のリボンに、白黒のチェックのスカート。紺のハイソックスにローファー。高校指定の服装に身を包んだ雅のそこかしこから発散される「可愛らしさ」は、まさに勇気にとってはゴーレム以上にたちの悪い凶器に他ならなかった。
「あ、あの……ごめんなさい」
勇気に手を振り払われ、あまつさえ「触るな」と罵られた雅は、振り払われた手を胸に抱き、悲しそうに顔を伏せた。その仕草と消え入るような雅の声は鋭利な刃物となって、勇気の胸に深々と突き刺さった。すぐに弁明して謝ろうにも、緊張のあまり舌が回らず、勇気は雅を見つめることしか出来なかった。
目の前で俯く雅の姿は、勇気の胸を詰まらせた。しかし、この息苦しさに勇気はもう慣れている。誤解も、誤解が誘う偏見も、痛みも。目を逸らしさえすれば、いつだってやり過ごすことが出来るのだ。
言葉もなく尻餅をついたままの勇気と、立ち尽くす雅。気まずい沈黙が二人を包むが、その五十メートル先では相変わらず「ゴーレム対人類」の決闘が繰り広げられていた。数え切れないほど存在した人類は、しかしものの数分で全滅の危機に瀕している。こんなところで他人顔をしている場合ではないのだが、これも一種の現実逃避みたいなものだ。その光景、ツッコミどころは満載だったが「なんでやねん」とツッコミを入れてしまえば、もう二度と戻っては来れないところまで引きずり込まれるであろう事を、勇気は無意識のうちに理解していた。もっとも、雅を前にうろたえている今の態度は、演技でもなんでもないのだが。
「ねえ、葛城君……。あなたはなんで――」
おずおずと言葉を紡ぎだした雅の声は、何の脈絡もなく天から降ってきた音楽に遮られた。正確には音楽というどのジャンルにもそのメロディーは区分けされてはいないが、日本人であるなら誰もが一度は耳にしたことがあり、そのリズムに合わせて体を動かしたことがあるだろう。
「ラジオ体操第一〜」
しっかりとしたおっさんの声が、見渡す限りの大空から降り注ぐ。同時に空を仰いだ勇気と雅はそのまま身動きが取れなくなった。二人の視界には雲ひとつない、淀みない青がくっきりと浮かんでいる。そこから、どこからともなく地上に降り注ぐメロディー。シチュエーションは神秘的だが、神秘と認めるには明らかに音楽のチョイスに問題があった。が、驚くのはまだ早い。
「腕を大きく上げて背伸びの運動〜はいっ」
おっさんの指図に合わせて、なんとゴーレムがラジオ体操を始めたのだ。いち、にい、さん、しい、のリズムに合わせて、ゴーレムが背伸びの運動をしている。
頭、腕、足、五体を持った巨大ゴーレム。巨岩で固められ、人の形を模しながら、人にはなりきれない怪物が、ラジオ体操をしている。背伸びの運動をしている。怒号の飛び交っていた戦場はピタリと時間を止め、人類はゴーレムのラジオ体操を誰もが黙って見守ることとなった。ノリのいい人間はゴーレムと一緒にラジオ体操を始めている。
見知らない砂漠の果てで繰り広げられるその光景は、しかしたちまち、ゴーレムの巻き上げる砂埃に遮られ見えなくなった。音楽はいまだ続き、おっさんの声にあわせて、地響きがリズムを奏でている。
が、事態はまたもや一変することとなった。
ラジオ体操が終わり、空から音楽が鳴り止むと同時に、突如としてゴーレムが暴れだしたのだ。呑気にラジオ体操をしていた人間はもちろん回避する暇もなくゴーレムに踏み潰された。その暴走を誰が予期しただろうか。少なくとも、ゴーレムは今までその場から一歩も動かずに、勇気の目にはあくまで自分に襲い掛かってくる人類に対してゴーレムは迎撃の形をとっているとしか見えなかったのだが、今は違う。何せ、逃げ惑う人類をゴーレムがダッシュでその後を追いかけているのだ。
舞い上がった砂埃をかき消して飛び込んできたその光景に、勇気は驚きながらも、すぐにその意味することに気付き戦慄を覚えた。ゴーレムは一直線に勇気と雅に向かって突進してきているのだ。
軽い地震を引き起こしながら、岩の怪物が勇気と雅に迫っていた。遠目から眺めるだけでも化け物なゴーレムが、ものすごい勢いでこちらに向かってきている。ゴーレムに意思があるのかないのかは定かではないが、差し迫ってくる確固たる殺気に勇気は身震いした。またも、現実と夢との境が曖昧になりながらも、現実逃避などしている場合ではないことを悟り、勇気はようやく行動を起こした。
「に、逃げろ……」
愕然と傍に立ち尽くしている雅に目をやり、勇気は震える声を絞り出した。声が震えるのは、差し迫っている死の恐怖のせいでもあり、雅のせいでもあった。が、雅は勇気の声など耳に入らないらしく、蒼白な顔をして、迫ってくる岩の塊を見つめていた。
「おい! 逃げろっつってんだよ! 死にてえのか!」
「は、はいっ!」
勇気の怒鳴り声に、雅はようやく我に返り、飛び上がって勇気に向き直った。勇気の必死の形相に、雅は息を呑み、ようやく行動を起こす。くるりと勇気に背を向けると、雅はたちまちその場から駆け出した。
「……くそ」
思わず雅に怒鳴りつけてしまった自分に嫌悪感を抱きながらも、耳を劈く地響きは、勇気に後悔の時間さえ与えなかった。舌打ちとともに、勇気は全力で砂地を蹴り、ゴーレムとの鬼ごっこに参加することを余儀なくされた。
「ぬうう! 奇怪な踊りを前にして呆けてしまったせいで、この体たらく……一生の不覚!」
「くそう! ゴーレムがラジオ体操なんて……なんておいしいんだ! 笑いの神様は奴に味方してるのかっ!」
「部長、許して……許して、部長……部長、許して……」
追いつかれれば最後の、命がけの鬼ごっこ。逃げる人類の先頭にその三人を見つけたが、勇気は声をかけず、逃げることに専念した。
踏み出すごとに砂が足に絡みつき、思うように走ることが出来なかったが、持ち前の巨体から繰り出される力任せな脚力に物を言わせ、勇気は疾走した。学ランに黒ズボン。砂漠にケンカを売ってでもいるような暑苦しい黒尽くめの服装の、せめて学ランだけでも脱ぎ捨てれば少しは涼しくなりそうだったが、今の勇気にそこまで気を配る余裕はなかった。
たちまち前を走る雅との距離が詰まっていき、勇気は思わずその速度を緩める。全力で走ってはいるのだろうが、女の子の脚力ではこの砂漠でゴーレムから逃げ切ることはとても不可能だ。
勇気が雅に追いついた頃には、ゴーレムはすでに五十メートルほどあった距離を半分以上縮め、元いた人類の三分の二ほどを蹴散らしながら、無言のダッシュで人類を絶望の淵へと追い立てていた。
こんな時、男なら颯爽と雅の手を引いてやるべきなのだろうが、勇気には手をこまねいて雅と並走することしか出来なかった。おまけに、声をかけることも励ますことも出来ず、ただ無言で並走するしかない勇気の行動は、端からはなにがしたいのか分からない奇怪な行動にしか見えない。雅もそんな勇気に気付くと、若干怯えた顔で勇気を見た後に、気付かなかった振りをして、必死にゴーレムから逃げることに専念していた。
そうこうしている間に、人類の先頭を走っていた三人が勇気たちに追いつき、その頃にはもはや人類の生き残りは、勇気たちを含めたったの五人だけになっていた。全くダッシュのペースが落ちないゴーレムを相手に、鬼ごっこで人間が勝てる道理などどこにもない。というより、初めからケンカを売ること事態が、勇敢などではなくただの無謀だったのだ。
「いいか、お主ら! あそこのオアシスまで持ちこたえろ! そして、たどり着いたらすかさずあの泉に飛び込めっ! よいな!」
すでにチームのリーダー気取りの侍の男の言葉に、納得する者は誰もいなかった。が、誰もがいぶかしむや否や、侍の男は腰に差した刀を抜き放ち、血走った目をメンバー全員に向け、叫んだ。
「拙者を信じるのだっ! よいなっ!」
有無を言わさぬ侍の男の迫力に、勇気と雅以外のメンバーは全員肯いていた。一方、勇気と雅はすでに三人に抜かれ、デッドゾーンギリギリを仲良く並走していた。
ゴーレムの巨大な足が、勇気と雅の一メートル背後を踏み潰し、さらに二人をデッドゾーンへ引き込む。ゴーレムから形作られた影が、勇気と雅を飲み込み、死の音色が砂埃とともに勇気と雅に絡みつく。ここまで死線に差し迫られながら、まだ勇気は雅の手を引く決心がつかず、悶々と悩み続けながら雅の横を走り続けていた。が、不意に隣から上がった雅の短い悲鳴に、勇気は我に返って隣に目を向けた。
躓いてから、地面に倒れこむまでの雅の姿が、勇気にはまるでスローモーションのようにひどくゆっくりと感じられた。そんなもどかしい感覚の中で、振り返った勇気の目に映ったのは、死という名の絶望だ。
振り上げられたゴーレムの巨大な足が、地面に倒れた雅の頭上からひどくゆっくりと降ってきていた。その光景の先に勇気が見たものは、死ぬ直前に見た光景と同じものだった。
――もう二度と死なせはしない。
決心が勇気の羞恥心を突き破った時には、すでに巨大な岩の塊は、二人のすぐ頭上まで差し迫っていた。
更新は週一の予定です。