二話
「それは君の母親がもうすぐ死んでしまうからさ」
ランガーの研究室に、逃亡者よろしく逃げ込んだマーリスは、事情を話した先突き付けられた言葉に些か戸惑った。素直、それでいて鋭利なその言葉は真っ直ぐマーリスの胸をえぐり、しばらくは反論ができないほどだった。マーリスは少し視線を落とし、ランガーの靴先を見つめた。
「どういうことや?」
「つまり、君が一人にならないよう、わざと息子がいる男を選んだんだろう。多分死んだ後君の生活援助をお願いしての婚約さ」
「俺は…こんなこと望んでへんよ…」
「それは母親に言うべきだろうね」
ランガーは再び作業に戻ってマーリスに背を向けた。ドライな彼の反応には慣れていたが、今日という日には若干堪えるものがあり、マーリスはランガーの白衣を掴んでなんとか彼の気を引こうとした。
「ランガー、お前、お前の研究で…母さんは助けられへんのか?」
ランガーは少し手を止めて、大きな瞳でしっかりマーリスを見つめ返した。
どんな罵倒や冷ややかな言葉が返ってくるかと思えば、ランガーが返したのは意外な一言だった。
「実は僕もそれを考えていた。そのために、君の力を貸してくれ」
マーリスは少し驚いてランガーを見上げる。ランガーは普段どおり無表情だったが、藁にもすがる気持ちであったマーリスには神にも等しく思えた。そんな友人を強く抱きしめて、マーリスは何度も礼を繰り返す。
「ホンマに、ありがとう…、俺、出来る限りのこと手伝うから言うてや…!」
「…じゃあ、マーリスに早速お願いがあるんだ」
マーリスが喜ぶ傍ら、ランガーは冷ややかな目をそっとマーリスに向けて、ほんの僅かに口角を上げるのだった。
それから、マーリスは帰宅し、進まない足取りで母屋に着いた。母は嘆いて、顔を合わせてくれないかもしれない。まだ、あの二人はいるだろうか。様々なことを考えて、正面玄関で足踏みをしていたマーリスは、不意に声を掛けられて顔をすばやく上げた。
「そんな所で立ってないで、入ったら?君の家…だろう?」
家のテラスの入り口に背中を預けて立っていたのは、義兄となるターナー家長男、ダリウスだった。
ダリウスはテラスからマーリスの姿を見つけて声を掛けたのか、そっとテラスの階段から降りると、マーリスの正面まで歩き出した。マーリスは思わず体を硬直させてその様子を見つめた。
「それとも入りにくい?心配しないで、父さんはもう仕事に出かけたから」
澄ました顔でそうマーリスに語りかけるダリウスを、マーリスは忌々しく思った。
土足でソルワット家に介入してきたこの親子を、マーリスはなんとしても追い出してやろうと力んでいた。ややダリウスを睨みつけながら、マーリスは静かに返した。
「…別に。今入ろうと思ってたんや。」
マーリスはわざと肩をぶつけると、その側を過ぎ去る。ドアを開いて閉じようとした瞬間、ダリウスが思い出したように声を掛けた。
「あ、ねえ」
「…なんや」
「君のお母さん、お腹に僕のお父さんの子供がいるんだ」
マーリスは足を止めてダリウスに振り返った。ダリウスは少し微笑んで、ゆっくりと繰り返す。
「僕達に、弟ができるんだって」
「嘘…やろ?」
マーリスは突然告げられた更なる真実、絶望的な母親とあの男の関係に口を開けたまま立ち尽くす。
それでは、母親がたとえ元気になってくれようとも、決して親子になるという事実は変わらず、新しい兄弟が増えるなど、受け入れがたいことであった。
マーリスは思わずダリウスの側まで走っていくと、彼の肩を揺さ振って確かめる。
「嘘…や…母さんは体が弱い、もし弟なんかできたら…」
ダリウスは静かにマーリスの手を振りほどいて、淡々とした口調で言いよどんだマーリスの言葉を続けた。
「出産したら、死んでしまうかもしれないね」
そうしれっとした顔で言いのけた。本日二回目の、躊躇い無い鋭い言葉だった。