プロローグ
今日もダメだった。
就職活動に疲れた俺を癒してくれるのは、牛丼屋でするちょっとした贅沢くらいだ。
もう良い時間だし、すき焼き定食でも食べて帰ろうと考えた。
定食、定職……定職に就けない男。どんどん発想がネガティブな方向へと向かっていくことに気づき、泣きたくなった。
面接は渾身の力で受けていた。しかし、あの手応えの無さがありありと思い出される。
いや、より正確には手応えがありすぎた。
こう、握手すべきところで相手の手を骨折するまで握りしめてしまったかのような、異様な緊迫感。
面接官の視線の冷たさもそうだ。
ふと投げかけられた問いはありがちだ。
――では陰山さん、あなたの特技は何ですか。
そして面接官は俺の答えにどん引きしたことを隠そうともしなかった。
正直なのは美徳などではない。
分かっている。分かりすぎている。
しかし、容易く嘘をつけるほど器用に生きてきたつもりもない。
現実逃避したくなった。
空から美少女でも降ってこないかな、とは誰でも一度は考える妄想だと思う。
ごく普通の日常を送っていた自分に、突然現れる非日常。
ここ数ヶ月、世知辛さを心底味わっている俺にだって、そういうものに対する憧れはあるのだ。
あっ、親方! 空から女の子が! ……みたいな。
しかし世の中、そんな都合のいい話があるはずがない。
そんな風に思っていると、謎の声に話しかけられた。
「お兄さん。良い本あるヨ。あるアルよ」
そちらを見れば、話しかけてきたのは怪しいローブ姿の人物だった。実に怪しい。
魔法使いめいた格好で、怪しくないところがないくらい怪しい。
しかし道行くサラリーマンは誰も驚いた顔をしていない。
それどころかこちらに目もくれない。さすが大都会東京だ。こんなことは日常茶飯事らしい。
「ここで買わないと二度と手に入れる機会は無いネー」
人目を忍ぶように手招きされ、ふらふらとついていく。
あっという間に路地裏に誘導されてしまった。
おかしい。俺はこんなにほいほいついて行っちまうような男じゃなかったはずだ。
もっと用心深くて、一人静かで……なんていうか、救われてなきゃダメなんだ。
グルメな自営業者めいた自制心を取り戻し、このイカレた時代――もとい状況から抜け出さなければならない。
というか、そもそもの話として、俺の財布の中にはすき焼き定食を食べるお金と、帰りの交通費分しか残っていないのだ。
男なのか女なのかも分からない黒いローブ姿の人物は、実に上手に俺を誘い出した。
お買い得だヨー。内容は君にぴったりだヨー。絶対に後悔しないヨー。
なんという罠だろう。
なんという誘い文句だろう。
普段なら、そんな言葉にふらふら釣られたりしない。
連戦連敗で打ちのめされて、いつになく心が弱っていたのだろう。
「今だけ安いヨ。本当は値段が付けられないケド、君は特別。たったの五百八十円でいいヨ-」
やめて! そうやって騙す気でしょう! エロ同人みたいに!エロ同人みたいに!
脳内で甲高い少女の声が聞こえる。
誘い受け、というやつである。
ああ、しかし、なんということだろう。
この手は俺のコントロールを離れ、財布からなけなしの硬貨が抜き放たれるのだ。
燦然と輝く五百円玉と、五十円と三十円。
そのぴったりの金額は、鮮やかな軌跡を描いて黒ローブの病的なまでに白い手の平に収まった。
五百八十円。
黒ローブは言った。
「毎度ありネ! さあ、この本を手に取るアル! 決して損はさせないアルヨ!」
なぜこんなエセ中国人風の喋り方なのかは最後まで分からなかった。
いや、日本人ではないような気はする。
かといって外国人とも言い難い雰囲気だった。あえて表現するのなら異邦人とでも呼ぶべきだろう。
路地裏という微妙に日常から外れた場所でのみ、黒ローブはその印象を周囲に溶け込ませていた。
黒ローブがは真っ黒な表紙の本を懐から出した。少し分厚いそれは、何かとてつもないものであるかのような印象を与えてくれた。
そして黒ローブは言った。
「無修正、アルヨ」
そう、無修正である。
繰り返そう。
無修正だ。
手を加えられていない、生まれたままの姿という意味だ。
なんというエロティックな言葉だ。なんという非合法の香りだ。
期待せずにはいられない。
しかし、いくらこの黒ローブを全く気にしない大都会東京といえど、そんな卑猥な本を道ばたで開くことが許されるわけもない。
無修正。
おお無修正。
が、俺は一瞬、我を取り戻した。法に触れることを心配したのだ。それを敏感にかぎ取ったか、黒ローブは安心するようにと続けた。
「大丈夫! これ、法には触れないアルヨ!」
おまわりさんに目を付けられてしまうのも困る。
いや、そもそもこうして人目を盗むようにしてこんな本を売買する段階でアレだが。
というわけで俺はこの真っ黒な本を鞄の中にしまい込んだ。
中身は帰ってからのお楽しみ、ということだろう。
黒ローブは満足そうに頷くと、最後にこう言った。
「おまけ、付けておくアルヨー! 楽しんでチョーダイネ!」
俺は決して中を見られないよう、電車の中で鞄を抱えていた。
座席に座り、流れゆく景色を眺め、しかし何かの拍子に鞄を落としたりしないよう、ぎゅっと抱きしめていた。
端から見れば、その行動は少し不審だったのかもしれない。
もう少しで東京から脱出する頃、何やら目つきの鋭い男達が俺のいる車両に次々に乗り込んできた。
目があった。
視線が俺に固定された。
俺の、鞄に。
その中身まで見透かそうとしているような、険しい視線だった。
もう俺はパニック状態である。
えええ?
たかがエロ本を買っただけだ。
そのはずである。
いくらなんでも大量のガタイも良く目つき鋭いその筋の方々に目を付けられるほどのことじゃない。
まさかあの黒ローブ、なんか他にもやらかしてたのか。
俺の思考は凄まじく加速した。
謎の黒ローブの甘言に引っかかった自らの浅慮を責めた。
黒ローブを脳内で延々罵倒し、そして目の前のこわーい二十代後半から四十代くらいまでの警察関係者っぽい雰囲気の十数名に土下座でもしようかと腰を上げた、その瞬間だった。
「違う、こいつじゃない!」
え。
俺の目が点になった。俺と目が合っていた強面のおじさんも驚愕した。
それが切っ掛けになったのだろう。
俺の座席から三つ隣にいた男だ。何か叫んでリュックサックから何かを取り出した。
おっさんらと俺のやり取りに注目していた全員が、一斉にその方向に目をやった。
カッチコッチカッチコッチと音が鳴っていた。
これはほら、アレだ。ドラマとかでよく見る。
いわゆるひとつの時限爆弾。
その爆弾男は俺より何歳か年上と思われた。
そいつはにやにやと笑った。
狂った人間の笑み、というのは日頃そう見られるものではない。
狂人はいつも当たり前のような顔をしている。
それは自分が正しいことをしていると考えているからだ。
純粋な笑顔で、達成感たっぷりの叫びが発せられた。
「ちょっと遅かったなもう時間切れだみな殺しだァッ!!」
「あいつだ! 爆発させるな! 確保ーッ!!」
強面のおっさんたちの中でも一番偉いと思われる、雰囲気のある渋い中年男性が凄まじい大声で叫んだ。
俺を含め、無関係の乗客は全員パニック継続中だった。
一斉にかかって取り押さえられた爆弾男はゲラゲラ笑い続けていた。
殴られたりもしたが、まったく気にした素振りもない。
「爆弾処理班! こっちだ! 早く来てくれ!」
「主任! もう時間がありません! 外に投げるのは」
「この区間は住宅街の脇を通るんだ! 爆発の規模が分からない以上、下手な場所には……!」
「な、なら電車を止めては!」
「もう連絡はしてある! だが、急ブレーキ過ぎて爆弾を刺激されるとまずい!」
「そろそろ荒川があっただろう! 河川敷はどうだ!」
「手遅れだ手遅れだ手遅れだひひひひッ火火ヒヒヒヒヒイイイィヒッ!」
あんまりにも現実離れした光景を見ると、逆に醒めるらしい。
空から女の子が! みたいな非日常は望んでいた。
しかし、これはない。
ドラマみたいなありえない状況がリアルタイムで進行している。しかも目の前で。
カッチコッチ。
カッチコッチ。
時限爆弾の表示は止まらない。残り時間がどんどん減っているのが無関係な俺にも見えている。
もしかしなくても、巻き込まれている。
逃げようと腰を浮かせるが、どっち側にも人混みが詰まっている。
俺の危惧をよそに、額に汗をだらだら流したおっさんどもが悲痛さと必死さをこれでもかと込めた叫びを続ける。
「仁科ぁっ! お前は乗客を避難させろ! さっさと行け!」
「ですが主任、俺もここに!」
「馬鹿野郎てめえ、嫁さんもらったばっかりだろ! こっちは年寄りに任せとけ!」
「ひゃははははは! みんな死ね! みんな死ね! 他人のことを思いやれないヤツらなんか死ね死ね死ね! 優しくないヤツは全員死ね!」
「うるせえクソ野郎、さっさと爆弾の止め方を言え! ぶっ殺すぞ!」
がらがらがら……。
場違いな音と、ゆっくりさでドアがスライドした。
小学生低学年の少女が、いきなりこの車両に入ってきたのだ。
強烈な無数の視線を一身に浴びて、呆けている。
状況を全く理解していないであろうことは想像に難くなかった。
たった今。
危険を知らない少女が、びっくりしながらも、よく分からないと言いたげに小首をかしげている。
「お母さん、早く早く!」
「もうー。ゆみ、一人で先に行かないでよー」
空いたままのドアから、母親も入ってきてしまう。
幸せそうな親子だった。
両親のいない俺には眩しい光景だった。
――空から女の子が。
さっきそんな展開を望んだことも理由だった。
どうせ家に帰っても一人きりなのだ。
ここで逃げても、きっとこの先の人生、ずっといつまでも延々後悔し続けるに違いなかった。
だったら今、頑張ってみよう。そう思った。
俺は鞄を手に持ったまま少女へと駆け寄った。犯人を取り囲んでいる彼らも気づいたが、もう間に合わない。誰かの怒号。叫び声。にわかに膨れあがった周囲の喧騒と焦燥の気配。
カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……ひとつだけリズムを保ち続けた、時限爆弾のカウントダウン。
低く不穏な音がいきなり速度を落とした。理解そして恐怖に脅える顔が視界の片隅に映り込んだ。どれくらいヤバイのかは分からない。死ぬかも知れなかった。死ぬのは怖かった。
竦み、止まりそうになる足を無理矢理動かして、俺はそのまま突っ込んだ。
もう表示を見ている暇など無く、ただ音の変化だけが耳に残る。
カチリ。
そして、俺は少女を庇うように身体で割り込んで。
何もかもを飲み込む凄まじい光が一瞬で膨れあがって――
6/30 文章をちょっと修正しました。(展開自体は変わってません)