空の求婚
「――今日は何が贈られてきた?」
表情がないはずのドラゴンの顔に、いささかの疲れが見えるのは私の主観が含まれているからだろうか。
「……花束です」
あれを花束と括って良いのかわからないが。
私の両手に持つと埋もれそうになるほど大きなもので、それが既に十を数えた。
そのため私が与えられている一室は花で埋まっている。
贈り元は、他でもないノヴァだった。
彼は私が家庭教師の仕事を休むようになってからというもの、律儀に手紙に贈り物を添えて贈りつけてくるのだ。
「あの」
「なんだ」
書類を寄越せと手を出してくる大きな手に書類を乗せると、長い爪の手は器用に書類を書斎机の上でさばいていく。それを眺めながら、
「私がここに居る意味ってありますか?」
ここは、レスローの書斎だ。
そして私は今、彼の書類を整理している。
傍らで必要な書類をまとめ、次々と処理していくレスローに渡す。それだけだ。
書斎の端ではニアケリスがお茶を入れている。そろそろ休憩か。――ここでは、お茶汲みにさえ私は従事していない。
「いつもの女装をするのなら、出先への随行を許す」
「……遠慮します」
女装をしてドラゴンの付き添いをするのならいつものベスト姿で暇つぶししている方がいい。
しかし敵もさるもので「ああ、そうだ」と付け加えてくる。
「この仕事にも手当てを付けるからな。これぐらいでどうだ」
長い爪が示したのは、以前ウェイターとして働いていた給料の三倍だった。
家庭教師の仕事が事実上の失業となってから、私はレスローに尋ねた。
いつまでこの屋敷に居られるのか。
名目上、レスローの秘書とされているが、私の仕事はあくまでもさくらの家庭教師だ。まぁ、それもさくらが言葉を大分話せるようになったのでもう少しでお役御免になる寸前だったからそれが遅いか早いかの問題だったが、あんな形での辞め方は彼女に対して申し訳ない。
しかしレスローの場合、便宜上の雇い主であるから別に私をいつまでも屋敷で雇う必要はないのだ。
だが彼は私を解雇するどころか休暇だとして留まる事を許した上、暇になった私に書類仕事をやらせている。そしていつかの宣言通り給料まで支払っている始末だ。
「……どうしてここまでしてくれるんですか?」
休憩をするというレスローと共に書斎の隣の部屋で茶を飲みながら、私が尋ねると彼は器用にカップをテーブルに置き、
「私が雇用主だろう」
長い爪がカップに触れてチン、と甲高い音が鳴る。
「給料を支払っているというのにそんな顔をされることも珍しいだろうな」
ドラゴン顔に苦笑されて、私も確かにおかしいと気付いた。まともに金を支払ってもらえるというのに不服ばかり言うのは、単なるわがままだ。仕事も楽であれば待遇も良い。そして私には滞在費すら支払う義務がないというのに。
それでも何処か釈然としないのは、話が旨過ぎるからなのか。
(それとも)
到底表情も読めそうにない鱗顔をちらりと見上げると、気付いたレスローが何だと言いたげに目を細めた。
――雇い主がレスローであるから、私は納得がいかないのだろうか。
「……それにしても、ノヴァには困ったものだな」
カップが空になったのか、ニアケリスがレスローのカップに茶を注ぐのを二人して眺めながら、レスローは溜息をつく。
「報告によれば、さくらは大分言葉を話せるようにはなっていたな」
「はい。あとは、彼女の努力次第だと思います」
基本的な言葉や単語の綴りは教えてある。あとは彼女が日々努力して覚えていくだけだろう。
「ノヴァはさくらをきちんと面倒を見るつもりなのでしょうし、あとは私が居なくても心配はないと思います」
「お前を妻に迎えたいと私に言ってきたぞ」
ぶっ!
うっかり口に含んだ茶を噴き出しそうになった。
この茶葉はきっと高いだろうにもったいないことをするところだった。
なんとか飲みこんで、私が指で唇を拭っているとさっとニアケリスがハンカチを渡してくれた。目に痛い白さで使うのは躊躇したが、ニアケリスが腹の読めない笑顔なので大人しく受け取って口元を拭う。……きっとマナーのなってない女だと思われたことだろう。
「――とりあえず私の方で断っておいたが、それでいいか」
何故か目を逸らせているレスローは明後日の方向を見ながらそんなことを言うので、
「……ありがとうございます」
私の方も素直に礼を言うことが出来た。
今回ばかりはレスローが後見人で良かったと思う。
きっとあのノーンの夫婦が後見人のままでは結婚を押し切られてしまっていただろうから。
ノヴァは外見の華やかさに反して何処か根暗な部分があると思うが、外見上は立派な貴族さまだ。一般的に、庶民は貴族に逆らえない。よっぽどのことであれば、司法に訴えることもできるようだが、私に降りかかったような求婚は玉の輿と見られても、ストーカーとは誰も思ってくれない。迷惑防止条例もストーカー規制も残念ながらこちらには無い仕組みだ。
「ノヴァのことは嫌いか?」
ようやく私に視線を戻したレスローは、湯気のたつカップを持ちあげてゆったりと回す。爽やかな緑色の液体がゆっくりと回って白い磁器もたゆたった。
「……嫌いではありませんが、彼を男として見られるかと言えばそうではありません」
たとえ男でもいいなどとまで言われてしまっては、こちらの進退が極るというものだ。女とバレたならこのまま姿を消してしまえばいいが、男でもいいとなるとどんな姿をしていても探し出されてしまいそうだ。
そしてこれは私の憶測だが、この先、私はノヴァを恋愛対象として見ることもないだろう。彼の情熱的過ぎる言葉さえ、私の心には何一つ響かなかったのだから。
これはお互いにとって不幸でしかない。
考え込んでいた私をレスローはしばらくじっと眺めながら茶を飲んでいたが、やがて「分かった」と静かに頷いた。
「――では、このまま私の屋敷に居るがいい」
「えっ」
私が顔を上げるとレスローはいつもの口調で続ける。
「お前がここも嫌だと言うのなら仕方がないが、何も決められないままなら止めておいた方がいい。後見人である私の目が届きにくい場所では何が起こるか分からない。――知っての通り、ノヴァは思いつめるととことんまでやる男だからな」
さくらのことにしても、私への告白にしても、どちらかといえばノヴァは腹芸の出来ない男だ。それだけなら猪突猛進だなと笑えるが、その直情を現実に出来る権力があるところが厄介なのだ。
「私の屋敷に居るのなら、ノヴァはおいそれ手を出せないし出させない。……事の発端を作ったのは、私だしな」
責任はとる、とレスローは少しだけ自嘲する。
そういえばこのレスローが私を家庭教師にと推薦したからこんな事態になったのだ。胡乱な私の視線に気付いた彼はわざとらしく咳をしてごまかした。ごまかしついでに少しだけ歯を見せ笑い、
「お前がノヴァと会いたいというのなら、協力してやらんこともないぞ」
「ご遠慮させていただきます!」
――どちらにしろ、私はレスローにまた弱みを握られてしまったようだ。
レスローはあんな言い方をしたが、ノヴァとさくらはレスローがやってくる前に出会っている。さくらと知り合ってしまった以上、私はどうしたって彼女の面倒を見ることになっただろう。そこへノヴァがのこのこと通うようになっていたなら、きっと今と同じ状況だった。そして私はノヴァに求婚されても、今のようなレスローの屋敷という逃げ場所がなかったかもしれない。
荷物さえロクに持たず、夜逃げ同然にアパートを逃げ出し、ガージェルを去ることになり、あてもなく彷徨うことになっていたかもしれないのだ。
――そう。そんな状況になってさえ、私はノヴァを頼るという想像が出来ない。
これではもう悲劇だ。
こちらの世界に落ちて以来、様々な不幸を垣間見てきた私にとって、安定した住まいと収入が無いことは絶望を意味する。
幾らノヴァが私を愛しているからといって、私が彼を愛せないのであれば、それは単なる利益だけを欲した身売りであり、彼と結婚することは生きるための仕事となるだろう。
愛情の欠片もない取引めいた結婚が幸せにならないとは言わないが、私も不幸になるし、それよりノヴァが可哀想だ。私はノヴァが世界で一番不幸になればいいと言うほど嫌ってもいない。あの思い込みの激しさはどうにかしてほしいとは思うが。
(……どうして私なんて好きになるの)
レスローの書斎から自室に帰った私は、花に囲まれた自前の椅子に腰かけてぼんやりと外を見遣る。
むせかえるほどの花の匂いも、大きな窓から見える空も、アパートからそっくり運び込まれた自分の家具でさえ、私には同じに見える。
ノヴァの言葉もレスローの厭味も同じに聞こえるように。
(女なんてどれも同じでしょうに)
男も女も花も木も、何一つ区別がつかないように。
(寝ても覚めても、どれも同じだわ)
温かな日差しが差し込む部屋の中、私はゆっくりと目を閉じた。
そのまま目が覚めなければいいと、いつものように願いながら。