事の顛末
小さい頃、私はケーキ屋になりたかった。
その理由は単純で、ただ単にケーキが好きだったから。
でもその夢をいつまでも持っていたかというと、それは幼稚園を過ぎるまでの夢だった。
学年が上がるにつれ私の夢は現実味を失い、とうとう形を失くしてしまった。
それでも、高校生になる頃には漠然とした子供時代から大人になるための現実を考えなくてはならず、私は大学進学という実現性の高い夢の先を模索していた。
(まぁ、全部無駄になっちゃったわけだけど)
薄汚い路地裏からぼんやりと空を見上げた私はこうして溜息をついている。
「休憩は終わりだよ、ミキ!」
裏口に顔を出した丸い顔のおかみさんの声に促されて、樽から腰を上げると私はいそいそとエプロンをつけ直す。
待ち構えていたおかみさんに伝票を手渡され、がやがやと喧騒のたちこめるホールへと私は飛び込んだ。
そこに広がるのは、およそ日本ではない。
広いホールで丸テーブルを囲むのは映画でしか見かけないような甲冑やドレス、さらには獣の顔をした者。人の形をしていても、耳の形が違ったり、中には羽根のある者まで居る。
――今から四年前。高校三年の冬、私こと高島未来は異世界に飛ばされたのだ。
あの日は雪が降っていた。
うだつのあがらない高校生だった私は他の高校生と変わらず受験勉強に勤しんでいた。その日も一向に理解出来ない公式を頭いっぱいに詰め込んで予備校から帰る途中だったのだ。
寒いから帰りにコンビニにでも寄ろうか寄るまいかというくだらないことに頭を悩ませていたに違いない。
そんな日々があっさりと終わったのは、本当に一瞬だった。
ぼんやりと歩いていたはずの道路が消えたかと思えば、私はあっけないほど唐突にたった一人で森の中に放り出されていたのだ。
私は履いていたスニーカーが擦り切れるまで森を歩きまわった。
光のあまり届かない森の暗闇に怯え、見たこともない獣に怯え、見知らぬ果物に手を出すのが恐ろしくて空腹に耐え、何も分からないままとうとう森を抜けた。
後から思えば野たれ死ななかった私は運が良かった。
ちょうど通りがかった商隊に拾ってもらい、服と食べ物を分けてもらえた。言葉の分からない子供は幾らでもいるらしく、彼らは私を保護してくれたのだ。そのあいだの礼として、私の持ち物の大半は彼らによって売り払われてしまったが。
隠していた携帯電話と校章だけが手元に残った時には涙も出なかったものだ。
それでも奴隷にもならず、娼館にも売られず、ただの労働力として扱われたのはまだ良心的だった。
友達や両親が恋しくて泣いたのは一度や二度のことではないが、泣いてばかりいてもお腹は膨れないし言葉も分からない。
あとは必死に働いて稼ぎ、一端の人として扱ってもらえるようになってから、私は商隊を抜けて街に住むことにした。
幾らか打ちとけた商人たちは私を商隊の一員として迎える準備をしてくれていたが、香辛料などの真っ当なものから時に武器や奴隷も運ぶ仕事を私は最後まで好きにはなれなかったのだ。今でも時折、私が見捨てた人々の顔が浮かぶこともある。
こうして気付けば、四年の歳月が経っていた。
私がガージェルという街に住むと決めたのは、その暑くも寒くもない気候と都会でもなければ田舎でもないほどよい立ち位置だった。
王都と大きな交易路の中間に位置するこの街は、王都へ続く最後の中継地として古くから有名で、石積みの町並みはまるで一個の城のように折り重なっている。盛り場も盛況で、私のような他所者でも比較的簡単に住処と仕事を見つけることが出来た。商隊の紹介もあってか給料も仕事内容も真面目な職に就けたのは、感謝している。
「ミキ! 追加だ追加!」
宿営地のガージェルの夜は騒がしい。
王都を目指してやってくる旅人が都を前にして前祝いをするし、王都から出てきた者たちは旅の門出にと無礼講をやるのだ。
そんな旅人を相手にする商人や下っ端騎士まで混ざるので、今日も酒場ノーンの店は酔っ払いでいっぱいだった。
「やぁ、待ってたぞ。青とかげのスープ!」
「ほどほどにして早く家に帰りなよ。奥さんが怒るよ」
「この野郎、ガキのくせして生意気な口をきくなよ」
狼顔の常連の彼は言われなくとも帰るさ、と大きな口を開けて笑う。
四年前こそ珍しかった亜人と呼ばれる彼らも今では見慣れたものだ。亜人は警戒心は強いが、信用してくれると丸い耳の人間より金払いが良くて面倒見もいい。
地域によっては亜人を差別したりするが、ガージェルでは大事なお客様だ。
それからあちこちから呼びかけられては酒と料理を運び、常連と軽口を交わしてホールの中を同僚の四人で駆けまわり、最後の客を見送った時には一週間に七色に変わる月が黄緑色で大きく傾いていた。この世界の月は時間によって月が満ち欠けをするので、中点をとうに過ぎた月はすでに傾き削られている。
「ミキ、看板を下げて来ておくれ」
今まで戦場のようだった厨房を取り仕切っていたおかみに頷いて、店の看板の下にある開店の看板を取り外しに行く。
すると外灯の届かない暗がりからひょこひょこと人影が現れるではないか。
店の戸口から目をこらしていると、男が何かをマントにくるんでやってきた。
「もう店じまいの時間か」
その流れるような金髪に見覚えがあって、私はあっと声を上げた。
「どうしたんですか、ノヴァさん」
時々店にやってくる目立つ男だ。恰好こそどこにでもいる雇われ護衛のようだが、どこか品のいいシャツやベスト、使いこまれた腰の剣も良い品で、きっとどこかの貴族の坊ちゃんだろうと私は見立てている。料理を運んできた私に名前を訊き、気安くノヴァと名乗ったのも本名かどうか。
そんな彼がどこか困ったようにマントに何かをくるんで両手で抱えている。
それは、人間一人分の大きさで。
「君を見込んで頼みがある」
嫌な予感がするので迷わず首を横に振る。
「他を当たってください」
私の態度にノヴァは唸ったが、もぞもぞと動いたマントに驚いてそちらに視線を落とす。そしてマントから顔を出したのは、
『……ここ、何処ですか?』
懐かしい日本語を話す、黒髪の美少女だった。
ぱっちりとした瞳、桜色の唇、白皙の顔。どこからどう見ても美少女の黒髪は不思議そうに私を見て『やっぱり日本?』と呟いた。
その様子にノヴァはゆっくりと丁寧に彼女を自分の腕から下ろしてやり、再び私を縋るように見遣った。
「やっぱりお前と同じ髪色じゃないか! 同じ国の者なんだろう? 助けてやってくれないか」
ノヴァが手短に言うには、町はずれの森で倒れていた彼女を見つけて保護したが、言葉が分からず意思疎通が出来ないまま、どうにか街まで連れてきたらしい。
ちらりと彼女を見遣ると、当の本人は物珍しげに街を見回している。ざっくしりとしたセーターにスカート、レギンスといった私服ながら年恰好は十六、七。肩より少し長い髪を流した姿はシンプルだが清潔で、やはり美少女だった。
「それで、いったいどうしろと?」
ノヴァに視線を戻すと彼はますます困り顔になる。鼻筋の通った無駄に整った顔立ちなので困り顔は哀れで思わず手を差し伸べたくなるが、彼が持ってきたのは厄介事に他ならない。
しかし私の問いかけに反応したのはノヴァでは無かった。
『ねぇ、やっぱりここは日本なんでしょう? 帰り道知らない?』
不安になったのか黒髪美少女が私のシャツの袖を掴んで見上げてくる。申し訳ないけど、それはもっと単純な男にやりなさい。
やんわり細い手を外して、私は自分より少し低い位置にある彼女の顔を覗き込んだ。
黒目がちの瞳は、この世界ではあまり見かけない。懐かしくも思ったが、ノヴァの前で日本語を話すことには抵抗がある。しかしこのまま彼女を放っておくのも不安になった。この可憐な容姿だ。きっと様々なところから引く手あまたになるに違いない。
「ミキ」
自分に指をさしてそう言い、今度は金髪をさして「ノヴァ」と、それから彼女にあなたは、と尋ねるように指さした。
瞳を瞬かせた彼女だったが、やがて意味が分かったのか頷いて、
『さくら』
そう名乗ってほのかに微笑んだ。
厄介事には関わらないとこの四年で痛いほど学んでいた私だったが、同郷人をこのまま放っておくこともできず、おかみさんに事情を話してノヴァとさくらの二人に料理を出してもらった。さくらは同僚の亜人やおかみさんの角に驚いていたが、生来人懐こい性格なのか、世話好きの彼らにあれやこれやと世話を焼かれている内にすぐ打ち解けた。
食事を終える頃にはすっかりと甘えて、さくらとノヴァはおかみさんの紹介で近くの宿に泊まることとなったのだった。
帰り際、ノヴァは私を呼び止め、
「お陰で助かった」
「……別に何もしていませんが」
訝る私に金髪は首を横に振る。
「俺一人では、名前すら聞き出せなかった。ありがとう」
そう言って嬉しそうに笑うので無碍にも出来ず「どういたしまして」とだけ返しておく。そんな私にノヴァは笑って、
「お前は本当に不思議な奴だな。しっかりしているようで、妙にお人好しというか」
「余計なお世話です」
育った環境のせいか、この世界の元からの住民よりお人好しだという自覚はあるのだ。
「そう怒るなよ。今度酒でもおごってやる」
「酒は飲みませんが」
成人はしたものの私は酒を旨いと思ったことがない。憮然とした私の頭に手を伸ばし、ノヴァはぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。
「男が酒の一滴も飲めないんじゃあ格好がつかないだろう! ちょっとでもいいから付き合え」
そんなことを言い残して、ノヴァはさくらを宿へと送り届けるべく酒場を去っていった。
――そう、お気づきだろうか。
私はれっきとした女だが、異世界では男と偽って生活している。