エクリプスド・メモリーズ
鮮やかな黄緑色の木のトンネルを抜けると、小さな家が見えて来た。森の中、ぽっかりと開いた空間に、漆喰の壁にスレートぶきの屋根、小さな煙突からは白い煙が出ている。木々が無く開けた場所から、丸い飛び石が地面に埋め込まれていた。飛び石の始まる地点、庭への入り口には白い、腰ほどの高さまでの木戸が在る。
家の中は大きな一つの部屋となっており、奥には屋根裏に続く梯子が在る。壁には薬草が吊るされ、部屋の中央には長方形の机が在る。東側には四角い窓とキッチンが在った。その反対、西側にはソファが置かれている。その上には、腰まで在る金髪の少女が横たわっていた。着ているのは白い簡素なワンピースだ。
部屋の主らしい青年が、椅子に座ってペンを握っていた。長方形の机の上にはティーセットとインクの壺、羽ペン、そして一冊の分厚い本が置かれていた。その本は白紙で、青年は黙々とそこに黒い文字を綴っている。
青年の短い髪は淡い緑色で、鼻先には小さな丸眼鏡を引っ掛けていた。笑っているかのような糸目が特徴的だ。
衣擦れの音がし、少女が目を擦りながら身体を起こした。
「ああ、起きたかい」
青年がそう言って、少女は大きな青い双眸を瞬かせ、きょろきょろと周囲を見回した。
「森の中で倒れていたんだよ。僕が通らなかったらどうなっていた事か」
青年はちらりと少女に視線を向け、また本に向き直った。ペンが紙を擦る音だけが、静かな部屋に響く。
「ここは?」
暫くしてようやっと、少女がそう言った。青年はずり落ちた眼鏡を指先で押し上げ、少女に視線を向ける。
「僕の家だよ。落ち着いたら、村まで送って行ってあげる」
「あなたは?」
「ここで小さなお店をやっているんだ」
「……そう」
少女はソファに座ったまま、窓の外に視線を向ける。青年はその様子を暫し見詰め、それからまた本へと視線を戻してペンを動かした。
「君の、名前は?」
「……分からない」
「そう。家は?」
「分からない」
「家族は?」
「分からない」
少女はぼんやりと外に視線を向けたまま答える。青年は「困ったな」と頭を掻いた。
「君も記憶喪失か……」
「……も?」
青年の言葉に引っかかったのか、少女は視線を青年に向ける。
「ああ……ここはね、そう言う人ばっかりが来るお店なんだ」
青年は立ち上がり、玄関に向かった。ドアを開いてその外に吊るしてあるプレートを引っ繰り返すと、青年は机の下に仕舞っていた椅子を出し、薬缶に水を入れてコンロの上に乗せる。マッチでコンロに火を点け、薬缶に蓋をする。
「お腹空いてない?」
「え? えっと、大丈夫……」
「そう」
青年は机の上に開いていた本を閉じ、それを梯子の横の棚に持って行った。棚には同じ装飾の本がずらりと並んでいる。上から三段目、まだ半分ほどしか埋まっていない棚の一番右―――最も新しい場所に、青年はその本を収める。
「じゃあ、ちょっと休んでいてね。お客さんが来るみたいだから」
青年はそして、棚の引き出しから数枚の羊皮紙を取り出す。そして机に、羊皮紙とペン、そしてインク瓶から壺にインクを注ぎ足して並べる。
間も無くドアが開いた。ドア上部のベルが、からころと小気味の良い音を立てる。入って来たのは、上品な雰囲気の白髪の老婆であった。
「おはよう、記憶屋さん」
「おはようございます」
にこっ、と青年は笑みを浮かべ、椅子に座って女を見上げた。
記憶屋。客人が言った言葉を繰り返し、少女は目を瞬かせる。
「それで、今日は何時の記憶を?」
「そうねぇ……私の、お母さんのことをお願いしようかしら」
老婆は頬に手を当ててそう言った。そして懐から、紅い液体が入った小瓶を青年に差し出す。青年はそれを受け取り、インクの壺に中身を入れた。そしてインクを掻き回し、青年は手を老婆に差し出す。
「それでは拝見いたします」
老婆はにっこりと笑い、青年の掌に自分の掌を乗せた。青年は俯き、そっとその手を両手で包む。
瞬間――――ざわっ、と青年の髪が逆立った。少女は大きな目を更に見開く。青年と老婆の手が重なっている部分が淡く発光し、薄暗い室内にぼんやりとした光を投げかけた。
だが十数秒後―――光は緩やかに収まり、青年は何事も無かったかのように顔を上げる。目を開いているかもわからないような顔だが、恐らく前は見えているのだろう。
「はい、読み込めました。それじゃあ書き写しますね」
青年はそして羽ペンを取り、恐るべきスピードで羊皮紙に文字を書き始めた。眉根が僅かに寄っているので、真剣な表情なのだと分かる。少女は呆然として、その様子を見詰めていた。
書かれている文字は、普通の文字では無い。知識の在る者―――そして、インクに混ぜられた血の持ち主にのみ読める、魔法文字だ。
「はい、完成しました」
瞬く間に羊皮紙三枚を埋め、青年は赤黒いインクで文字が綴られたそれを老婆に差し出した。老婆はそれを受け取って視線を落とす。
「……ああ……ああそうよ、お母さん、お母さんだわ……」
老婆の目にみるみる涙が溜まった。そして両手で羊皮紙を胸に抱きしめ、青年を見上げる。
「ありがとうございます、記憶屋さん。忘れていた母の笑顔を、思い出すことができました」
「それなら何よりです。また何か御用でしたら、いつでもおいでください」
青年が言って、老婆は椅子から立ち上がって深々と礼をする。そして羊皮紙を抱き締めたまま、ドアを開けて出て行った。
「……ふう」
青年は棚から、先刻しまった本を取り出す。そして白紙のページを開くと、壺に残っていたインクを捨て、新しいインクで文字を書き始めた。
「あなた……何者?」
少女はソファから立ち上がる。青年は少女に視線を向け、笑った。
「記憶屋、と呼ばれているよ。僕は少々特殊な『体質』でね」
青年―――記憶屋は自分の掌を見詰め、手を握ったり開いたりして見せた。
「この手で直接触れた人の、記憶を、僕は好きに読み取ることができる。そしてそれを書き記すことも出来る。本人が忘れている記憶も、全て」
「……失っていても?」
「記憶は一度刻まれたら決して消えることは無い。本来はね。だから僕は、その人が思い出したい記憶を一つの『物語』として抜き取り、ストーリーとして渡すことができる。そうして、眠っていた記憶を呼び覚ますことが出来るんだよ」
記憶屋はそして立ち上がり、少女の前にその掌を差し出した。
「君の記憶も、全部、蘇らせてあげようか?」
「………………」
少女は暫時、その、インクの染みが在る手と記憶屋の顔を見比べる。そして、緩く唇を噛んで首を横に振った。
「そう。それじゃあ、思い出すまで―――思い出したくなるまで、ここに居ればいいよ。君の名前はレミリアだ」
「えっ?」
顔を上げる前に、青年は梯子を上って天井裏に行ってしまった。少女―――レミリアは呆然としてその姿を見送る。そして、俯いて胸の前で手を握った。
彼はどうやら記憶屋の他に、薬屋もやっているらしい。裏庭に在る菜園で収穫を手伝いながら、レミリアは汗を拭う記憶屋をじっとりとした目で見遣った。
「あなた、記憶を読むなんて凄い能力があるなら、街に出ても生活できるんじゃない?」
「街は苦手なんだよ」
記憶屋は苦笑して、首に巻いたタオルで顔を拭く。
「それに、ここの空気は清浄だからね。心地良いんだ」
記憶屋は丸太の上に座り、やれやれと空を見上げる。鳥が木々の間を飛び回り、甲高い鳴き声が降ってきていた。
「……あなたはどうして、記憶屋を?」
「この能力を活かさない手は無いだろう?」
「だったら街に居ればいいのに……」
「人が苦手なんだってば」
記憶屋は苦笑して頬を掻いた。
「それにしても、君、そろそろ元気になったし送って行ってあげるって」
「ここに居たいの。嫌だってもう何回も言ったじゃない」
「うーん……そうだっけ」
「あなた、人の記憶を読むのは出来るのに記憶力は悪いのね」
皮肉気に言ったレミリアに、「そうだねぇ」と記憶屋は応じる。
「……ん?」
記憶屋は顔を上げた。庭の入口の木戸を押し開け、一人の偉丈夫が庭に入ってきていた。腕には騎士団の腕章があり、腰には長剣を吊るしている。頬には生々しい傷跡が在った。
「お客さんかな」
記憶屋は立ち上がり、偉丈夫に近付く。偉丈夫は鷹のように鋭い目でじろりと記憶屋を見た。
「ハイド・ストーレンだな」
「……?」
記憶屋は首を傾げる。
「恍けるな。お前がこんな森の中に隠居したと聞いてわざわざ来てやったんだ。王宮に戻れ」
「王宮……?」
きょとんとして記憶屋は繰り返す。偉丈夫は舌打ちし、記憶屋の肩を掴んだ。
「良いから来い」
「お断りしますけど?」
記憶屋は偉丈夫の手を掴んだ。
「……ああ、僕の知り合いでしたか。王宮には戻る気は無いとお伝えください」
記憶屋はそして、驚いたような顔の偉丈夫を見上げた。
「ごめんなさい」
「…………そう、か」
偉丈夫は手を引く。
「ならその旨をスティンラ殿に伝えておこう。では」
偉丈夫は踵を返して出て行った。記憶屋は息を吐いて肩を落とす。
「やれやれ……」
記憶屋は細い目を更に細め、前髪を掻き揚げて苦笑した。
「ハイド・ストーレンか……」
記憶屋は踵を返し、菜園へと向かう。摘んだ薬草を抱えたレミリアが、固い表情で記憶屋を待っていた。
「僕は自分を語ることは出来ないよ」
夜、蝋燭の灯りに照らされる室内で、記憶屋はそう言った。昼間に見た偉丈夫のことで、レミリアが「あなたは何者なの?」と問うたことに対する返答だ。
「君こそ、自分の記憶を取り戻したいとは思わないのかい」
「……別に」
顔を逸らしたレミリアに、「そうか」とだけ記憶屋は答える。そして、ソファに横なったレミリアにシーツをかけ、ぽんぽんと優しくその肩を叩いた。
「君が記憶を取り戻したくなったら言ってよ。僕、忘れっぽいからさ」
そう言った記憶屋の笑みが、嫌に儚く見えて、レミリアはクッションを掴んで「うん」としか言えなかった。
朝日が差し込んで目が醒める。ベッドの上で体を起こし、記憶屋は枕元に置いてある本に手を伸ばした。既に習慣になっており、この動きはすっかり体に染みついている。
本の内容を読み進め、ページが白紙になったところで記憶屋は手を止めた。本を閉じて服を着替え、小脇に本を抱えて梯子を下りる。机の上に本を置くと、ソファの上でレミリアが起き上がった。
「っ!?」
記憶屋は驚いたように振り返る。
「ふあ……おはよう」
「あ、ああ、おはよう……レミリア」
そう呼び掛けると、レミリアはふわりと笑う。記憶屋は湯を沸かし、インクを壺に移してペンを取った。
「お茶、淹れようか?」
「良いのかい?」
「毎日淹れてるじゃない」
レミリアは苦笑した。「そうだったね」と返し、記憶屋は本に新たな文字を書き綴る。
「……ねえ、昨日の話だけど」
「うん?」
「私、記憶を取り戻すことにする。だからあなたの話を聞かせて」
レミリアは紅茶を入れ、記憶屋の向かいに座った。記憶屋はきょとんとして目を瞬かせる。
「お願い。あなたのこと、もっと知りたいの。ここに来てもう一ヶ月だけど、名前も名乗ってくれないんだもの。今更聞けなかったし、二人だから『ねえ』とかで事足りちゃうし。だけど、」
「ちょっと、待って」
記憶屋はペンを置いてレミリアの言葉を遮った。
「……一ヶ月?」
「え、ええ」
「……そうか……一ヶ月、隠し通したんだ」
記憶屋は口元に手を当て、くっくと笑った。その妙に悪戯っぽい笑みに、レミリアは困惑した表情になる。
「僕は、自分を語ることはできないよ。さあ君の記憶を、書いてあげよう」
記憶屋は手を差し出し、レミリアは顔を顰める。
「どうして、語ることが出来ないの?」
「覚えていないからだよ」
「え?」
「……覚えて、いないからだよ」
繰り返して、ゆっくりと、記憶屋はレミリアにその言葉を告げた。
「……え?」
その言葉が理解できず、レミリアは再度問い返す。記憶屋は哀しげな笑みを見せ、レミリアの手に触れた。
「君は、記憶喪失じゃないだろう? 僕と、違って」
「――――っ!」
「記憶を取り戻す気になったってことは、帰る気になったってことだろう? 良かった。じゃあ帰ってくれるかな」
記憶屋は立ち上がり、玄関のドアを開く。レミリアはしかし、俯いて首を横に振った。
「……もう少し、ここに居ちゃ、ダメ?」
「うん、困るよ」
そう、とだけ言って、レミリアは立ち上がった。そして、開かれた玄関のドアから足早に外に出る。
「世話になったわね」
「ううん」
レミリアはざくざくと草を踏みしめて歩き出す。後方で、ぱたりとドアが閉じられる音がした。
森の小道を抜けると、小さな村が在る。レミリアはその村唯一の飲食店に入った。
「……ああもう、最悪」
レミリアの視線の先には、数人の騎士が居た。その内の一人が、レミリアに気付いて近付いてくる。
「……探しましたよ、レミリア王女」
「スティンラ……あなたが出張るなんて」
レミリアは舌打ちをし、乱暴に椅子に腰掛けた。
「お茶の一杯くらい飲ませなさいよね」
「はい。今回は別件ですから」
「……記憶屋?」
「ええ」
知っていたのですか、と驚いたように、騎士の男―――スティンラは目を僅かに見開く。レミリアはアイスコーヒーを注文し、スティンラに座るように示した。
「ねえ、教えなさいよ。王宮の騎士が来るほど重要な人物なんでしょ、あの記憶屋。何者なの?」
「そう言われましても……隠すほどのことではありませんが、」
「じゃあ教えなさいよ」
ずいっ、とレミリアはスティンラに顔を近付けた。
「あなたが教えない限り、私ここをてこでも動かないわ。気になっちゃったんだもの」
「それは、困りますね……」
スティンラは苦笑した。
「分かりました。私が存じ上げていることで良ければ、彼―――ハイド・ストーレンのことを、お話ししましょう」
スティンラの言葉に、レミリアはコーヒーを一口すすり、満足そうに頷いた。
「彼、ハイド・ストーレンは、元々王宮の魔術師団の団長でした。それはもう優秀な。それでいて部下にも優しく、とても人望のある方でした。王女がお生まれになる前に、一つ、大きな戦争が在ったのです。その戦争で、彼の部隊は深手を負い、彼は……魔術に『喰われた』のです」
「喰われた……?」
「はい。魔術に制約があるのはご存知ですよね?」
「ええ。自分の許容魔力を超えた魔術を使うと、危険なんでしょう?」
「はい。それが『魔術に喰われる』ということです。その人が使用する魔術そのものに―――その魔術が及ぼす現象そのものに、術者が取り込まれることです」
「それに、なったってこと? あの……ハイド、は?」
「はい」
スティンラは水を一口含み、言葉を切って息を吐く。レミリアは両手でコーヒーのグラスを包んだ。
「彼が最も得意としていた術、そして喰われた術は『忘却術』でした。彼は人の記憶を読み、操り、書き換え、そして消去する、その術に長けていたのです。そして、その魔術に喰われ――――」
スティンラは俯いた。レミリアは無理に促さず、コーヒーを口に含む。
「記憶を……保持できない、人になりました」
「……え?」
苦々しく呟いたスティンラを見、レミリアは目を見開く。
「記憶は本来、自分の中にのみ存在するものです。そして何より、その情報量は他人が受け入れられるものではありません。ハイドさんは、自分の記憶を『失い続ける』―――その状態だからこそ、他人の記憶を読み取ることが出来るようになったのです」
スティンラは視線をレミリアから逸らし、唇を噛んだ。
「……でも、あの人は普通に生活して、」
「知識は失わないのです。でも……どうやら、一日以上、記憶を保持することは出来ず……ですから本人も、恐らくそれに気付いていないのでしょう……」
レミリアはグラスから手を離し、強張っていた肩を下ろした。
「他人の記憶を読んで、自分が『ハイド・ストーレン』であるということも、知ることはできるそうです。ですが、あの人は、治療を受けるつもりは無く、毎日、その日あったことを全て記録してから、全てまた忘れて、起きる、その道を、選んだ、そうです……」
レミリアは、ハイドが常に書いていたあの本を思い出す。あれは、その『記録』だったのだろう。毎日失い続ける自分自身の『記憶』を、ああして形にして、残していたのだろう。
「……私は、ハイドさんの部下で、唯一生き残りました。あの人があの場所に隠居してからの生活も、全て支える覚悟でした。でも……あの人は、いつ行っても、必ず優しく『初めまして』と言うんです。だから……」
ふっ、と、スティンラは哀しげな笑みを零した。
「或いは、これで良かったのではと思います。あんな記憶など―――全て、忘れて、ハイドさんが幸せなら……もう二度と、自分のことなど、思い出さなくても、良いのではと、思うのです」
そう締めくくり、スティンラは一礼して立ち上がった。
「ハイドさんの所に、顔を出しに来たのです。元気でしょうか」
「……ええ」
レミリアは「私も行く」と言い、代金を机の上に置いて立ち上がった。
優しい光が差し込んでいる、森の中の一軒家。レミリアを見付けた記憶屋――――ハイドは、驚いたような顔になった。
「朝、出て行ったでしょう? どうしてまた」
「ちょっと気になることが在って」
「そうかい。それで……あなたは? お客さんですか? 初めまして、記憶屋です」
ハイドはスティンラを見遣り、そう言って微笑む。スティンラも笑い、「初めまして」と掠れた声で言った。
「お茶が入ったところなんです。取り敢えず、上がってください」
ハイドはドアを開けて家に入る。レミリアとスティンラもその後に続いた。
ドアから入り、一番最初に目につくのはやはり、巨大な本棚だ。レミリアは椅子に座り、その本の冊数を数えて行った。
ハイドの『記憶』――――二十四冊。机の端には相変わらず、白紙のページが開かれた本が置いてある。
「何か、お困りのことはございませんか? 私はあなたにゆかりの在る者なのです、ですから何か手伝えることが在るのでしたら何でも……」
勢い込んで言うスティンラを笑って制し、ハイドは「大丈夫ですよ」と言う。
「あの……ハイドさん、私は……」
スティンラは俯き、ハイドは苦笑した。
「レミリア」
「はい?」
「少し、手伝って欲しいんだ。ごめんね、今更だけどちょっといいかな」
「ええ、少しくらいなら」
「それじゃあ、少し出てきますね。すぐ戻りますので」
スティンラに言い残し、ハイドはレミリアを連れて裏庭に出る。
「……聞いたかい?」
そして、菜園にしゃがみ込みながら、そう言った。
「え?」
「僕の過去、聞いたかい?」
ゆっくりとハイドは立ち上がり、振り返る。その顔に浮かんでいるのはやはり、儚げで優しい笑みだ。
「……魔術に喰われた、と言う事だけ」
「そうか」
「ねえ、本当なの? 本当に」
「ああ、本当だ。僕は毎日、記憶を失い続けている。君が昨日ここに居たのは、記録に在ったから知っている。でも、少しだって覚えてはいない」
ハイドは、切り取った一枚の葉をレミリアに差し出した。
「でもね」
レミリアがそれを受け取ると、ハイドはレミリアの手をそっと包み込み、軽く握る。
「魔術に喰われる以前―――戦争で何が在ったか、どうして魔術に喰われたか、僕が誰なのかは、全て覚えているんだよ」
レミリアが顔を上げてハイドを見る。ハイドは手元を見詰めたまま、言葉を続けた。
「僕は記憶を失い続ける。だけど、一番忘れたい傷の記憶だけは、いつまでも一番新しい記憶として僕の中に在り続ける。人を幸せにすべき魔術を戦争に使った、これが、僕への罰だ。だから僕はこれを受け入れた」
ハイドが手を離す。レミリアはゆっくりと、視線を手元に落とした。
「皆、僕は全部忘れたと思っている。それでいいんだ。あの戦争を知っている人達にとって、僕は傷跡でしかない。僕の存在は苦痛にしかなり得ない。だから、もし僕が全てを忘れて笑っていることで、癒せる人が居るのなら、僕は喜んでそれを演じよう―――傷の記憶なんて、全て忘れたふりを、して見せよう」
手元の葉には、小さな魔法文字が刻まれていた。
「嘘つき」
ぽつりとレミリアが行って、ハイドは笑った。
「残念だ。君のその表情も、明日になったら忘れてしまう……だけど、君は覚えていてくれるだろう?」
ハイドはレミリアの前に屈み、レミリアの顔を覗き込む。
「僕が存在しているという証は、それで十分なんだよ」
王宮から迎えの馬車が来ていた。森の小道の終わる場所で、レミリアはしかめっ面でそれに乗り込む。御者の隣に座り、スティンラはハイドから渡された記憶の紙を握って俯いていた。その肩は僅かに震えていたが、顔の表情は、幾らか柔らかい。何か、楽しい思い出でも受け取ったのだろうか。
レミリアは、手の中に握っていた葉を見詰める。小さな魔法文字の意味は分からない。だが、そこに残っているハイドの暖かさだけは、まだ感じられた。
窓のカーテンを開いて森を見遣ると、木々の間に、僅かに人影が見えた気がして、レミリアは椅子から立ち上がった。だが次の瞬間には馬車が動き出し、景色は揺れて遠ざかって行ってしまう。
また来よう。そう、口の中でレミリアは呟いた。
きっと彼は何時だって、初めての笑顔で自分を慰めてくれる。自分の傷を必死に押し殺して、他人に優しさだけを与えてくれる。
だからこそ――――今度は自分が、消えない優しさを彼に与えたい。そう思うのは、傲慢だろうか。
レミリアは頬杖を付き、その指先で、そっと目尻を拭った。
(了)