第三十二話 『日日是好日』
朝の光に目が覚めると、いつの間にかスピカを抱きしめていた。
本とは思えないほどの良い手触りに、寝ぼけたままなで続けていると、うわずった声が聞こえた。
「ご主人様……あ、そんなっ、そこはっ」
「……って、何をしてる」
「その、ご主人様がなかなか起きなかったので添い寝などを」
手触りは良いのだが、角があたると少し痛い。
「まあ、それはそれとして。おはよう」
「はい! おはようございますご主人様っ。良い朝ですね!」
「良い天気だしな」
窓から差し込んだ光は、すでに昼ごろであることを示すような角度と強さだった。
さっと起きて着替えを済ませると、なんとはなしに窓から見下ろした。
すでに街は賑わっており、行き交う人々の足取りと声には活気があった。
冒険者向けの宿屋にはいくつかランクがある。
基本的には価格に比例して質が上がるようだが、安宿と呼ばれるような場所であればどれも似たようなものだった。
現状お金には困っていないが、無駄遣いをするのも考え物だ。
ここは昨日のうちにティナから聞き出しておいたオススメの宿屋のひとつだ。
先に予約を取ったわけではないため、夜中に来ても部屋が空いているかどうかは来てみなければ分からなかったが、運が良かったようだ。
冒険者の心得とやらも、出発前や移動中にティナから色々教えて貰った。
想定していないゴブリンカイザー退治に巻き込まれたのはさておき、それ以外は非常に実りある一日だったと思う。
ティナはギルドの経営する冒険者向けの銀行についても教えてくれた。
ギルド近くにあったそれらしき建物は、やはり銀行機能を持っていたらしい。
俺が大量の金貨入りの鞄を持っていると知るのは十人に満たず、その全員が他に情報を漏らすとは考えにくい。しかし万が一がある。
ソフィアに預けることも考えたが、俺のいないタイミングで狙われたら危険なため、鞄はなるべく持ち運んでいたかったのだ。
ティナが紹介してくれたギルドの銀行では貸金庫、貸倉庫、両替その他と手広くやっていた。
一番小さい貸倉庫は銀貨一枚で一ヶ月間使えるらしい。長めに見積もって金貨二枚を渡し、いくらか手元に残して残りの大半を預けた。
ここで先日登録したばかりの登録証が役に立った。
Cランクでも銀行は普通に使えるようだ。
なるほど、と納得した。
常宿を持った冒険者ならともかく、街から街へとよく移る冒険者であれば、装備品の置き場や大金の処理に困るのは当然だ。
以前推測したように、やはり装備品は税金込みで高価なようで、盗難防止のために使わない日には預けておくのが普通とのことだ。
やたらと高くつく装備が買いたくなければ、それこそ武具級モンスターを倒してドロップ品を使え、ということになるだろう。
本末転倒である。
武具級は、まず間違いなく金貨級より強いか厄介なモンスターばかりだ。
武器を拾いに行くための武器がない、なんて冗談にもならない。
とはいえ出発前に少し寄って、その際に銀行職員から受けた説明だからかなり端折ったものだったが、高ランクになれば融資も受けられるらしい。
逆に言えば、低ランク冒険者には借金させてはくれないのだろう。
世知辛い、とは思わない。ここでも納得するしかなかった。
そんなことを思いながら、まだ眠気の残る頭で眼下を見下ろす。
向こうの方にはかすかにギルドハウスが見えており、この宿の前を冒険者が通っていく。といっても大勢ではない。
冒険者も活動している時間に幅があるのか、数人がまばらに行き交うだけだ。
行き先にも規則性はない。ゴブリンより強い敵を探しに街の外へと向かうにしても、東西南北や迷宮風の場所、あのグランプルのような金貨級のいる僻地など、各自が自分の能力に見合った――あるいは身の丈に合わない敵に向かっていくわけだ。
当然、狩り場がかち合うことも、すれ違うこともあり、誰もいない場所も出来る。
そろそろ生活にパターンを作るべきなのかもしれない。
追い立てられるようにやるべきことに傾注していたが、少し余裕を持ちたいところだ。
ソフィアは今頃、必死の作業中だろう。
ランク差もあることだし、ティナに連日付き合わせるわけにもいかない。
ホークアイその他には用事もないのに会いに行くのも気が引ける。
というわけで、今日はゆっくりしよう。そうしよう。
室内の真ん中に置かれた椅子に座りながら、街中を眺めてみた。
穏やかな空だった。薄く白い雲は眩く、ゆっくりと流れている。
ちょうど他の建物の屋根の上にも目が届く。
黒尽めの何者かが屋根の上を足音を立てずに素早く走り去っていくのが見えた。
すたっ、と屋根から屋根へと飛び移っていく。
異世界である。
ここに忍者はいないだろう。いないはずだ。いないに違いない。
……よし。
見なかったことにした。
向こうから気づかれていなければ、何も問題は無いのである。
幸い、気づかれた素振りはなかった。
ゆっくりするのだ。
うん。
◇
というわけで。
ここ数日に思いを馳せつつ、スピカと今後について少し話していた。
というか、落ち着いて話す機会がほとんどなかった気がする。
気のせいではないだろう。
「つーか、まだこの世界に来てから四日目なんだが。濃密すぎないか、いくらなんでも……」
「大丈夫ですよご主人様!」
「その心は」
「これまで起きた出来事を振り返るに、常人ならざっと五回は死んでるところです! でもご主人様はあっさり切り抜けてますから!」
スピカの言葉に、冷静になって振り返ってみる。
電車内でのテロ。
大量グランプル祭り。
対魔法使いに手慣れた人さらい。
降ってわいたゴブリンカイザー退治。
四回は分かったが、あと一回はなんだろう。
俺の疑問を察したスピカが、聞かれる前に答えてくれた。
「この世界に召喚された瞬間ですね!」
「……ん?」
「ご主人様はさほど気にしてなかったようですが、異なる世界を移動するのは大変危険なことなんです! それこそ、単なる銅貨がゴブリンに変質してしまうくらいに――」
「それと同じことが俺の身にも起きるかも知れなかった、と」
「大丈夫だったのは、さすがご主人様としか!」
言われてみれば、その通りだ。
そもそも召喚される直前が命の危機だったとはいえ。
慌ただしさに忘れていたが、初日のことを少しだけ考えてみる。
「……大丈夫、だったんだよな」
「はいご主人様! スピカにはちゃーんと分かっております! 転移の前後で、ご主人様の身にああした変異は一切起きておりません! それは保証できますから!」
スピカがこうした内容で嘘を吐く理由もないだろう。
俺は少し安心した。
が、ほんの少し、スピカの言葉に違和感をおぼえた。
いつも通りに聞こえたが、どこか声が沈んだ風にも思われたのだ。
「……スピカ?」
「その」
水を向けると、スピカは声を落とした。
窓の向う側の道からは、雑多な音が次から次に届いてくる。
しかし、宿の一室で、今ここにいるのは俺とスピカだけ。
ぽんと生まれた空白めいた、不思議な静けさを感じながら、スピカの言葉を待った。
しばらく待っていると、俺の魔導書は心細そうな声で語った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ご主人様」
「どうしたんだ、いきなり」
「言わなければいけないことが、あるんです」
外界に満ちた生活音とはっきりと切り離されて、沈黙が俺たちのあいだに舞い降りた。
不安だった。
何を言い出すのかと。
現状、俺はスピカを信頼している。
やらかすこともあるため、ミスについては覚悟しているとしても。
故意に俺を害したり、俺の不利益になることを望んでやることは絶対に無い。
そう理解している。
なのに、スピカの言い草に、少しだけ心配になる。
何かがあったのだろう。
話の流れからすると、初日か。
この世界に俺がどういうわけか飛ばされてきて、そしてスピカの主となった。
ここに、スピカが謝罪を――こんなにも申し訳なさそうに、不安そうに、俺の反応を窺いながらも、苦しそうな声で告げなければならない何かが。
もし今、スピカに人間と同じ身体があれば、涙をこらえているのかもしれない。
あるいは地べたに這いつくばるようにして、必死になって許しを請うているのかもしれない。
声に込められた感情に、溢れんばかりの罪悪感の響きに、そうした印象を受けた。
スピカは口ごもり、俺が急かさないでいると、やがて絞り出すようにこう言った。
「ワタシは隙を狙って、付け込んだんです」
「付け込んだ、ってどういう意味だ」
「冷静でない、つまり判断力が落ちている瞬間に、大事な決断をさせた。これは……ご主人様のために、そのためだけに存在する魔導書にとって、許されざるコトでは、ありませんか」
スピカは告解のように、揺らめく声で続けた。
「本当は……本来であれば、ご主人様の精神状態が健全であるときに、ワタシとの契約をしていただくべきでした。契約は互いのためにあるものです。にもかかわらずワタシはご主人様がある種の興奮状態にあったことを知りながら、それを説明することも、冷却期間を置くこともせず、必要な情報が揃うより先にワタシを手にとってもらえるよう」
「待て。とりあえず待て」
「……はい、ご主人様」
わんこのような従順さで、ぴたりと言葉を止めたスピカに、俺は首をかしげた。
ふむ。
口を閉じ、少しだけ考える。
この沈黙の時間に、スピカが身を切られるような気分を味わっているのが分かる。
分かってしまう。
しかし、俺はきちんと考えなければならなかった。
◇
数分だろう。十分は経っていないはずだ。
スピカの体感ではもっと長く感じられたのかもしれない。
俺の言葉を待っているのをひしひしと感じるが、こちらも言葉の選び方に慎重にならざるをえない。
と同時に、幸運を噛み締めた。
こうしてゆっくりと話し合う時間が取れたのは、俺にとってもスピカにとっても非常に良かった。
「まず、確認だが」
「……はい」
「初日の俺の精神状態が普通じゃなかった、っていうのは本当なのか」
「……ご主人様、やっぱり気づいておられなかったんですね」
「理由は」
スピカの声には涙が混じっているような、そうした震えがあった。
一方、俺は淡々と話を先に進めた。
かなりの動揺はしていた。その自覚はあった。
しかしスピカの口調からは、初日の俺の状態は、その程度ではないらしい。
「原因はいくつか考えられます。まず第一に、あのとき電車で死を覚悟したこと」
「よくある話だよな。死ぬような危険に直面すると、脳内麻薬が出るってのは」
「第二に……召喚、あるいは転移の際に、強大な魔力にさらされた可能性があります。ご主人様が無事だったため、そのときは気にしませんでしたが……魔力酔いを起こしたのかも、しれません」
しおらしい口調で、スピカは語る。
「魔力酔いって」
「制御されていない魔力が、危険な雰囲気として周囲に受け取られていたように、強大な魔力にさらされた人体は影響を受けるものなんです。そのせいで、転移直後のご主人様はアルコールを大量に摂取したような高揚感や興奮、平静なときには取らないような行動も平気で取れていた――のでしょう。箍が外れていたとも言えます」
「それを黙っていた理由は」
「ただ、我欲のため、です」
そしてスピカは、息を吐き出すように、声を漏らした。
「ワタシは! ご主人様に契約して欲しかった! だから……! だから……、それが分かっていながら沈黙を選びました。ごめんなさい、ご主人様。スピカは……ご主人様のための、ご主人様のためだけの魔導書なのに……ごめんなさい」
あとはひたすら謝罪の言葉が繰り返された。
俺はそれを止めた。何を告げるべきかと迷い、息を吐いて、さらにこう尋ねた。
「つまりスピカは、俺を騙したと?」
「嘘は付いてません……でも、真実を把握できていながら、自分の利益のために語らなかったのは嘘と同じ。ご主人様のためだと確信していればそれも吝かではありませんが、あの時点ではひとえにワタシが――ワタシのために、ご主人様を」
「……悪かった。今のは俺の言い方がずるかった」
たとえば、この場面を誰かに見られていたのなら。
聞かれていたのなら。
これ以上無い、立派な愁嘆場だろう。
「スピカは――俺がこの世界の常識をある程度理解して、精神状態も健全この上ないときで、きちんとリスクリターン、メリットデメリットを判断できるときまで、ちゃんとした契約をするのを待たなきゃいけなかった。そう思ってるわけだな?」
「……その通りです、ご主人様」
「アホか」
「え」
「まさかとは思うが、初日からずっと気にしてたのか」
そうとしか思えないが、一応聞いてみた。
スピカの声には困惑ばかりが募っていた。
「だ、だって」
「スピカ」
「ワタシはご主人様の魔導書なんですよ! そんなワタシが、スピカが、ご主人様を……そんなの、まるで黒本みたいな、一番やってはいけない……」
「スピカ!」
再度名を呼ぶと、スピカは身を竦めたように黙り込んだ。
「俺が、いつ、スピカと契約したことを後悔してるなんて言った?」
「……あ」
「スピカは……よくやってくれてる。だから、そんなことは気にするな」
「で、でも」
「俺はスピカのこと、最高の相棒だと思っている。……それじゃ不満か?」
スピカの背表紙を撫でながら、優しく語りかけた。
湿ったわけではない。潤んだわけではない。
ただ、スピカの声が、いつもの明るさを取り戻した。
「……ご主人様っ。ご主人様っ。ご主人様っ! ワタシ、ワタシは! こんなに幸せな魔導書で、最高のご主人様を持って……いいんですよね! 嬉しい! 嬉しいですご主人様!」
「ああ、これからも頼む」
言いながら、俺はスピカの表紙をくすぐるように触れた。
反応が楽しいからつい。
「あっ……もうっ。ご主人様っ」
「いや、不安にさせたのはスキンシップが足らなかったせいかな、と」
「そんなことは――あ、いえ、やっぱりスキンシップは大事です! その、優しくシてください! あ、んっ……」
◇
こんこんと控えめなノックがあった。
嫌な予感がしつつ、俺は声を上げた。従業員のようなので、ドアも開いた。
「なんですか」
「いえ、隣の部屋から苦情がありまして。何か騒がしいから様子を見てきてくれと」
「……そうですか。うるさくしたようで、すみません」
その従業員は部屋の中を探るようにちらりと見たあと、俺の手の中のスピカを見た。
一目で他に人間の姿がないことを確認したようで、彼女は困惑顔だった。
「うちは連れ込み宿ではありませんので、と言いに来たのですが……その」
「何か」
急に理解ある中年女性の顔になって、従業員は微笑みながら後ずさった。
「いえ、その、ひとの趣味はそれぞれですものね」
「……何か誤解してませんか」
「大丈夫ですから」
「あの」
「声だけ抑えていただければ結構ですので!」
「誤解です!」
最初どんな認識をされたのかは不明だが、最終的には独り芝居をしていた、という風に受け止められたらしかった。
なんとも言えない気分のまま、ついでにベッドメイクしてから出て行った従業員の背中を見つめ、そのうちにドアが閉まったのを確認して、低く呟いた。
「しまった。魔力酔いのせいか」
「ええっと、さきほどの……というか、二日目以降のご主人様の行動はだいたい素だと思います」
「そうか」
「そうです」
「本当に?」
「本当です」
言い訳には使えないらしい。残念。
「あ、いえ、ご主人様が触れてくださる分には存分にお願いしたいところなんですが――世間体についてはワタシがフォローしきれない部分が多いので、そこは自衛をお願いしますねっ」
「世間体か……」
スピカの真剣な声に、俺は今後のことを真面目に考えるのであった。




