四話
「ウィーゲル、おい、返事をしろ!」
辺りは、先ほどまでは無かった濃霧に包まれていた。門前で待機していたはずの新兵、リックを捜して歩き回っていたロイルは、その視界の悪さに捜索を阻まれていた。
霧の中、無闇に歩くのは戦場であるこの場所では死を連想させたが、それも仕方のないこと。
ロイルの捜索の打ち切りは、方向音痴のリックの死を招く。
しばらく歩いた所で、ロイルは再びあのモニュメントがある場所まで来たことに気づいて足を止めた。
「ウィーゲル!」
返事は無かった。
先ほどまで、いやに静かだったイヴンの町は、霧の発生とともに
何かがざわめいているように思える。
それは明確な音ではなく、心理状態を不安にさせるような得体の知れないなにかだった。
ロイルはふと、足元に何かが光っているのに気づいて、しゃがみこんだ。
拾い上げると、それは支給される見習い兵士の制服のボタンだった。
メッキが少しはげたその安っぽいボタンを握り、ロイルは言い知れない不安を抱えた。
「これは…、陸軍の紋章…」
陸はライオン。雄雄しいその姿が刻まれたボタンをポケットにしまい、ロイルは再び走り出した。
リックは、鈍い痛みを覚えて体をゆっくり起こした。
全身を襲う倦怠感は、自分がどこにいるのかという感覚を麻痺させていたが、
次第に冴えてきた頭が、急速に身の危険を知らせていた。
リックは慌てて立ち上がろうとしたが、どうやら両手を拘束されていいるようで
上手く身動きが取れなかった。
部屋は薄暗い。リック以外の人間の気配は感じなかったが、荒れ果てた室内は牢獄のようだった。
柵格子が目の前に広がり、申し訳なさそうに小さな便器が崩れて側に転がっている。
強い嘔吐感に苛まれたリックはその場に身を屈めて吐瀉してしまった。
「…ここは一体何処なんだ…?」
ふと、格子の向こうから小さく会話が漏れていた。
リックはすぐさま自分を連れ去った男の声だと気づき、息を殺して会話に耳を澄ました。
「それじゃあお前は、何も見てないんだな」
相手の返事はない。
恐らくは返事をしているのだろうが、リックの耳には聞き取れなかった。
「仕方ない。様子を見るんだ。お前はあの男を監視しているんだ、いいな」
しばらくして、階段から誰かが降りてくる足音が聞こえ、リックは咄嗟に
気絶したままのふりをして背中を向けた。
じっとしていると格子が開く音が聞こえ、背中に何者かの気配を感じた。
どうやら先ほど、リックが吐いてしまったものを淡々と片付けているようだった。
リックは思い切って声を掛けた。
「あ、あのっ」
背中を向けていたため、表情などは分からなかったが、驚いたらしく
たわしを落とす音が微かに響いた。
「俺、ただあこに居ただけなんだ。なあ、帰してくれないか。あんた達には何もしない」
返事は無い。
作業を再開したらしく、床をこするたわしの音が再び響いた。
リックは会話を止め、どんな人物がいるのか確かめようと顔を逸らすと、
それに気づいたのか、バケツを持ち上げ背後の人物は足早に牢獄から出て行ってしまった。
辛うじて見えた小さな背中をぼんやり見つめて、リックは綺麗になった床に視線を落とした。
「…子供…?」