第十七話 預言者
哭き声が聞こえる。
哭き声が聞こえる。
……響の泣き声なんて、初めて聞くなあ。
あいつ、どんな時でも泣いたとこ見せたことなかったっけ……。
――哭き声?
全身から感じる気怠さを振り払いながら、杖にするように長剣を地面に突き立て、身体を起こす。
上半身だけの姿になった響が、その碧眼から血涙を流しながら、空中で哭き続ける。
天使が四本の腕を振るい、閃光、針毛、乳房からの液体を響目がけて放つが、響を護るように宙を舞う二振りの短剣が、全ての攻撃を受け流し、切り払う。
「あ゛、あぁあ……。ひゅう、ひゅう……」
加賀先生の荒い喘鳴を耳にして、足を引きずるように、加賀先生のもとへ歩み寄る。
加賀先生は、肩から先の右腕を失い、荒い呼吸を繰り返している。傷口は閃光に焼かれたのだろう。出血はない。
確か、天使から放たれた閃光から、俺を突き飛ばして……。
俺のせいだ!
「加賀先生、しっかりしてくれ!」
治癒の言霊で加賀先生の傷を癒し、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。
荒い息が少しずつ、穏やかなものに変わり、顔色が徐々に血色を取り戻していく。
一命は取りとめたのか?
医学の心得が無い俺には分からない。
こんな事なら、もっと色々なことに興味を持って勉強しておくんだった!
哭き声が聞こえる。
加賀先生を庇うように立ち上がり、長剣を握りしめる。
神食の武器を握ると、疲れた身体に徐々に活力が蘇るのが分かる。
『癒しの力を我が身に』
言霊で自分の傷を癒しながら、響に視線を向ける。
哭き続ける響の上半身から、血の糸が無数に伸びて、潰された人体の何かを引きずり上げるのが見える。血を纏う響の上半身にそのまま接合。下半身として復元されていく。
五体満足となった響の背中から、朱く輝く翼が広げられる。
禍々しいのに、神々しい。
響はその翼を大きく羽ばたかせながら、空高く飛翔する。
両腕に握りしめた短剣を振り下ろすと、短剣から「朱い斬撃」が放たれる。
光り輝く天使の障壁は、「朱い斬撃」に触れると霧散する。
そのまま「朱い斬撃」が天使を頭から斬り割き始める。
倒したか?
「朱い斬撃」が天使を完全に両断する前に、見えない何かに斬撃が弾き返されて霧散する。
――気が付くと、響から天使を庇うように、白いローブに身を包んだ人影が宙に浮いている。
「落ちろ」
人影の呟きとともに、何かに抗うように翼を大きく羽ばたかせるが、力負けしたように響が墜落していく。
人影がこちらに向き直る。あの顔は……金剛おじさん!
「おや、その顔は武蔵君かな。久しぶりだねえ。十年ぶりか、すっかり大きくなったねえ」
まるで世間話でもするように、金剛おじさんが俺に笑いながら話しかける。
その右手には白く輝く本――あれを何とかすれば!
『炎の矢が我が敵を穿つ』
俺が言霊で放った炎の矢が、金剛おじさんの目の前で霧散する。
「あははっ! 相変わらず、武蔵君は腕白だねえ。その調子で響と鈴音を振り回しているのかな? マルレーネはどうしてるかね? 寂しがり屋のあいつの事だ。十年も音沙汰がないと、拗ねているのかなあ」
金剛おじさんの笑顔は十年前から変わっていないように見える。
洗脳されているように見えない。
金剛おじさんが何かを聞き取るように耳に手をやる。
「……神様が帰還せよと仰せだ。天使と勇者との戦闘は、とりあえず十分に記録できたよ。今日のところはこれで失礼しようかな。鈴音にもよろしく伝えてくれたまえ。次の再会は三か月後かな。預言者も色々と忙しくてねえ」
一方的に俺に話しかけた後、忽然と金剛おじさんと一緒に、天使の巨体が消え失せる。これが金剛おじさんの瞬間移動なんだろうか。
「武蔵ぃ、彩先生は大丈夫かにゃー?」
全身血まみれになった祐也が、何時もの軽い口調で俺に話しかける。
「祐也、お前こそ、その血……。だ、大丈夫なのか?」
祐也が不自然な笑顔でますます明るい声色になり。
「……これは、ほとんどインガちゃんの返り血にゃー。俺を庇って死んでしまうなんて……。俺は罪作りな男だねぃ」
振り向いた祐也を追うように視線を向けると、誰かを庇うように仁王立ちのまま絶命した、血まみれのインガの姿が見えた。
全身が棘で穴だらけ、汁を浴びたのか身体が溶けかかっており、臓物が地面にぶちまけられている。
あまりの光景に、俺は地面におう吐してしまう。
ガツンと目の前が赤くなる。
祐也に殴られた?
「武蔵ぃ、俺を庇って死んだインガちゃんを見て、その反応はありえないにゃー。……気付け代わりに、もっと殴った方が良いか? オラァッ!」
普段は道化めいた言動をする祐也が、本当はその胸に熱い情熱を秘めている事を、俺は知っている。
「……ごめん、祐也。今のは俺が全面的に悪かった。許してくれ。インガには感謝しないとな」
「分かればいいにゃー。俺は彩先生の様子を見ながら、生き残った騎士たちの手当てをする。武蔵は響ちゃんを回収してくれ」
そうだ、響! あんな高い場所から墜落して大丈夫なのか?
慌てて響目がけて駆け出す。
天使と戦った事で俺の身体能力は更に強化されたのだろう。遠く離れていた響の下へ、あっという間に駆け抜ける。
響は穏やかな顔で眠っている。胸に手を当てるが、確かな心臓の鼓動を感じる。息も乱れていない。
「おいおい、響ぃ……。何時もなら俺が、響の胸は固いなあ、とごちて、響がアイアンクローをかましてくるところだろう。早く起きろよ……」
何時までも響が目を覚ます気配が無い。響の短剣を回収し、響を背負い、加賀先生の下に戻る。
加賀先生は意識を取り戻したようで、半身を起して地面に座っている。
「大和君、無事でよかった……。響さんの様子はどうですか?」
自分は俺を庇って片腕を失っているのに、その事をおくびにも出さずに、俺と響を気遣うように暖かい声色で話しかけてくれる。
「響は目を覚ましませんが、呼吸は安定しているようなので、おそらく大丈夫だと思います。……それより、先生。俺の為に右腕を。……本当にごめんなさい」
最後の方は涙声になってしまう。
俺の頬に暖かい掌が寄せられる。
加賀先生の左手だ。
「先生の事なら大丈夫ですよ。教え子を護ることは先生の本望なのですから。日向君も無事でよかったです。インガさんには感謝しなければなりませんね」
生き残った騎士たちが集まりはじめる。戦死したのはインガだけだったようだ。他の騎士たちは血まみれになりながらも、自分の足で立っている。
「インガーッ! 死ぬ順番が違うだろッ! 子供の頃のお前は、何時も私の後ろについてくるだけだったじゃないかーっ!」
インガの亡骸を抱きしめながら滂沱する、リンマの慟哭が草原に木霊する。
騎士たちは二人を見守るように、黙とうを捧げている。
砦の方から、馬が駆ける音が近づいてくる。
エルフの騎兵たちだ。
「天使の姿が消えたのを確認して、私たちを迎えに来たのでしょう。帰還します」
意識が無い響と、利き手を失った加賀先生は騎兵の後ろには跨れない。
響は俺が抱きかかえ、加賀先生は祐也が抱きかかえて、騎兵に並ぶように駆け出し始める。
インガの亡骸は、エルフたちが召喚した、熊の祖霊が抱きかかえながら砦へと向かう。
戦死したエルフは、その祖霊が墓場まで運ぶことが、最大の手向けなんだそうだ。
天使は撃退した。それでも勝利したという実感が無い。
俺の為に右腕を無くした加賀先生に、どう報いれば良いのだろうか。
歯噛みしながら砦に入場すると、エルフたちの歓声が木霊する。
彼女たちから見たら大勝利なのかもしれない。
だけど、加賀先生は!
鈴音たちも俺たちを出迎えてくれる。
「武蔵ちゃん! 無事でよかった! ……お姉ちゃんはどうしたの? 大丈夫なの?」
鈴音が血相を変えて、俺の腕の中で眠る響の顔色を窺う。
「呼吸は安定してるし、顔色も悪くない。多分気を失っているだけだろう」
鈴音を宥めるように、落ち着いた声色を取り繕いながら微笑みかける。
鈴音の顔を見て、ようやく生き残ったんだという実感が湧いてきた。
鈴音の存在が、俺にとっての「日常」なんだ。
「じゃ、じゃあ、早く部屋に連れて行って、楽な姿勢で寝せてあげないと……。あれ? 加賀先生、その腕……」
加賀先生の腕を失った右肩を見て、鈴音が震えだす。
高雄と最上も血相を変えて、加賀先生に駆け寄る。
「……加賀先生、ごめんなさい。私も怖気づかずに、一緒に戦場に出ればよかった!」
「彩先生、その肩は……。どうしよう? どうしたらいいの!」
高雄と最上が泣き崩れる。
そんな二人を加賀先生は左腕で柔らかく抱きしめながら。
「右腕を失っただけで、先生は死んでしまったわけではありません。大丈夫ですから。それより、生き延びたことを喜びましょう」
勝利したはずなのに、全く高揚感が湧いてこない。
これが戦争なんだろうか。
少々短いのですが、武蔵視点はここまでなので。
次回からは再び、響の視点に戻ります。