虜囚
王は彼女を閉じ込めた。
それは魔方陣の光の線から成る、堅牢な檻だった。
窓一つない石壁と石畳だけの部屋の床に、両腕を広げた長さより少し余る直径の、正円の形に魔法の呪文が描かれ、それに内接する正七角形のそれぞれの角から中空の一点にむかって光の線が伸びている。尖塔の様な七角錐の中空の1点に向かうななつの二等辺三角形は、人の目には見えない透明な壁が編まれている。
その中に彼女はいた。
少女の姿をした、一匹の蝶である。
「どうして、こんな事をするの」
鈴を振るような少女の声が向かった先に、一人の少年がいた。彼女より幼く見える。十二、三といったところだろうか。光のささぬ暗闇のような瞳だけが「大人びた」というより老成した者のそれを思わせる。疲れてひねこびた、昏い目だ。
少年は億劫そうに目を閉じた。
彼女は重ねて尋ねる。
「いつまで閉じ込めておくつもりなの?」
壁にもたれ、だらしなく両足を床に投げ出したまま、やはり少年は答えない。
「こんな事をして、許されると思ってるの!?」
「許されるさ、俺は王だからな」
初めて彼が発した声は、さも当然とばかりに淀みがなかった。
再び向けられた皮肉げな漆黒の瞳には、かすかな灯が点るように、白い、彼女の姿が映っている。
「―わが領内の森にお前がいて、とてもきれいで気に入ったから連れてきた。何が悪い」
王の声は淡々として、己が罪を露ほども感じていないらしい。
彼にとって自分は一匹の鑑賞物でしかないのだと、白い蝶の化身は気付く。
彼女は信じられぬものを見た様に顔を歪ませると、背中を追い立てる絶望から少しでも逃れようと、唇を噛んで王を睨み付けた。
古来より、蝶の化身は神の使いとされ、何人も触れてはならぬ禁忌であった。
その姿を見たものは魂を奪われ、その身に触れたものは神の怒りを受けた。
孵化して間もない彼女にも、厳然としてその理は内にあった。
自分は何故この境遇にあるのだろう。
なぜこんな場所にに在らねばならぬのだろう。
そもそもなぜこの男は自分を捕らえる事ができたのか───。
彼女は何も覚えていなかった。
覚えているのは孵化した瞬間。原始の森には濃密な森の空気が立ち込めていた。
甘い蜜を吸うように、彼女はその大気を吸い込んだ。それが最後の記憶である。
あそこが、あの森が、彼女の在るべき場所だった筈だ。
それなのに──何故、自分はこんな所にいるのだろう───
不条理に対する憤りが彼女を支配する。
しかし、不条理の原因たる王は何も答えない。
王は度々彼女の元へと訪れた。とは言え、その部屋には扉さえなかった。王は、いつも光の幕を伴って、音もなく現れる。姿を消す時も同様である。恐らくは、強力な魔導師の力をもって。
窓一つない部屋に幽閉された彼女には時間を計る術もなく、魔力の磁場は本来彼女が持っていた体内時計も狂わせていたので、それが数時間おきなのか、一日おきなのか、はたまた数日おきなのか全く分からなかった。
が、少なくとも閉じ込められた魂が狂うよりは、早い間隔で来訪は続けられていた。
来訪の度に、彼女は開放を懇願したが、王は全く聞き入れようとしなかった。
「私をここから出して」
「…」
「あの森へ、私を返して」
「お前は私のものだ」
「いつまで私を閉じ込めておくつもり?」
「俺がお前に飽きるまで、かな」
「飽きる前に私が死んだらどうするの?」
「安心しろ、お前は死なない」
「何故そんな事が分かるの」
「…お前を捕らえているその檻は、特別な魔法がかけてあってな、可能な限り時間が遅く流れる様になっている。勿論並の魔同士にできる事ではない。俺が王だからこそ成し得た事だ」
「遅く…とは?」
「ほぼ、止まっているに等しい。少なからずこの部屋も影響を受けているからこうして会話は出来るが、俺以外は誰も出入り出来ぬよう、この部屋自体にも強力な封印がかけてある」
「なぜ、そんな事…」
「なぜ…? もちろんおまえを美しいまま残す為さ。せっかく我が物としたのに、あっさり死なれてはつまらん」
欺瞞に満ちた王の言葉に、蝶は嫌悪を覚える。
ただ彼女を鑑賞するためだけに、彼は持てる権力を行使したと言うのか。
確かにその檻の内は暑くも寒くもなかったし、飢えや疲労、排泄さえも感じることはなかった。それ故に更に彼女は時間の間隔が無くなっていったのだ。
「私はあの森へ帰れないの…?」
「…ああ、そうだな―」
王はそう言って、口の端に非情な笑みを浮かべる。
彼女は信じなかった。あの森は聖地であり、自分が在るべき唯一の場所である。
己が魂を保つ為に、信じるわけにはいかなかった。
不条理に対する憤りだけが彼女を支配する。
しかし言葉は意味を成さない。
繰り返される懇願と頑なな拒否。終わらない堂々巡り。
伝わるものはなく、やがて伝えるものもなく。
来訪の度にお互いの言葉は減り、やがて対話は途絶えた。
彼女は床に描かれた魔法文字をなぞり始めた。金色に光る詠めぬ文字を指でなぞりながら、唇は故郷の森を語り続ける。生い茂る木々。鏡のような湖水。樹液は甘く、濃い大気が彼女を取り巻いている、この上もなく美しい彼女の故郷。決して忘れぬよう、心が挫け、諦めてしまわぬ様、彼女は語り続ける。そうして、彼女の問わず語りは王の在不在に関わらず続けられる様になった。
王は、そんな彼女を見ながら何も言わない。ただ一刻、また一刻と彼女を見つめ続けるだけである。その幼くも心を閉ざした顔からは、どんな表情も読み取れない。
王を見ない彼女と、彼女を見つめ続ける王と。
決して心が交わる事のない、二人だけの時間が淡々と過ぎてゆく。
風が唸りをあげていた。
馬上に佇む王の髪の毛が煽られる。
建国神話の舞台であり、国の水源でもある森を前に、感情を伴わぬ目を向けたまま、王はひと言「焼け」と命令を発した。
傍らに控えた白衣の神官が悲鳴を上げる。
「この森は―っ、神のおわす森ですぞ…!」
「それがどうした」
「神の怒りに触れましょうぞ! どうぞ、陛下、なにとぞ…!」
震える指を祈りの形に組んだ老神官に一瞥もくれず、王は再度、配下の者達に促した。
「何をしている。王の命令だぞ? 構わぬから焼き尽くせ!」
朗々と響く圧倒的な王の声に、背後に控えた者達は、無言のまま木々の根元に油を撒くと、風下に向かって火矢を放つ。
手際よく放たれた火は次々と燃え上がり、黒煙と紅蓮の炎が空を舐め上げた。
神官は膝をつき、声を殺して凄惨な風景に滂沱の涙を流す。
王は何も言わない。
漆黒の瞳には、うねる緋の龍がと舞い散る火の粉だけが、赤々と映っていた。
その夜、檻の蝶は何も知らず、いつもどおり魔法陣をなぞっていた。
語る言葉には微かな抑揚がつき、まるで赤子を眠らせる母の子守唄のようにも聴こえる。
王は黙っていつもの壁際に腰を下ろすと、黙って彼女を見つめる。
時間が止められたままの彼女は、相変わらず美しい。
白い肌。柔らかい曲線を描く身体。背中から広がる透き通るような白い羽と、額から延びる二本の触覚だけが、彼女が人ではない事を示している。
それでも彼女を形作る全てが神々しかった。
例えその瞳に何も映さなくても。
例えその瞳が王を映さなくても。
喉の奥から押し殺された笑いが漏れる。
彼女の詠唱を邪魔せぬ様、王は声をたてず笑っていた。
しかし蝶は気付かない。
気付かぬまま、美しい故郷の唄を歌い続ける。
だから、歯を食いしばり、世界を呪うようなくぐもった笑みの奥で、落ちくぼみ始めた漆黒の瞳に一粒の涙が滲んで消えた事も、当然知る由はなかった。
やがて、彼女の魂が己の言葉さえ認識できなくなる頃、王の来訪は途絶えた。
しかし彼女は既にそんな事にはとっくに気付かなくなっていた。
石畳に描かれた魔法文字を細い指で辿りながら、意味さえ成さなくなった言葉を語り続ける。
だから─
彼らの上に、季節が七巡するくらい月日が流れたのも彼女は勿論知らなかった。