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『娘は置いていけ』と言った夫の前で、七歳の娘が私の手を取りました

掲載日:2026/10/13

 娘の靴を袋へ入れてから、テレーズは取り出した。

 明日も履くものを持っていけば、迎えに来るまでのあの子は何を履くのだろう。

 よそ行きの靴では長く歩くと踵が痛む。雨靴を履かせて庭へ出すかもしれない。それでは足が蒸れるし、転んだ時にはひとりで脱げない。

 靴を抱えたまま考え、結局、柔らかな革靴を寝台の下へ揃えた。左の留め金が緩んでいたので、直してほしいと小さな紙に書いて挟む。


「まだ支度が済まないのか」


 夫のグレアムが戸口に立っていた。

 慈善院の役員会から帰ったばかりで、濃紺の上着には白い花が挿してある。院の子供たちが育てた花だ。院では働く母親の子供を預かり、離れて暮らす母子の面会も手伝っている。今朝はその催しで読む挨拶を夫から聞かされ、花を胸に挿す手伝いをしてから、リリを起こしに来たのだった。

 その日の夕方に自分が屋敷を出るとは、朝のテレーズは知らなかった。


「リリの授業が終わるのを待っています」

「娘は置いていけと言ったはずだ」

「挨拶をするだけです」


 グレアムは廊下を振り返り、声を落とした。


「君は自分から離縁を望んだ。今さら娘を巻き込んで騒がないでくれ」


 テレーズは袋の口を結んだ。

 半月前、夫は財産のある侯爵家の未亡人と会った。以前から寄付の催しで顔を合わせていた相手で、今度は親族が縁談として話を進めているのだという。夫から聞かされた時、テレーズは妻がいることを忘れたのかと尋ねた。

 離縁を持ち出したのは夫だった。

 その後で、娘を連れて暮らせるなら離縁に応じると答えた。その後半だけが消え、彼女は家庭を捨てた妻になっていた。


「離縁には応じます。けれど、リリのことには同意していません」

「あの子を君の叔母の家へ? 部屋はいくつある。使用人は何人だ。母親なら、少しは娘の先を考えてくれ」


 娘の先なら、食事のたび、寝顔を見るたびに考えていた。熱を出した翌日に外へ出していいか、文字を覚えるのが遅いのではないか、このまま爪を噛む癖が続いたらどうするか。

 七歳の娘の将来の縁談まで考えている夫からすれば、どれも小さな心配なのだろう。


「住まいを整えて、改めて話します」

「整うまで、ここで何不自由なく暮らせばいい。娘のためを思うなら、それで困らないはずだ」


 娘は、という主語が抜けていた。

 テレーズがここに残る席は、もう夕食の卓にも用意されていない。


 階段から軽い足音がした。

 リリは戸口で父を見ると歩く速さを落とし、テレーズの袋に目を移した。


「お母さま、お出かけ?」

「しばらく叔母様のお家に行くの」

「わたしは?」


 テレーズは膝をついた。手を伸ばせば頬に触れられる距離なのに、リリは父の脇に立ったままだった。


「今はここにいて。お母さまは、あなたを迎える部屋を用意してくるわ」

「いつ?」


 明日、と答えそうになった。

 明日までにどうにかしなくては。寝台も寝具もなく、叔母への手紙も届いたばかりなのに、そのくらいできなくてどうするのだろう。

 テレーズは唇を結び直した。


「まだ決まっていないの。決まったら知らせるわ。お手紙も書く」


 娘が頷いたので抱き寄せた。胸元へ押しつけられた頬は温かかった。髪から石鹸の匂いがする。今夜は誰が耳の後ろまで拭いてやるのかと思い、抱く腕に力が入った。


「リリ。お母さまを困らせるな」


 夫の声で娘の体が離れた。

 テレーズは娘の手を取りかけたが、リリは両手を背中へ回していた。ここでその手を引けば、夫と娘を引っ張り合うことになる。


「あなたのせいではないのよ」


 リリはまた頷いた。分かった時の頷きではなかった。


 玄関の外には叔母の馬車が待っていた。

 乗り込むと、テレーズは空いている座席を見た。叔母は袋を足元へ置き、その手を取ろうとはせず、まず行き先を御者に伝えた。


「明朝、家事裁定所へ行きましょう。あの人とあなたで決められないなら、あそこへ持っていくしかないわ」


 馬車が動き始めた。

 テレーズはようやく頷いた。自分もまた、分かって頷いたわけではなかった。


 ◇


 叔母の家には、窓の低い部屋があった。

 かつて子供部屋だった二階の一室で、寝台を二つ置くと歩く場所が狭くなる。それでも窓から裏庭の梨の木が見え、洗面台へは踏み台があればリリの手が届きそうだった。

 テレーズは窓の掛け金を試した。子供にも開けられる。下に物を積ませないようにしなければいけない。暖炉の前には柵が要るし、寝台を窓に寄せすぎれば風邪を引く。


「先に座ったらどう」


 叔母に言われ、テレーズは持ち上げていた椅子を下ろした。

 前の晩も眠れなかった。娘が夜中に目を覚ました時、いつものように廊下へ出て、自分の寝室の扉を叩くのではないかと考えていた。


「あちらへ、お手紙を届けたいのです」

「人に頼みました。あなたがここを離れたら、午後の職人と話せなくなるでしょう」


 職人は子供用の寝台を持ってくる。

 娘に会いに行く時間と、娘を迎える支度をする時間が同じ一日の中に収まらない。昨日は裁定所で申立てを書き、その後で屋敷へ寄ったが、リリは休んでいると言われて門から帰された。今日は起きている時間にと思っていた。


「会いたければ来ればいい、と仰ったのに」


 叔母は何か言いかけたが、代わりに机の上の紙を指した。


「その言葉も、昨日門で言われたことも、日付をつけて書いておきなさい」


 紙には家事裁定所の受付印があった。親子の暮らす場所について、両親の話と暮らしぶりを確認する。その間の面会も決める。係の人が説明した内容を、テレーズは昨夜、忘れないうちに書き留めていた。

 それに続けて日付を書いた。夫に言い返す文章なら何度も頭で組み立てたのに、門番から聞いた短い言葉を紙へ移す方が、ずっと苦しかった。


 午後に届いた寝台は、屋敷にあったものより幅が狭かった。

 職人が帰った後、テレーズは自分で縁に腰を掛けた。軋みはしない。リリが寝返りを打って落ちても怪我をしない高さか確かめ、窓を閉め、もう一度開けた。


「それ以上試したら、リリが来る前に傷むわよ」


 叔母に言われて、ようやく笑った。


 翌日、寝具を買いに出た。

 白いものなら洗いやすい。濃い色は汚れが目立たない。けれど娘の好きな黄色い小花の掛け布を見つけると、テレーズはほかの品を見られなくなった。これがあれば、初めての部屋でも喜ぶかもしれない。

 値札を確かめて財布を開く。持ち出せた手元の金から払うと、残りは思ったより薄くなった。

 店員が包む間、テレーズは今夜の仕事を考えていた。

 叔母の知り合いの仕立屋で、縫い上がった服の裾と裏地を始末する仕事を分けてもらった。娘の服を繕うのとは違い、数が揃わなければ代金は出ない。最初に預かった肌着は、同じ幅に折ったつもりの裾が少しずつずれていた。

 縫い直す時間も見込んで、当面は少ない枚数にしてもらっている。


「仕事が増えるまでは、食費を心配しなくていいの」


 帰り道で叔母が言った。


「でも、二人分です」

「二人分で考えています」


 テレーズは抱えた包みを持ち直した。断るための言葉ならいくらでも出てくるのに、ありがとうがなかなか言えなかった。これからどれほど頼るのか、まだ分からないからだ。

 叔母は返事を急かさず、歩く速度を落とした。


 五日目に届いた娘からの手紙は、短かった。

 新しい人形をもらったこと。首が動く馬の玩具ももらったこと。お父さまと昼食を食べたこと。先生が手を添えたらしい宛名の下に、リリの字が並んでいる。

 母へ尋ねる言葉はなかった。

 テレーズは何度も読み返してから、娘が忘れないように、と思っていた自分を恥じた。娘が楽しく暮らしているなら喜ぶべきなのに、自分のいない食卓を想像すると喉が狭くなった。


 返事には梨の木のことを書いた。

 まだ実はないけれど、秋には採れるそうよ。あなたの寝台を窓から少し離して置きました。夜、怖かったらすぐ隣にお母さまがいます。

 最後の一行を書き終えてから、いつそれができるのか分からないことを思い出した。


 面会の日取りが決まったのは、それから二日後だった。

 裁定所の部屋で午後の半刻。娘には付き添いが来る。母が会いたいと届け出た日時と、父が許可した日時は、係が別々に控えていた。

 テレーズは寝台の掛け布を整えた。リリが見るわけでもないのに、角を揃えて折り返す。


「ここへ来たら何をしたい、と聞けばいいでしょうか」


 叔母が顔を上げた。


「まず、元気だった、と聞けばいいのでは」


 テレーズは頷いた。

 それから、元気だった、よく眠れた、何をして遊んだの、と順に口にしてみた。娘と何年も暮らしてきたのに、言い方を間違えたらもう会えなくなるような気がした。


 ◇


 面会室の卓には、木の積み木が置かれていた。

 テレーズがその一つを立てては倒していると、扉が開いた。リリの後ろに家庭教師が立ち、裁定所の係に挨拶をしている。

 娘は新しい服を着ていた。袖口の飾りは可愛らしいが、肘を曲げるたび肌へ当たるらしく、右手でそっと引いている。


「リリ」


 名前を呼ぶと娘が駆けてきた。

 テレーズは椅子から立つ間もなく抱き留め、背中を撫でた。細くなっただろうか。髪はきちんと梳かされている。爪も切ってある。その一つ一つを確かめようとして、抱く力がまた強くなった。


「苦しい」

「ごめんなさい」


 少し緩めると、リリは離れず、母の肩へ額を当てた。

 準備していた言葉が出てこなかった。


「会いたかったわ」


 やっとそれだけ言った。


 家庭教師は室内の端へ下がった。係も書き物を始め、母娘の間に言葉を挟まなかった。

 テレーズは娘を隣へ座らせ、新しい人形のことを聞いた。リリは首の動く玩具の馬も持ってきていた。膝に載せ、耳の間を指で押すと、木の首が上下する。


「お母さまのところには、馬はいる?」

「馬車の馬がいるわ。乗る馬はいないけれど」


 娘は玩具へ目を落とした。


「お父さまは、あそこへ行ったら馬に乗れないって」


 テレーズは返事を急いだ。

 今すぐは無理でも、習わせる方法を探せるかもしれない。屋敷にいた頃は怖がってまだ一度も跨がっていなかったのだから、もう少し大きくなってからでも。

 言いかけて、喉に留めた。


「今は用意できないわ」


 リリは首を振った。


「わたし、まだ乗らなくていい」


 どういう意味の首振りなのか分からなかった。母といるために我慢すると言っているのか、本当に乗りたくないのか。聞き返そうとして、娘が母の顔を窺っているのに気づいた。


「でも、今度乗ったら見てね」

「ええ。見たいわ」


 母が笑うと、娘も笑った。

 その笑い方を知っていた。夫が夕食の席でテレーズを責めた夜、リリはいつもより大きな声で、文字の稽古で褒められた話をした。夫の声が収まり、母が笑うと、娘は安心して匙を取った。

 その時は、明るい子に育ってよかったと思った。


 テレーズは椅子を少し引き、娘の目と同じ高さになった。


「お母さまに言いたいことはある?」


 リリは玩具の馬を撫でた。


「ない」


 テレーズは頷いた。しばらく待っても、娘は同じ所を撫で続けた。

 寝台を用意した。仕事も見つけた。狭い部屋だけれど明るい。食べるものには困らせない。だから、私と来たいでしょう。

 その最後を、どうしても言いたかった。


「あなたは、私と……」


 娘が顔を上げた。答えようとする前に、母の口元を見た。

 テレーズは息を継いだ。


「会えない間、何を話そうと思っていた?」


 言い直した問いに、リリは少し考えた。


「窓の下に、猫が来るの」

「うちの窓?」

「お勉強の部屋。尻尾だけ白い猫。先生は入れちゃ駄目って。でも、こっちを見て鳴くの」


 リリは馬を卓に置いた。

 猫の声を真似して、今度は自分から笑った。庭師が追い払おうとしたら木へ登ったこと、その後は庭師の頭の上にずっといたことを話す。

 テレーズは頷きながら聞いた。娘の爪が手のひらから離れ、指が積み木へ伸びていく。


「これ、木にしていい?」


 長い積み木を立てるので、テレーズが土台を押さえた。リリはその上に小さいものを載せた。猫にしては四角いが、本人は満足そうだった。


「この話、お寝間着に着替えてからしようと思ってた」


 小さい積み木が転がった。

 リリは拾わず、立てた木を見たまま言った。


「でも、お母さま、いないから」


 テレーズは卓の端を握った。

 屋敷の子供部屋にいた時、リリは寝る間際になって急に話し始めた。あと一つだけ、と言いながら、その日に見たことをいくつも並べる。早く眠らせなくてはと思い、続きは明日ね、と何度も答えた。

 あの続きが、まだ寝室に残っている。


「お父さまにもお話しできる?」

「お仕事だから」

「先生には?」

「先生には、お勉強の時に話すの」


 娘は困ったように言った。代わりの相手を探してほしかったわけではないのだと、テレーズはようやく分かった。


「お母さまに聞いてほしかったのね」


 リリが頷いた。

 今度の頷きは、すぐに分かった。


「うん。眠る前に」


 テレーズは手を開いて卓に置いた。娘はその指に触れ、細い傷を見つけた。仕立ての仕事で針を刺した跡だった。


「痛い?」

「もう痛くないわ」

「お父さまが、お母さまは向こうで困ってるって言ってた」


 リリは玩具の馬を母の前へ押した。


「これ、持っていってもいいよ」


 何の役に立つと思ったのかは分からなかった。けれど娘が、母のために何か渡そうとしていることだけは分かった。

 テレーズは馬を娘の方へ戻した。


「ありがとう。でも、それはあなたが遊んで。お母さまには叔母様がついているし、仕事もあるの」

「夜も?」

「夜にする日もあるわ」

「じゃあ、お話、できない?」


 テレーズは娘の顔を見た。十分な部屋や馬を用意できるかばかり考え、一番ほしがっている時間まで仕事で埋めようとしていた。


「ずっとお仕事はしないわ。一緒に暮らせたら、眠る前はあなたのお話を聞きたい」


 娘は母の指をしばらく撫でてから、積み木をもう一度立てた。


 半刻が終わる時、リリは駄々をこねなかった。

 家庭教師に外套を着せてもらい、馬を抱え、戸口から振り返る。


「また来る?」

「来るわ」


 テレーズはその約束だけは迷わず言えた。


 娘が係と先に出た後、家庭教師が短く残った。


「裁定所から、普段の養育について聞かれました。授業の日誌をお出ししています」


 テレーズは頷いた。何が書かれているのか聞きたかったが、その前に先生が続けた。


「お嬢様が夜に眠れなかった日のこともです。今だけではなく、以前からの記録です」

「あの子は、私と暮らしたいと……」


 先生が答える前に、テレーズは自分の手を見た。娘に直接言わせず、今度は先生から聞こうとしていた。


「……いいえ。今日話してくれたことを、大事にします」


 先生は頷いて出ていった。

 テレーズは卓の上の積み木を戻した。最後に小さな四角を持ち上げる時だけ、指が止まった。


 ◇


 審理の日は、面会から八日後だった。

 その間に裁定所の係が叔母の家を訪れ、部屋と台所を見ていった。寝台の幅を測るかと思っていたが、尋ねられたのは誰が朝食を作り、テレーズが仕事で手を離せない時には誰がリリを見られるかということだった。

 叔母は昼過ぎまで留守にする曜日を伝え、テレーズは仕立屋へ納める服を包んで見せた。まだ多くは稼げないことも話した。

 係が帰ってから、正直に言いすぎたのではないかと不安になった。

 屋敷なら何人も使用人がいる。教師も馬車もある。娘が困ることなど一つもないと夫は言うだろう。それに対して自分は、縫い物で手が離せないことがあると答えたのだ。


 審理の前夜、叔母が仕立て物の籠に布を掛けた。


「今夜はもう終わり」

「ここを縫ったら」

「あなた、さっきから同じ所を解いているわ」


 テレーズは針を止めた。

 糸を短く切ってしまうと、手に持っていた布まで軽くなったようだった。叔母へ渡し、娘の掛け布にできた折り目を撫でる。


「明日、連れて帰れなかったら」


 叔母は空の寝台を見た。


「そうなったら、次にどうするかを考えましょう」


 きっと帰れるとは言ってくれなかった。

 テレーズは頷き、寝台の脇から離れた。用意した部屋がどれほど綺麗でも、それだけで娘がここへ来ると決まるわけではなかった。


 翌朝、裁定所の控えの間に着くと、グレアムはすでに待っていた。

 夫の従兄も一緒だった。侯爵家との縁談を仲介した人で、以前は伯爵家の晩餐に招くとテレーズの料理を褒めた。今日は立ち上がりかけ、グレアムが座ったままなのを見て、軽く頭を下げただけだった。


「リリは?」

「先生と奥にいる。君がここで騒がなければ、顔を見せてもいい」


 テレーズは向かいの椅子に座った。叔母が隣へ腰を下ろす。

 グレアムは従兄の手元から書面を取り、卓を越えて差し出した。


「考え直す時間はあっただろう。リリは私の家で暮らす。君には生活に困らないだけの金を出す。娘には、こちらが都合をつける日に会わせる」


 書面を受け取らずにいると、夫はテレーズの前へ置いた。


「こうして皆の手を煩わせなくても済む。院の方々にも、君が落ち着いてくれたと報告できるんだ」

「どのようにお話しなさったのですか」

「妻が家を出て、娘を一人で育てることになったと。それ以上のことは言っていない」


 テレーズは紙の上にある自分の名を見た。

 養育を父に委ねる。面会は父の許可を得る。簡単な文章だった。これに署名すれば、娘に会えなかった日も、そういう約束だったことになるのだろう。


「そのお話は、訂正していただきます」


 グレアムが鼻から息を吐いた。


「なら、戻るか。娘のためにやり直すと言うなら、離縁を考え直してもいい。私にも譲れるところはある」


 従兄が夫の横顔を見た。叔母の指が膝の上で動いたが、どちらも口を挟まなかった。

 テレーズは紙を夫の方へ戻した。

 今この申し出を受ければ、今夜はリリの寝室で猫の話を聞ける。使用人に寝具を戻させれば、明日から前と同じ暮らしになる。自分だけが少し黙っていれば。

 想像の中で、娘が夕食の卓からこちらを見た。

 母の顔を見てから、笑う子だった。


「戻りません」


 夫は椅子に背を預けた。


「では、娘は置いていけ」


 扉の方で小さな音がした。

 リリが家庭教師の前に立っていた。片手に玩具の馬、もう片方に脱いだ手袋を持っている。母を見つけても、駆けては来なかった。

 テレーズは立ち上がった。


「リリ。こちらへいらっしゃい」


 娘が足を動かすと、グレアムも立った。


「リリは先生と向こうで待つんだ。お母さまは帰る話をしている」


 夫が娘の肩へ手を置いた。リリは立ち止まり、母を見た。

 テレーズは手を伸ばさなかった。伸ばしてしまえば、あの小さな体をこちらへ引きたくなる。娘の目が父と母の間を行き来するたび、自分が何を言えば来てくれるか考えてしまう。


「今日も、一人で帰るの?」


 娘が尋ねた。


「まだ決まっていないわ。これからお話しするの」


 リリは手袋を玩具と一緒に胸へ抱えた。それから空いた片手を、母へ伸ばした。

 父の手が肩から滑り落ちる。

 指先が届く前に、テレーズは膝を折った。リリの手は母の手を探り、親指をきゅっと握った。


「お母さまと帰りたい」


 欲しかった言葉だった。

 何度も心の中で娘に言わせ、実際に聞ける日を想像した。その言葉をリリの口から聞いたら、安心して泣けると思っていた。

 けれど娘の手は冷たかった。母を握る力とは反対に、顔は父へ向いていた。


「お父さま、でも、馬は好きなの」


 リリは玩具を持ち上げようとして手袋を落とした。


「嫌いだからじゃないの。わたし、お母さまにまだ――」


 テレーズは落ちた手袋を拾った。

 もっと言えば、夫は分かるだろうか。眠る前にどれだけ母を探したか、この子が自分で話せば。

 娘の指が震えた。


「リリ。もういいの」


 テレーズは手袋を娘の腕へ戻した。


「お母さまには分かったわ」

「でも」

「お父さまへのお話は、お母さまがするから」


 娘は何度か口を開け、それから閉じた。鼻を啜る音がした。

 テレーズは立ち上がり、娘の手を握り直した。こちらが支えれば、リリはそれほど強く指を握らなくてもよかった。


「子供にそんなことを言わせて、恥ずかしくないのか」


 夫の声が降ってきた。

 テレーズは娘の前へ半歩出た。


「私にお話しください。この子に理由を言わせるのはやめてください」

「君が仕向けたんだろう」


 言い返そうとすると、リリが母の袖を引いた。

 娘のそばで言い争いを続ければ、また二人を止めようとするだろう。テレーズは夫から顔を逸らし、家庭教師へ目を向けた。


「先生。話が終わるまで、この子と待っていていただけますか」


 先生はすぐに近づいた。

 テレーズはリリの外套の前を留め直した。ボタンを一つずつ留めるうちに、母の手から離れるのを嫌がっていた娘が、両手で馬を持ち直す。


「お母さまは帰らない?」

「帰らないわ。あの扉の向こうでお話しして、ここへ戻ってくる」


 娘が扉を見て確かめた。

 テレーズはその目が自分へ戻るのを待ち、頷いた。


 ◇


 家事裁定官の卓は、伯爵邸の書斎のものよりずっと小さかった。

 グレアムは座るとすぐ、娘が母の言うことを真に受けていると話し始めた。裁定官は途中まで聞き、控えの間でのことは係から聞くと答えた。


「本日は、お子さんに選ばせるためにお呼びしたのではありません。まず、これまでの暮らしを確かめます」


 家庭教師が呼ばれている間は、裁定所の係がリリと待つことになっていた。テレーズは膝の上で手を組んだ。

 その指にはまだ、娘の爪が当たった感触が残っていた。


 最初に確認されたのは、家庭教師の日誌だった。

 リリが六歳になってからのものが二冊あり、日々の課題の横に短い申し送りがついている。数の稽古、読み書き、刺繍。授業を短くした日には、その理由が書かれていた。


「夜に咳が続き、母親が付き添っていたため、翌朝の授業を一刻遅らせた。この申し送りは、どなたから?」


 呼ばれていた家庭教師が答えた。


「奥様です。朝、薬湯を下げる時にお会いしました。医師から眠っている間は起こさないよう言われたと伺い、授業を変えました」

「夜の付き添いは使用人でもできることです」


 グレアムが口を挟んだ。


「ええ。ここでは、実際にどなたがなさっていたかを聞いています」


 裁定官は次の箇所を指した。

 テレーズは日付を聞いて、その朝を思い出した。咳で娘が吐き、寝間着を替えた。朝方に眠ったので起こさないようにしていたら、朝食に来ないのかと夫から人が遣わされた。

 自分が食べることは忘れていた。


 聞かれた時だけ、覚えていることを答えた。

 家庭教師は、テレーズが授業の後に課題を受け取り、できなかった箇所を夜に一緒に読んでいたと話した。父が呼んだ医師の名も、父が授業料を払ってきたことも確認された。

 医師の名を聞くと、テレーズは夜更けに戻った夫の姿を思い出した。外套も脱がずに娘の額へ手を当てていたこともある。けれど夜明けまで椅子に座り、眠る娘の背を撫でたのは自分だった。


「別居してからは、どうですか」


 家庭教師は日誌を新しい方へ替えた。


「眠そうな日が増えました。問いかけると、廊下の音で目が覚めると言います。授業を早く切り上げた日を、こちらに記しています」


 テレーズは紙から目を上げられなかった。

 寝室の扉の前で母を待つ娘を想像していた。それは想像だけではなかったのかもしれない。

 裁定官に呼ばれ、顔を上げた。


「会いに行った日を確認させてください」


 持ってきた控えを卓へ出した。

 屋敷へ行ったのは二度だった。初めは休んでいると言われ、次は外出中と言われた。帰りを待ちたいと申し出たが、門の中へは入れてもらえなかった。


「仕事を放り出して押しかけられては、娘も落ち着かないでしょう」


 グレアムが言った。


「こちらからの面会の照会には、月に一度とお答えになっていますね」

「生活が落ち着くまでのことです」

「その期間は?」


 夫は答えず、テレーズを見た。

 裁定官の手元には、伯爵家の印が押された返書があった。末尾に、母から娘への手紙は父の確認を経ることと書かれている。


「お母様から出された手紙は、お子さんへ届いていますか」

「娘を混乱させる内容があったので、預かっているものもあります」


 テレーズの手が膝の上で動いた。

 梨の木のこと。秋の実のこと。隣に寝台を置いたこと。


「どのお手紙でしょうか」


 自分の声に夫が顔を向けた。


「寝台を用意したなどと書けば、すぐ来られると思い込む。君は責任も取れない約束をするから」


 テレーズは息を吸った。

 あの手紙は届かなかった。それなら、娘が玩具の馬を差し出した時には、母がどこでどう暮らしているか、父の話しか知らなかったのだ。


「届いていないなら、そう知らせてください。私は返事が来ない理由も分かりませんでした」


 裁定官が書記へ目を向け、やり取りが書き留められた。


 次に叔母の家の話になった。

 係が部屋を確認した記録と、叔母が同居を認める書面が出された。叔母は期限を決めて追い出すつもりはなく、仕事に慣れるまで家の出費も支えると答えた。

 テレーズは仕立屋の受領書を出し、当面見込める代金を伝えた。


「それでは、今までの暮らしは到底できません」


 グレアムは書面に目もやらなかった。


「娘に苦労をさせるために、わざわざ家から出すのですか」


 裁定官はテレーズに向かって、娘が来ればどの時間に仕事をするのか尋ねた。

 面会の翌日、仕立屋と話していた。夜にまとめて仕上げるつもりだった枚数を減らし、仕上げの目安を納期の一日前に置く。急な注文を引き受けすぎない。その分、すぐには収入が増えない。

 それを答えると、グレアムが短く笑った。


「娘を引き取る前から、仕事を減らすのですね」


 テレーズは夫を見た。


「娘の眠る時間には、そばにいられるようにします。昼間の仕事は続けます」


 それだけを答えた。

 豪華な部屋も乗馬の馬も用意できない。その代わりに何でもできると言えば、リリの前と同じことになる。できる時間を数え、叔母に頼むことも決めてきた。それを笑われても、増やして答えるわけにはいかなかった。


 裁定が告げられるまで、いったん控えへ戻った。

 テレーズは娘がいる部屋の扉を叩き、顔を見せた。リリは先生と積み木を並べていたが、母を見ると一つ持ったまま走ってきた。


「お話、終わった?」

「もう少しよ」


 約束通り戻ってきたことを確かめると、娘は先生のところへ帰った。今度は母の外套を掴まなかった。


 再び呼ばれた時、テレーズは椅子の脇へ手を置いてから立った。

 裁定官の最初の言葉を聞き逃さないようにと考えていたのに、リリは母と暮らすのが相当と認める、と聞いた後の言葉が遠くなった。


「テレーズ様。続けてよろしいですか」


 慌てて頷いた。

 父には養育費の負担を命じる。月初めに定額を納め、医療費と家庭教師の授業料も父が負担する。父との面会は隔週の午後、当面は第三者の付き添いを置き、変更には双方の連絡を要する。

 テレーズは一つずつ聞いた。娘を抱き寄せることと同じくらい、聞き落とせないことだった。


「金だけ払い、娘には他人のいる所でしか会えないのですか」


 グレアムの声が大きくなった。


「面会を制限する指示を出し、手紙も止めておられました。今後の面会が滞らないと確かめられれば、方法は見直します」


 裁定官は返書の上へ手を置いた。月に一度という文字の下には、夫の署名があった。

 グレアムは口を閉じ、その書面を見ていた。

 離縁の書面が揃うまでの間も、この同居の裁定を適用すると告げられた。リリは今日、母と帰れる。

 テレーズはその最後をもう一度聞き返した。


「はい。本日からです」


 卓の下で拳を開いた。

 指を伸ばすと、ずっと爪が当たっていた手のひらが痛んだ。


 ◇


 一週間後、離縁の書面を交わすため、テレーズは伯爵邸へ戻った。

 リリは叔母と家にいる。午前中に焼く菓子の型を選ぶのに忙しく、母を見送りながらも、叔母が持っている星の型を気にしていた。

 夕方までには帰ると伝えると、娘は頷いた。

 その顔を思い出しながら、テレーズは応接室の椅子へ座った。


 卓にはすでに離縁の書面が並んでいた。

 私物の引渡し、家庭教師への授業料、最初の面会日。互いの立会人が項目を確かめ、テレーズは自分の署名が要る箇所へ印をつけた。

 子供の居場所が決まれば離縁を遅らせる理由はない、と夫は言っていた。次の縁談を進めるためにも、早く終わらせたいのだろう。

 けれど今日は、夫の従兄が書面を読み終えても帰ろうとしなかった。


「こちらも、本人に伝えておく」


 従兄は一通の手紙を出した。


「侯爵家は縁談を取り下げた。先方の奥方も、もうお会いしないと仰っている」


 グレアムの手が止まった。


「取り下げる? 話が違うだろう。娘を引き取れなかったからか」

「そのことだけではない」


 従兄は封を切った手紙を夫へ渡した。

 グレアムは読み、裏を返し、もう一度表を見た。


「誰が何を吹き込んだ」

「私が、裁定の結果を聞かれて答えた。妻が娘を置いて去ったため、父が一人で養育を引き受ける。お前が私に話した事情とは違っていたからな」

「出ていったことに変わりはない」


 テレーズの隣で叔母が体を起こした。

 従兄が先に口を開いた。


「お前自身、控えの間で妻を呼び戻そうとしただろう。離縁を考え直すと、私の目の前で言った。こちらには先方との縁談を進めさせておいて」


 グレアムが手紙を卓へ置いた。


「あれは娘のために言ったんだ」

「先方にも、そういう時だけ待たされる妻になれと頼むのか」


 夫はテレーズを見た。

 何か言えば、この場の話を変えられると思ったのかもしれない。妻が大げさに言ったことにすれば、伯爵家の内輪の揉め事で済む。これまでは親戚の集まる席で夫が困ると、テレーズがそうしていた。

 彼女は離縁の書面へ目を戻した。


「荷物は本日受け取れるのですね」


 立会人が頷いた。

 従兄は手紙を夫の前へ残し、仲介の話はこれで終わりだと言った。夫はもう一度会って説明したいと求めたが、返ってきたのは、先方が望んでいないという同じ返事だった。


 テレーズは署名した。

 グレアムもやがてペンを取った。名前を書く手には指輪が残っている。彼女の手にはもうなかった。

 立会人が日付を入れ、書面を分けた。互いの署名と、養育についての裁定を添えた控えを受け取る。妻としてこの家へ来る用は、これで終わった。


「リリは、どうしている」


 席を立ったところで、グレアムが言った。


「よく眠っています。今日は叔母と菓子を焼いています」

「私のことは?」


 テレーズは鞄の留め金を閉じた。

 娘に同じことを聞きたくなった自分を思い出した。母のいない家で、母を恋しがっていてほしかった。


「日曜の面会には、予定通りお連れします」


 そう答えると、グレアムは手紙の方へ目を落とした。

 テレーズは鞄を持ち、立会人へ頼んでおいた裁定書の写しも受け取った。慈善院には、自分から事情を伝えて訂正を求めるつもりだった。娘の父親の顔を立てるために、娘を捨てた母親のままでいることはできなかった。


 ◇


 屋敷から届いた荷物の中に、娘の革靴があった。

 留め金はまだ緩いままで、挟んだ紙も残っている。テレーズは道具を出し、娘の足に合わせて革を押さえた。リリは寝台に座って足をぶらぶらさせていたが、母が留め金に触れる時だけ、言われる前に止めた。


「これ、履いて出られる?」

「もう少しで直るわ」

「お庭に行きたい。叔母様が、梨の下に穴を掘ってもいいって」

「何を埋めるの?」

「お菓子の種」


 テレーズが顔を上げると、娘は片方の頬を膨らませた。


「本当の種じゃないの。遊びなの」

「分かっているわ」


 笑うと、リリも笑った。

 母の顔を確かめるための笑い方ではなかった。


 机の上には慈善院からの封書が置いてあった。

 母子の面会を支援する院の役員として、今度の件の説明を求めたこと。グレアムから辞任の申し出があり、受理したこと。院の関係者に伝えていた「母親が娘の養育を放棄した」という説明は訂正したこと。書かれているのはそれだけだった。

 テレーズは朝、叔母と一緒に読み、娘の前ではしまっておくことにした。靴を履かせ終えたら机を片づけようと思う。


 リリが足を下ろした。部屋の端まで歩き、留め金を自分で外せるか試す。


「お母さま。お庭の前に、お話していい?」

「何?」


 娘は寝台の掛け布を引っ張った。


「これ、黄色じゃない方がいい」


 テレーズは手に持った道具を置いた。

 店先で選んだ時のことを思い出した。値札を見て、それでもこれなら喜ぶと思った。初めて部屋を見た時、娘は綺麗だと言ったのだった。


「黄色、好きではなかった?」

「小さい時は好きだった」


 七歳の子が小さい時と言うのがおかしくて、テレーズは笑いそうになった。けれど娘が真剣な顔で待っていたので、何とかこらえた。


「今は何色がいいの?」

「緑。草みたいな色」


 すぐに替えてやりたかった。明日もう一度店へ行けば、端切れが見つかるかもしれない。仕事の合間に縫い合わせれば、今週のうちには。

 そう考えて、膝にある自分の手を見た。傷のある指先には薄い布を巻いている。


「すぐには買い替えられないわ。今度、布を見に行く時は、一緒に選びましょう」


 リリは掛け布の端を離した。


「怒ってない?」

「怒っていないわ」

「だって、お母さまが選んだのに」


 テレーズは黄色い小花を撫でた。


「ええ。好きだと思って選んだの。違ったのね」


 それだけ言うと、娘はもう一度寝台を見てから、木の馬を拾った。馬のためなら黄色い布でもいいらしい。枕の横へ寝かせ、手巾を掛ける。

 テレーズは道具を片づけ、封書を引き出しへしまった。

 娘が戸口で待っている。


「お庭、行こう」


 テレーズは立ちかけた。けれど腰が重く、肩から首まで固く張っていた。娘と離れてから、座っていても次にすることばかり考えていた。今日は荷物をほどき、靴を直し、昼食の皿を片づけた。その後にも、まだ仕事はある。


「少し休んでからでもいい?」


 リリの手が戸口から離れた。


「じゃあ、行かない」

「行くわ。お母さまも梨の木を見たいの。ただ、少し座っていたい」


 娘は部屋を見回し、寝台へ戻った。馬を起こし、手巾を丸めて飼い葉にする。


「じゃあ、今はこっちで遊ぶ」


 テレーズは椅子へ座り直した。

 窓から入った風が、リリの髪を揺らす。日曜に父へ会う時の服も用意しなければいけない。先生に次の授業の時間を確かめ、仕事の納め先へ返事も出す。考え始めると、幾つも思い浮かんだ。

 娘が馬に何か言い聞かせている。母を起こさないように声を潜めるでもなく、いつもの声で。

 テレーズは目を閉じずにそれを眺め、背もたれへゆっくり体を預けた。

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