話の起こり
私がガージェルで働き始めて間もない頃、定住している人々独特の人付き合いにも注文をとることにも慣れなくて、客商売に少しだけ嫌気がさしていた。
この仕事やっぱり向いてないのかもと思うことが多くなり、店の裏で休憩する時間は落ち込んでいることが多かった。今にして思えば、いわゆる五月病のようなものだった。
その日も私は一人、路地裏に出てぼんやりと酒樽に座り込んでいた。
こうして建物の隙間から空を見上げているのが、どういうわけだか一番すっきりできるのだ。
そうして深く息をついた時だった。
「――そんなところで何をしている」
低く、硬質な男の声にはっとして人影を探したが、そこに居たのは人ではなかった。
堅い鱗の顔に鋭い爬虫類の瞳、大きな口は雄叫びぐらいしか出てきそうになかったが、彼から発せられたのは実に理性的で、どこか冷たささえ感じる男の声だった。
「店員だろう。そんなところで何をしている」
女性の平均身長より幾らか高い私の上背を軽々と越す大男、もといオオトカゲは神官が着ているようなゆったりとした長衣を身につけていて、歩きながら裾を捌く様子は驚くほど品がいい。細かに編み込んで垂らされた青の髪はいっそ優雅だ。
身分の高い亜人か。
しかし私が見てきた亜人は種族ごとに決まりがあって、彼らにあるのは身分というより種族としての集団意識が強い。だから目の前のトカゲのように貴族のような立ち振る舞いをする者を見たことがなかった。
(面倒くさそう)
とりあえず樽から降りた私を、路地裏にまで入ってきたトカゲは鷹揚に見ろしてくる。
金の虹彩を器用に細めているが、彼の顔からは表情らしい表情は分からない。ただ何か考えているのだろうな、とだけ何となく感じた。
しかしよく見れば見るほど、どこかトカゲとは言い切れない。トカゲというには顎は発達して頑丈そうで、頭には鋭い角がある。流れるような長い髪はサラブレッドのようなたてがみ。
実際に見たことなどないのにどこかで見たことがあるような。
(あ)
竜だ。どちらかといえばその厳つい顔はドラゴンと呼ぶに相応しい。
なるほど、トカゲと違うはずだ。鱗に覆われた巨体といい、私の頭でも潰せそうな大きな手と長い爪といい、ただのトカゲよりも攻撃的だ。
この種族は初めてみた、と一人納得していた私を、向こうも何かしら思い至ったらしくおもむろに牙の並んだ口を開いた。
「その男の格好は店の趣向なのか? お前、女だろう」
不躾過ぎる物言いに、私は反論も忘れて唖然となった。
今まで私が女だと一目で見破った者は居なかったのだ。大抵の人間は自分の習慣上、女であるはずがないと思っているし、居たとしても初対面の相手に向かって尋ねてくるものなどいなかった。
この国では女は髪を切らないし、ズボンも穿かない。しかし私の姿はベストにシャツ、そしてズボンだ。腰にエプロンを巻けば、ウェイターの出来あがり。
私服だって男物しかないし、私物もほとんど実用的なものばかりなので自分で言わない限りはバレない。
しかし目の前のドラゴンは一向に応えられない私に不思議そうな顔をする。
「女のくせになぜそんな格好をしている。給仕なら女の姿でも出来る仕事だろう」
見た目通りの傲慢な言葉だ。
普段ならば、この手の客は無視して通り過ぎるのだが、この時の私は何を思ったのか偉そうなドラゴンに大仰に驚いて見せた。
「私のいったいどこを見て女だと? 申し訳ございませんが生まれてこの方、男以外の性となったことはありませんよ」
大嘘もいいところだが、今度はドラゴンの方が深刻そうな顔になった。
「……男として育てられたのか」
憐れな、と付け足すので私は頭を抱えたくなった。
それからというもの、ドラゴンはノーンの店に時折顔を出すようになった。
それはノヴァと連れだってだったり、一人の時もある。どうやら彼は亜人の中でも珍しいらしく、始めのうちは客の誰もが彼らを遠巻きにしていたが、回数を重ねると慣れるのは人間も亜人も同じで、今では店員も常連客も誰も気にしない。むしろ機嫌がいいときには彼らに酒を奢る者も居る。今や驚くのは初めて店にやってきた客だけだ。
レスローという名前を知る頃になると、私も彼に慣れてきた。
料理を運ぶとそんなに重い物を持って大丈夫かと声をかけてくるし、酔客の相手をしていると何やら心配そうな視線を送ってくることもある。何の用事もないくせに呼びつけられるのは本当に腹が立ったが、あしらっている内にどうでも良くなってきた。その頃には私も客商売に慣れ、店員との付き合い方も学んでいよいよガージェルの住民らしくなってきていたので、大抵のことには驚かなくなっていた。
人間は慣れの生き物だ。
だからありきたりな人間である私も、油断していたのである。
忘れもしないその日は珍しく暑い日だった。
おおむね気候の良いガージェルだが、雨季を過ぎると気温が高い日が続いたりする。日本ほど顕著ではないが、あてはめるなら夏の季節。
私は早番で、朝から掃除に勤しんでいた。
しかし昇ったばかりの太陽は意外と暑い。
夜のひんやりとした空気と太陽の温度差が激しく、汗をかいたままのシャツでは風邪をひきかねなかった。
しかし私が女であることは、おかみ夫婦以外は知らない。
同僚には男も多いので、彼らは思い思いに休憩スペースで着替えるが私はそうはいかない。だから店で貸してくれた替えのシャツを持って路地裏に出た。
朝のうちならば誰もいないのは経験で知っていたのだ。
知っていたが、路地裏はあくまでも通路で、誰かが通るということをすっかり忘れていた。
そこに、何の因果か顔見知りがやってくるかもしれないことも。
「何をしている!」
ばさっと何かが落ちる音と控えめだが低い男の叱責に私は驚いて、やめておけばいいのにシャツを着かけたまま振り返った。
そこには、何の巡り合わせか強面のドラゴンがしかめっ面で立っていた。
そしてその金の瞳は驚いた私の開いた胸元へ。
――いくら事故だとしても、手近にあった木箱をドラゴンめがけて投げたのは当然の結果だと思っていただきたい。
不意打ちを見事に顔に食らったレスローだったが、彼は怪我一つしなかった。何でもドラゴンの鱗は刃物も通さないとか。
彼はたまたま仕事の帰りに店の前を通りかかったらしい。徹夜での仕事明けだったのだと話を聞いた同僚から聞いた。
結局私はそれから数週間、彼と口を利かず、見かねたノヴァと同僚の取りなしでどうにか会話をするレベルまで関係を改善させたが、私のレスローに対する苦手意識は根深く残った。
何しろこのレスローというドラゴンはしつこかった。
会話が出来るようになってからというもの、彼は事あるごとに私に女の姿になるようそそのかしてくるようになった。
後から後から湧いてでてくる理屈をこねる頭は良いはずなのに、私の言い分にはまったく耳を貸そうとしない。どうやら私の男装がたいそうお気に召さないらしい。
以来、私はレスローを天敵と見定めたのだった。
「――降りるぞ」
天敵の呼びかけで、過去から引き戻された私は馬車の窓から外を見回して唖然とした。
庭の先が見えない。
入ってきたはずの門が見えない。
そして目の前には大きなポーチがあって、建物は視界に入りきらないときた。
(な、なにこれ!?)
重厚な屋根を太い柱に支えられた玄関先だけで私が暮らせそうだ。
まるで宮殿である。
すっかり尻ごみした私を横目にレスローは感慨もなさそうに (自宅なのだから当然だ) 馬車を降りて行く。それに釣られてドアからそっと外を伺うと、その玄関先では何人もの使用人らしく人々が恭しく頭を下げて待ち構えているではないか。
これはもう、異世界云々の話ではない。私の人生始まって以来の事件だ。
(や、やっぱり帰らせてもらおう!)
完全に腰の引けた私は馬車の奥へと身を引いた。
だが、おもむろに頑丈そうな腕が伸ばされ、逃げ出した私を容赦なく捕まえる。
「え、ちょ…もう私帰りますって!」
私の本気の抵抗が子供のお遊びほどにも感じていないようなドラゴンは、どこかしたり顔だ。
「遠慮をするな。ここは私の私邸だ。それに何処へ帰るというんだ?」
私はすでにアパートを引き払っている。
後悔先に立たず。
「出て行くにしても、今日はもう遅いから止めて泊まっていけ。食事も出す」
あやすような言葉とは裏腹にぐいぐいと馬車から引きずり出され、あっという間に私はどこまでも偉そうなドラゴンと共に使用人たちの前へと立たされた。
無駄に力強い手に囚われた不自由と幾人もの目が一斉にこちらを振り返る様に私はすっかり委縮する。
しかしレスローは自分では動けない私の背を押し、容赦なく前を歩かせた。
「――お帰りなさいませ。旦那様」
玄関からようやく歩き出した私たちの横をすっと並んだのは、三十絡みの男だ。きちんとしたコートとタイからして彼が執事か家令なのだろうが、驚いたことに男は丸い耳を持つ人間だ。
てっきりドラゴンの屋敷にはドラゴンしか居ないと思っていたので、私は小さく戸惑った。
そんな私に執事は目敏く視線を向け、上品に口の端を上げた。
「旦那様からお話は伺っております。ミキさま。ようこそおいでくださいました」
止まろうとしないレスローと連れられている私について歩きながら軽く頭を下げると、
「私はニアケリスと申します。この屋敷での執事を仰せつかっております」
丁寧に自己紹介して再びレスローに向き直る。
「伺った通り、すべて整っております」
「わかった。ご苦労」
偉そうなレスローは私と共に広い玄関を抜けホールに出ると、緩やかな螺旋を描いた大きな階段を昇り始める。「行くぞ」と私も促されてついていくと、ニアケリスは他の使用人たちと一緒に深々と頭を垂れてこちらを見送っていた。
改めて見遣ると使用人たちは皆、丸い耳の人間だった。
「あの」
先ほどと違って私の前を歩くドラゴンに向かって呼びかけると、彼はその太い首を少しだけ傾けた。
「質問してもいいですか?」
自分の履き振るした靴では傷つけてしまいそうな磨かれた床を歩きながら尋ねると、太い首が「応えられるものなら」とゆっくりと頷く。
「こちらのお宅では、その…人間ばかり雇っているんですか?」
私は亜人のことをあまり知らない。様々な種族があって、独自の生活習慣を持っているということは今までの付き合いから知っているが、どういう種族がどれほど居るのかなどは全く知らないのだ。思えば、私がドラゴンと名付けているレスローもこの世界ではどう呼ばれているのかさえ知らなかった。
レスローは私の質問の意味を頭で巡らせるように顎をさすったかと思うと、ぷっと吹き出して次に大笑いした。
「あっはっはっはっは!」
驚いたのは私の方だ。レスローは口うるさいが物静かな方で、今のように牙をむき出しにして笑うなど初めてのことだった。
「私が家に招いたのは、ミキ、お前だけだ」
「え?」
訊ね返した私に、レスローは人の悪そうな笑みを浮かべる。それは鋭い牙がぎらりと並んでいるのでかなり凶悪だ。
「この屋敷に居る人間はお前だけだということだよ」
それだけ応えてレスローは自ら目的地らしい部屋のドアを開けて、私を招き入れた。
椅子と長椅子、テーブルが揃えられたその部屋は応接間と一目で分かったが、大きな暖炉も窓も人間の規格ではない。柔らかそうなクッションのついた椅子に座れば、小さくはないはずの私が小さな子供のように埋もれてしまいそうだ。
「座るがいい」と促されて座るとやはりクッションに埋もれた。近くの長椅子に同じように腰かけたレスローには長椅子はちょうどよく収まっている。
「私の種族の話は後にしよう。まず、お前の仕事について話そう」
確かに、まずそれが先だ。ドラゴンについては私のただの好奇心にすぎない。
私が頭を切り替えたと見るや、レスローも姿勢を改めて私に向き直る。
「お前には私の秘書官の仕事と地位を与えるとはもう伝えたな」
「はい」
納得はできないが、仕事があるに越したことは無い。どのみち私は働かなければ食っていけないのだから。
「同時に私はお前の身元保証人、後見となるわけだ。だが、秘書の仕事よりも優先してもらうのは、サクラへの語学教育。……というよりまぁ、話し相手だな」
なるほど、と仕事内容は納得する。私はきちんとした語学を勉強したわけではないので、あくまでも話をしながら言葉を教えることになる。
「その際、お前には女装をしてもらう」
――なんだそれ。