異世界で、俺はようやく人になった
俺は前世、ただのサラリーマンだった。
名前は田中健太。二十八歳。特に取り柄もなく、特に憎まれることもなく、ただ自分のことだけを考えて生きていた。残業は嫌だから手を抜く。
誰かがミスをすれば、自分は関係ないふりをする。
困っている人がいても、関わりたくないから通り過ぎる。
「損をしたくない」——それが俺の唯一の信条だった。ある雨の夜、俺は駅のホームで足を滑らせた。
意識が遠のく直前、誰かが「大丈夫ですか!」と叫んだ気がした。
俺は助けを求める声すら出せなかった。目が覚めた時、俺は知らない天井を見ていた。「カイ、起きなさい。今日も畑よ」母親らしい女性の声。
俺は「カイ」という名前の、十歳くらいの少年として転生していた。
貧しい農村の、さらに貧しい家の息子だ。最初の数日は、ただ呆然としていた。
しかしすぐに、前世の自分が戻ってきた。「どうせこの世界でも、損をしたくない」俺はそう決めた。最初にやったのは、隣の家の子供からパンを盗むことだった。
その子はもっと貧しくて、毎日青白い顔をしていた。
でも俺は空腹に耐えられなかった。「ごめん、でも俺の方が必要だ」そう言い訳して、パンを食べた。
その夜、俺は初めてこの世界で腹を下した。
盗んだパンは、すでに腐りかけだったのだ。母親は何も言わず、俺の額に冷たい布を当てた。
「無理して食べたんでしょう。次からは、ちゃんと言いなさい」俺は何も答えられなかった。二度目は、村の共同井戸で起こった。水汲みの順番を守らず、俺は割り込んだ。
後ろに並んでいた老婆がよろよろと倒れそうになったが、俺は見て見ぬふりをした。
「自分の順番が遅くなるだけだ」と思った。その夜、井戸の水が濁った。
誰かが上流で汚れものを流したらしい。
村人たちは困り果て、順番を守っていた人たちから優先的に水を分け始めた。
俺は一番最後に回された。「順番を守らない人間は、最後でいい」村長の言葉は、静かに、しかし確実に刺さった。三度目は、もっとひどかった。村の外れで、 同じくらいの少年が狼に襲われていた。
俺は木陰に隠れて、ただ見ていた。
「助けに行ったら、俺も死ぬかもしれない」少年は足を噛まれ、血まみれで地面に伏せた。
狼が次の一撃を加えようとした瞬間、誰かが石を投げた。
母親だった。母親は俺を見つけると、ただ一言言った。「見てたのね」それだけだった。
叱られもしなかった。殴られもしなかった。
ただ、俺の目をじっと見て、何も言わなかった。その沈黙が、前世のどんな説教よりも重かった。俺は初めて、自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。
「損をしたくない」——その言葉が、急に空虚に聞こえた。それから、俺は少しずつ変わろうとした。盗まない。
割り込まない。
困っている人を、せめて見ないふりはしない。最初は意図的だった。
「こうすれば、後で得をするかもしれない」と思いながら。でも、ある日、決定的なことが起きた。村に魔物が来た。
小さな森のゴブリンが、夜に家畜を襲うようになったのだ。
村人たちは夜番を組むことにした。俺は最初、夜番を拒否した。
「俺は子供だ。戦えない」村長は静かに言った。「子供でも、村の一員だ。逃げるなら逃げてもいい。ただし、逃げた者はもう村の者ではない」俺は逃げなかった。
逃げたら、本当に何もかも失う気がしたからだ。夜番の夜、俺は隣の家の少年——以前パンを盗んだ相手——と一緒に立っていた。
彼は足を引きずりながらも、槍を握っていた。「カイ、お前、前はパンを盗んだよな」突然、彼が言った。俺は答えられなかった。「……でも、今日は一緒にいてくれるんだな」彼はそれ以上何も言わず、ただ前を見た。その夜、ゴブリンが三匹来た。
俺たちは必死に槍を振り回した。
一匹に腕を切られ、血が出た。
痛みで目の前が真っ白になった瞬間、隣の少年が俺の前に立った。「退くな!」彼は俺を庇い、ゴブリンの爪を背中で受けた。俺は初めて、自分の声で叫んだ。「くそっ……っ!」石を掴み、全力で投げた。
たまたま目に当たった。
ゴブリンがひるんだ隙に、村長たちが駆けつけてくれた。朝になり、少年は息をしていた。
背中はひどい傷だったが、命は無事だった。俺は彼の枕元で、ただ座っていた。「……ありがとう」掠れた声で言った。彼は弱々しく笑った。「お前が最後に石を投げてくれなかったら、俺も死んでたよ」その言葉が、胸の奥に落ちた。俺は初めて理解した。損をしたくない、というのは、結局「一人で生きたい」ということだった。
でもこの世界では、一人では生きられない。
誰かが誰かを庇い、誰かが誰かに水を分け、誰かが誰かの順番を守る。
それが「道徳」というものの正体だった。前世の俺は、それを「めんどくさいルール」だとしか思っていなかった。
でも今はわかる。
ルールではなく、人と人が繋がるための、最低限の約束事なのだと。傷が癒えた後、俺はもうパンを盗まなかった。
井戸の順番も守った。
困っている人がいれば、せめて声をかけるようにした。ある日、母親が言った。「カイ、少し目が優しくなったわね」俺は照れくさくて、ただ「そうか」と答えた。夜、星を見ながら思う。前世の俺は、死ぬ直前に誰かが「大丈夫ですか」と叫んでくれたことを、今でも覚えている。
あの声に、俺は何も返せなかった。
でも今なら、返せる気がする。「大丈夫じゃない。でも、一緒にいてくれるなら」異世界で、俺はようやく人になった。損をしない生き方ではなく、
誰かと共に生きるための、正しさを選ぶ生き方を。——終わり——
昔に書いたものをあげてみました。これからは、随時新しく書いたものを上げたいと思います。




