四話
マーリスはランガーに別れを告げ、研究室から出て扉を開いた。ふと、扉の前に遮るように誰かが佇んでいるのに気がついたマーリスは、少し顔を上げて見上げた人物に目を丸くした。
そんなマーリスにお構いなしに研究室へと側をすり抜けて通っていった人物―ダリウスは声を掛けられて足を止めた。
「ぬ、盗み聞きしとったな?」
「…何のことだい?」
ダリウスは振り返らない。マーリスは一気に頭に血がのぼっていくのを感じた。そして歯止めが効かない怒りの感情は力任せにダリウスの右手を握り、無理やりにでもこちらを振り向かせようと自分側に引き寄せた。ダリウスは大人しく彼の表情を眺めるように振り返る。
「お前、俺を尾行しとったな?そんなに俺が目障りなんか?」
ダリウスは言葉を選んでいた。どの道なんと言おうが目障りだと思っているのはマーリスで、怒りの先に傷ついて悲しむのもマーリスだった。ダリウスはなるべくいい兄弟として過ごしたかった想いがあったため、中々言い出せずにいたが、それを仲介するように研究室で傍観していたランガーが声を上げた。
「ダリウスは僕が呼んだのさ」
「ランガー!?なんでや…」
「彼はこの研究に加担してくれている、唯一の協力者なんだ。」
「なっ…」
マーリスは言葉を失った。母を健康にして、彼女に元気を出してもらいたい。そしてこの結婚が間違いだったと気づいて欲しいと思ってランガーの提案に乗っている。それなのにも関わらず、この研究をダリウスが手伝っていたなんておかしな話で、鋭く勘付いたマーリスはぱくぱくと口を動かしてようやくランガーの顔を見つめて問うた。
「…母さんは…お前の実験台にされようとしとんのか…?」
ランガーは答えない。
マーリスはショックのあまり言葉が出なかった。ではこれまで励ましだと思っていたものは全て自分を円滑に操る為の言葉だったのか。そう理解すると、マーリスはふらりと後退して弱弱しく呟いた。
「お前は…最低だ…」
「マーリス!」
マーリスは研究室を飛び出して帰路を走った。涙が出てくるのを必死に服で拭いながら、走り続けて、マーリスは小石につまづいて転んでしまう。手のひらに大きな擦り傷を作ったマーリスは倒れたまま動けなくなった。友人はこの自分を利用しようとした。そしてまんまと騙されていた自分が激しく許せず、マーリスは地面を叩きつけて大きく叫んだ。悲しいのか、悔しいのか、それすらよく分からずに。
マーリスは帰宅して、母がいないことに気がついた。部屋には母の手紙があり、病院に行ってくるという簡潔な内容だった。マーリスはベッドに倒れこんで、泥だらけの靴と靴下を投げてそのまま目を閉じた。なんだか疲れて動けない。このまま眠ろうかと思っていると、部屋がノックされてマーリスは目を開けた。
「マーリスサマ、オキャクサマデス」
マーリスは体を起こした。客?一体誰が?そう思っているとドア越しに聞き慣れた声がして、マーリスは体を強張らせた。
「先ほどは…すまなかった」
「………!」
「弁解するつもりもない。僕は君の母さんを実験台にしようとしていた。君の良心を利用してね」
マーリスは暫く黙っていることにした。それは声を掛けているランガーも分かっているのか、
返事を待たずに言葉は続いた。
「でも、君の母さんを助けられるかもしれないのは僕だけだということも頭の隅に置いておいてくれないか。それだけだ」
「…一つ、聞きたい」
「…なんだ?」
「なんでダリウスが実験に参加しとんのか、聞きたい」
「…彼は君と六つ離れているが、優秀な研修医なんだ。この実験で不備があった場合対処してもらえるように頼んだ。そして、彼のお母さんにもなるからね」
「…ランガーは、俺のこと分かっとると思うてた…違うんか?」
ランガーは少し間を置いて、静かに答えた。コトリ、と小さな音がしたので
額をドアにつけたのだと何となく推測できた。
「じゃあ、マーリスは僕のことが分かるかい?」
「………。」
「分かり合うことが全てじゃないだろう。言葉を持って生まれたのだから、鈍い僕には言葉で教えてくれないか、マーリス」
マーリスは幼かった自分の行動と言動に、突然恥ずかしくなって枕に突っ伏した。そしてとても小さな声で、
「…入れよ…まだ話したいことがあるんだ…」
とランガーに宛てた。