三話
マーリスはまだ胸の中に渦巻く感情から逃れられずにいた。突然母に恋人がいたことを知らされて、しかも男に年上の息子がいる。それだけではなく、母には男との間に新しい命を授かっているとも聞かされた。
あまりに沢山の事が知らされ、マーリスは頭の整理がつかない。落ち着こうと水を取りにキッチンへ向かうと、マーリスの母は少しまどろみながら編み物をしていた。マーリスに気づいたのか、手を止めて笑顔を向けた。
「あっ、おかえりなさい。ごめんなさいね…急に話したものだから、きっと不安になったのね。でも今度は挨拶しなきゃだめよ」
マーリスはその母の姿が酷く、消えてしまいそうに儚く思えた。そして、ランガーが協力してくれると言った事を思い出して、自分が母を守ろうと強く誓った。
マーリスはコップを置いて、母を後ろから抱きしめた。
「安心してな…もう、大丈夫やから」
「そう、それなら良かったわ」
マーリスはこの時、この全ての事が後に自身の、そして世界までも巻き込むような運命を持っているとは到底思ってもみなかった。ただ病気の母を救って幸せに過ごしたいという、ごく普通の望みが、歯車を狂わせているとも知らずに…。
翌日、マーリスは学校を休んでランガーの研究所を訪ねた。学費を母に出してもらっているので、なんだか申し訳なさがあったが、ランガーが昨日の別れ際、どうしても見せたいものがあると言ってきたので、大人しく従った。自転車を研究室の脇に置き、窓からランガーの部屋を覗いた。
しかしランガーの姿がない。マーリスは暫く窓から様子を伺ったが、帰って来る様子も無いので室内に入ることにした。
廊下を少し歩いた所で、マーリスはランガーの姿を見かけて声を掛けた。
「ランガー!」
ランガーは両手を突っ込んだままの白衣から片手を出してそれに答えた。マーリスが近くまで寄っていくと、ランガーはそれに合わせて無言で歩き出した。
「実は、君にして欲しいことがある」
「して欲しいこと?なんや、大げさやなあ…」
「ああ、大げさだ。」
ランガーはポケットから束になった鍵を取り出してその中の一つを鍵穴に差し込んでドアを開いた。黴の臭いと、湿気を纏った生ぬるい風が鼻を刺激した。
「まず、これを見て欲しい」
ランガーは側にあった幕のかかったケースを見せた。中には普通のモルモットが二匹鼻をひくひくと動かしてこちらを愛らしい瞳で見つめていた。マーリスは眉根を寄せてそれを見つめ、もう一度ランガーの顔を見遣った。
「これがなんやっていうの?」
「実はこの二匹は、ある実験に使われて二日前に死んでしまったんだ」
「な、何を阿呆な…」
「これが二日前撮られた写真だ」
マーリスはモルモットの写真を食い入るように見つめた。特徴やまだらな模様が良く似ているが、確かに死んでいる。口から泡を吐いて、片方のモルモットはひっくり返っていた。
ランガーは驚くマーリスの顔を見て薄く笑い、胸元から一つの球体を取り出して見せた。
「これは、僕が研究し、発明した哺乳類の生命能力を飛躍的に向上させる物。このモルモットが装着している。名前はコアだ」
「せいめい…のうりょく?なんやそれ」
「例えば、君の学校に君より足の速い子供と、そうでない子供がいて、このコアを鈍足の子供に装着させるとする。そうすると身体能力が跳ね上がり、その足の速い子供に追いつくどころかプロの選手だってなれる速さになる。そういう物だ」
「ほ、ホンマにそんなモンが…?じゃ、じゃあもしかして母さんも?!」
ランガーは薄く笑って、頷いた。そしてその真紅の球体をマーリスに渡した。
「君、前に機械人形を作ったろう?言葉が下手くそな」
「初期号のことか?ああ、まだ改良中やけど」
「これは哺乳類でしか試したことがないんだ、もしかしたら役に立つかもしれない。今度新しい人形を作ってくれないか?」
「構わんけど…役に立つんか、それ…」
「君の機械人形同様、試験中だ。まだ人間には使えない」
「そう、か」
ランガーは力強くマーリスの肩を叩く。マーリスが浮かない顔でランガーを見上げると、ランガーはニッと珍しく笑顔でマーリスを励ます。
「大丈夫、きっとこの研究で君の母さんは助かるよ。安心するんだ」
「ランガー…」
マーリスは手のひらで鈍い光を放ったコアを転がした。この小さな球体が、自分の母の新しい命となってくれるはず。そう願ってマーリスはランガーに頷いてみせるのだった。