五話
ランガーはおずおずとマーリスの部屋に入った。友人だった為、入ること自体初めてではなかったが、マーリスはまだ怒っているのではと思うと気が気ではなかった。マーリスはランガーを側の椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けたまま、言葉を探していた。いざ入ってきてもらうと、何を言えばいいのか分からなくなった。
「…実験のことだけど…やるやらないにしろ、口外法度でお願いしたい。他の研究員に知られたくないんだ」
「…それは構わんけど」
マーリスはランガーを見遣った。中性的で整ったランガーの横顔には憂いがあった。
ここの所研究に力を入れてろくな睡眠もとってないことを聞いていたし、マーリスは次第に不安になった。母の体より、細くて弱そうなこの体はいつまでも元気にこうしていられるのか心配になる。
視線に気づいたのかランガーがくすぐったそうに笑った。
「何だい?」
「あ、いや…。顔色悪いで…ちゃんと休息もせな…」
「ああ、有難う」
マーリスは覚悟を決めて、尋ねた。
「なあ、どうしてあいつがこの研究に加担してんねや」
「彼は確か君とは六つ離れていたね…彼はあれでいて優秀な研修医で…この研究には君のお母さんに手伝ってもらおうと思っていたから、不備がないように頼んだんだ」
「研修医…、医者の卵なんかで大丈夫なんか?」
「恐らく。彼の腕は確かでね、研修期間が終える頃に誘われている病院があるらしい」
「ふーん…」
マーリスは冷たいダリウスの表情を思い浮かべた。確かに彼が医者だというのならイメージぴったりの仕事に違いない。腕がいいとは信じがたいが、頭が堅そうなのは見ただけで分かるほどだとマーリスは思った。
「しかしこのコアを使った研究、実はダリウスが反対しててね」
「反対?」
「リスクがあるんじゃないかって言うんだけど…今のところ死んだモルモットの健康状態に異常はない。彼は新しいお母さんを心配しているのかもしれないね」
「…その言い方はやめろ。あいつの母親なんかやあらへん」
「…すまない」
マーリスはため息をついてそれ以後は口を出さなかった。重苦しい空気を変えようと、ランガーは話題を切り替えた。
「そういえば、この人形新しいものだね。僕との約束覚えていてくれていたのか」
作業机に無造作に置かれた人形のパーツに、ランガーは感心したように声を上げた。
マーリスはやや机に視線を遣って、照れくさそうに返した。
「あ、ああ。まだそれは試作品やけどな」
「でもすごいと思うよ。この滑らかな皮膚は一体なんだ?」
「家畜、特に猫のものを使っとる。死んだ野良猫や、飼い猫の皮をたまに頂いてるんや」
ランガーはパーツにそっと手のひらを寄せて猫の皮が張られた人形を撫でた。確かに今まで陶器で造られていたものよりはずっと人間らしく、丈夫であった。ランガーはしばらくその感触を楽しみ、マーリスに返る。
「素晴らしい出来だ。完成を楽しみにしているよ」
「ああ、出来たら一番にもっていくで」
ランガーは満足げに頷いて、床に置いていたコートを手に取った。
「じゃあ、また連絡する。君の母さんの容態が悪くなったら言ってくれ。」
「分かった」
「それから、どうするか考えておいてくれないか。確かに僕は君の母さんを実験台にしようとしていた。それが許せて僕を信用するというのならば、僕を頼ってくれて構わない」
「………。」
「…それじゃあ」
ランガーはドアノブを引き、部屋を出た。マーリスは何か言わなければと思ったが、既に遅く。
見えなくなったランガーへ、
「俺こそすまんかった」
と密やかに呟いた。
それから数カ月後、学校から帰宅したマーリスは、家の前に山ほど詰まれた荷物を見上げて、嫌な予感を感じていた。業者らしい男達が荷物を次々とマーリスの自宅に運び入れている。
マーリスはその内の通り過ぎた一人の業者に声を掛けた。
「あの、今ソルワット邸に入っていったには誰の荷物ですか?ここの家の者なんですが…」
「あ、えっとー…ターナーさんのお宅から届いた荷物ですね。」
「…そう、ですか。ありがとうございます」
「いえ!どうも!」
爽やかに去っていった男の背中を見つめて、マーリスは大きく項垂れる。ついにターナー家とソルワット家は同居という形をとったらしく、またしても何も聞かされていなかったマーリスは言い知れぬ怒りがこみ上げてくるのを抑えられずにいた。
「母さん!」
マーリスの母は、その引越しの手伝いをしていたのか、大きなお腹で素早く歩いてくると、マーリスの姿を見つけて笑顔になった。一方のマーリスは苛立ったように鞄をリビングに投げつけて、階段から自分を見下ろす母親を睨んだ。
「何やのこれ!聞いてへんよ!」
「ふふ、ごめんなさい、びっくりさせたくて」
「確かにびっくりはさせられたけど、こんな大事なことは言わんとあかんて言うたやろ!」
「そうね、でもこれからは家族が増えるわ、きっと楽しいわよ?」
何食わぬ顔で微笑む母をうんざりと見上げて、マーリスはつい、激昂して側にあったターナー家の荷物を振り払った。業者が高く積んでいったその荷物たちは呆気なく重力に従って落ちていった。
「…いい加減にしてや…いつも嫌な思いするんは俺だけや…」
「ま、マーリス、どうし…」
マーリスが本気で怒っていることにようやく気づいた母は、驚いて階段に足をかけて降りようと身を乗り出した。マーリスは背を向け、自室に戻ろうとした瞬間、予期せぬ物音に素早く振り返った。
「母さん…!」
階段下、ピクリともしない母親に青ざめたマーリスはすぐさま駆けつけ顔面蒼白となって母を呼んだ。
しかし返事はなく、苦しげに歪められた母の表情を見つめ、マーリスは頭が白くなっていき、思わず流れ出た涙をそのままに母親を揺さ振った。
「母さん!しっかりしてくれ!母さん!」
その手はまだ顔も見ぬわが子を守るように腹へと添えらていた。