物の始まり
考えても見てほしい。
どれほど平凡な顔立ちでも、年頃の娘が何も分からず一人で転がっているとしよう。多くは無いとしても、悪戯心の湧く物好きな男の一人や二人は居るはずだ。
私はこの世界に落ちてから商隊に居たので、乱暴されて泣いている娘もたくさん見てきた。落ちてきたばかりの私は平均よりも高い身長の上にがりがりに痩せていたので初めのうち、誰も女と分からなかったらしい。言葉も分からないので来る人来る人に坊主と呼びかけられるのをそのままにしていたから、余計に分からなかったようだ。
さて、では同郷の人はとどうかというと。
『ありがとうございます、ミキさん』
翌日、様子を見に行くよう言われた私は色々説明して、さくらに同郷であることを明かした。そしてノヴァがやってくるまでに彼女にこの世界のことを話して聞かせた。
言葉は通じないこと、日本の常識も通じないこと、などなど。
さくらの話も聞くことができた。彼女はやはり十七歳で、映画を見た帰り道に私と同じように突然異世界の森に飛ばされてきたらしい。私と違うのはすぐにノヴァのようなお人好しと出会ったことだ。
彼女は素直な性格のようで、私の話に時々の質問以外は黙って聞き、最後にこの質問をした。
『日本に帰る方法は、ありませんか』
同郷の人と会うのはこれが初めてだが、私は自分でも驚くほど静かに応えた。
『私は見つけられませんでした』
私の応えにさくらははーっと息を吐いて「そうですか」とだけ呟いた。
この四年、私が何もしなかったわけではない。むしろ商隊というあちこちへ旅をする人たちにくっついていたので、私はあらゆる手段で手に入れられるだけの情報と文献を漁った。時に高額な情報料まで支払って、一般の人間では見られない資料の中まで探したが、とうとう私は帰る方法を見つけることが出来なかった。
それから彼女に女物の着替えを渡し、ほとんど身一つでやってきた彼女の私物を一人暮らしの私が預かることになって彼女は少しだけ笑った。
『ミキさんみたいな人なら預かってもらっても構いません』
それはどういう意味だろう。
不思議に思って尋ねると、さくらの頬がにわかに赤くなった。
『ミキさんみたいな彼氏が居たら、彼女は幸せだろうなって』
――どうやら私は、男として過ごし過ぎたためか、同郷の同性にも男と見られてしまうらしい。
さくらが私に連れられて朝食を食べに酒場へ行くと、昨夜の金髪と大柄な男が待ち構えていた。
「サクラ!」
私の隣の彼女を見つけて柄にもなく頬を染めたのはノヴァ。その隣で興味もなさそうに金色の虹彩を細めた男は見るからに人ではない。
固い鱗にそびえる角。その頭から背に流れるのは爽やかな海のような青の髪。それを丁寧に編み込んでゆったりとした長衣を着こんでいる姿はどこか神官のようだ。しかし鋭い金の瞳の顔にあるのは人の頭でも噛み砕けそうな頑丈な顎。その顔は、どう見ても空想の世界に住んでいたはずのドラゴンだった。
(うげっ)
声を出さずに呻いた私に目敏く気付いたのか、彼はゆっくりとこちらに振り返る。
「人の顔を見て顔をしかめるとはいい度胸だな、ミキ」
およそ人ではない容姿にも関わらず、響くのは実に理性的で落ち着いた男の声だった。
「……おはようございます。レスロー」
時々ノヴァと共にやってくるこのドラゴンはレスローと言って、私の天敵であった。
酒場を経営する亜人と人間の夫婦はこの街においてはかなり人のいい夫婦で、彼らはノヴァとさくらの話を食事を交えながらよく聞いてくれた。私が通訳として間に入っていたものの、概ねノヴァとさくらの話はおかみ夫婦に伝わったようだ。
多少の嘘はついた。さくらは私の同郷で、しかし故郷は遠くてすぐには帰れない。だから住む場所と仕事を見つけられないかと相談を持ちかけたのだ。これにはノヴァも自分も考えてみると呻いたが、やはり同郷ではないかと睨んできたので無視した。私だって動揺する時ぐらいある。
朝食を終え、話し合いも終わりを見せた頃、一人静かに茶を飲んでいたドラゴンがおもむろに口を開いた。
「ここでは雇えないのか?」
どうやらレスローは退屈で寝ていたわけではないらしい。長い爪とカップなどうっかり割ってしまいそうな手で器用にカップを弄び、考えるようにおかみ夫婦を金の瞳で見遣る。
「そうだねぇ…」
角を持つ種族のおかみがふくよかな顎に手をあてレスローと一緒に考える。
「うちは客商売だからねぇ。言葉が分からないと難しいかもしれないよ」
確かにこの酒場のオーダーは伝票にメモはするものの、キッチンへは大声で注文しなければならない。日本語が分かるのは私だけだが、常に忙しい酒場でいちいち通訳するわけにもいかない。
「なるほど」とレスローは頷き、
「では言葉を覚えさせればいいのだな」
もっともな正論だが、彼が次に披露した案は耳を疑うものだった。
「ならば、ノヴァが預かれば良いのではないか。通訳として、それも連れて行けばいい」
それ、と長い爪で指をさされたのは私である。
なぜ私が。
怪訝な私の顔を見遣って、普段は表情のよく分からないレスローの顔が明らかに馬鹿にする体をとった。
「お前しか言葉が分からないのだから当然だろう」
どこが当然なのか。
しかし私が反論する間もなく、ノヴァが得意顔で頷いた。
「それはいい案だな。俺には拾った責任があるし」
ならば私には通訳する責任があるとでも言うのか。
ノヴァのやたらと気合いの入った促しにうんざりして、渋々さくらに通訳すると、
『ミキさんが一緒に来てくれるなら心強いです!』
満面の笑みで迎えられてしまった。
最後の頼みとおかみ夫婦に縋ってみたが、
「そういうことなら仕方ないね。うちはどうにか人を回してやりくりするよ。行っておやりよ」
人の良さを全開にして私をあっさりと売り渡してしまった。
トントン拍子に進んでいく私の売り渡し計画に半ば呆然としていたら、ふとレスローと目が合った。
奴はやはりあまり表情の分からない顔で、笑った。
確かに笑ったのだ。
鼻で小馬鹿にするように!
「――じゃあ、そういうことでいいな。今日の内に荷物をまとめてくれ」
どこがどう良かったのか。
満足顔のノヴァの端正な顔を殴らなかったのは褒めてほしい。
あまり話を聞いていなかった私は、その日のうちに苦労を重ねてようやく築いた自分の城を離れ、どういうわけかドラゴンの住まいに向かうことになってしまった。
何かと私に世話を焼いてくれ、良い人だった大家のおばさんは突然の引っ越しに驚いたものの、私に果物の盛りかごを渡してくれた。「急なことだったからこんな小さなものだけど」と渡してくれた果物には何故か祝いの文字がある。
どういうことかと尋ねると、快く教えてくれた。
娘が嫁に出る時に、近所の人や家族が果物かごを渡す習慣があるのだという。
大家さんは私が女と知る数少ない人だった。
そして、大家さんは私を見張りに来ていたレスローを、誤って突然やってきた婿候補だと思いこんだらしい。しきりに立派な人を捕まえて、と言ったから何事かと思ったのだ。
その間にも私の荷物はレスローの家の者だという男たちに運び出され、気がつけば私は誤解がいっぱいに詰まった果物かごだけを持って、ドラゴンの家に行くことになったのだった。
幸いなことにいつも月末に支払われる給料は一応渡してもらった。その半分は家賃と大家さんへの心付けに消えたが、別にそれはいい。問題はこれからだ。
「……なぜ私があなたの秘書官にならなければならないのかまったくもって分からないのですが」
ドーと呼ばれるバイソンのような巨大な生き物に車を引かせた馬車にドラゴン人間の巨体と相乗りし、髪と同じ青の鱗顔を見上げると彼は「話を聞いていなかったのか」と尊大に溜息をつく。
「ノヴァの家はそれなりに格式があるから、お前の立場をすぐに作ってやれないのだ」
さくらは一応、彼の客人という立場になるらしいが、私は彼女の話相手と通訳としてノヴァに雇われる形となるので名目上の立場を作らなくてはならないらしい。
そして私の身元保証人となったのが、このレスローというわけだ。
「私の家でもお前の立場は明確にしなくてはならん。面倒だがな」
それでもレスローの方が私のような者でも雇い入れやすいというのだから、ノヴァの家格は推して知るべしだ。やはり金持ちの貴族か。
「私の家では身分を問わない、というだけだ。他の家ではそうもいくまいよ」
しかしそうなってくるとますます疑問が残る。
「なら、どうして私があなたの秘書とならなければならないのですか」
この馬車にしても今まで見たこともないほど立派な造りだ。
きっとこのドラゴンの巨体に合わせた特注品だろう。
とんでもない金持ちだということは分かったが、レスローの正体は未だようとして知れない。
「ただの使用人では、ノヴァの家へあがるのに身分が足りないからだ」
あの金髪木偶の坊は、どれほどの家格をお持ちなのだろうか。
この世界は純然たる身分社会だ。上は王族貴族、下は奴隷といった具合に明確な身分差があり、王侯貴族たちは下々の者をそこらのぺんぺん草程度にしか考えていないのが普通だ。
だから、その点で言えば私がへりくだるでもなくこうして普通の会話を許しているレスローとノヴァはかなり変わった金持ちだった。
「何が不満だ。お前の給料は私が出す。衣食住も保障しよう」
突然身の振り方を変えられて不機嫌にならない人間の方がおかしい。
私の隠そうともしない不満顔を見て取って、レスローは珍しく言い訳するように頑丈な口を開く。
「――さくらが落ち着けばノヴァも気が済む。そうすれば、お前はいつでも街に戻ればいい」
まるで私を甘やかすような言い草だ。
不幸中の幸いか、私があの街へ帰った時にはあの人のいい酒場夫婦は私を再び雇い入れてくれるという。
あっさり売り渡された身としては複雑な心境だが、背に腹は代えられない。
「……でも、どうしてそこまでするんですか?」
たった一人の身元不明な少女のために、ノヴァが負う厄介事は計り知れない。レスローとは旧知のようだが、ドラゴンは豪胆な見た目に似会わず、非情なほど合理主義だ。だからまさか彼がノヴァの無謀の手助けをするとは思えなかった。
「私としてもあそこまで入れ上げているとは思っていなかったがな」
さくらとノヴァが出会ったのは、昨晩のことだ。
「一目惚れをした人間は恐ろしく融通の利かないものだ」
なるほど。さくらは美少女だ。この世界でも審美眼は変わらないらしい。
何となく納得した私にレスローは鋭い歯を見せてにやりと笑う。
「お前はどうする? 私の家では女装しても良いぞ?」
がらがらと車の音が耳障りだったが、私はレスローの視線が不快で車の窓から外を見遣った。いったいどんなお屋敷に連れて行かれるのか。
ゆったりと流れていく街道の景色を眺めながら、私はレスローと出会った時のことを思い出していた。
――レスローは私が女だと知る数少ない人間と亜人の一人だ。
正確には、知られた、が正しい。私は進んで彼に話した覚えはない。
そんな彼との出会いはまったくもってありきたりで、最悪だった。