六話
すごい雨だった。素肌に当たれば痛いほどの強い雨が降りしきる中、アタシは姉さんの言いつけを無視してマーリス様の研究室から抜け出した。一番上の姉が死んだと聞かされて、融通の利かない子供だったアタシは、自分の目で確かめるために走った。信じたくなかった。どんなに辛い環境でも笑顔を絶やさなかったあの姉が、ジュリア姉さんが死んだなんて信じたくなかった。
何故だか体が物凄く重くて、走る速度を上げるたびに足が鉛のように重い。
もう走れない、体がぐらついて倒れかけた時、私の視界に真っ白な傘が差し出されて細い腕が、私を抱きとめた。
意識が朦朧とする中、私を呼びかける声が耳に届いた。
「大丈夫ですか?!しっかりして下さい!」
高いテノール。ふんわりとアタシの頬を金色の髪が垂れかかって撫でてゆく。
とても綺麗なその顔を見て、アタシは思わず呟いた。
「きれい…天使みたい」
そしてアタシはすっかり意識をなくしてしまった。
しっかりと意識が戻ったのは次の日だった。
いつの間にかソルワット邸で横たわっていたアタシは、心配そうにアタシの顔を見つめる姉さんを
ぼんやりと見つめ返した。今にも泣き出しそうな顔でくしゃりと顔をゆがめてアタシを抱きしめる。
「無事でよかった…」
「姉さん…ごめんなさい…」
「トレストゥーヴェまでいなくなったら…僕は…」
姉さんは、マーリス様と暮らすようになってから何故か男の子らしく振舞うようになった。
上品だった喋り方はすっかり少年のそれとなり、一人称も僕だというようになった。
アタシは別に気にも留めなかったし、そのほうが妙にしっくりきた。
「そういえばアタシ、男の子に助けられたの…お礼が言いたい」
「男の子?」
「金髪で…、きれいな子…アタシと同じぐらいの年で…」
「ああ、その子は僕の弟やよ」
少し驚いたけれど、先ほどから室内に居たらしく、マーリス様はにっこり微笑んでベッドの側までやってきた。
「彼はメルディスっちゅうてな、父親が違う僕の大事な弟なんやで」
「お父さんが…」
「そ。メルディスの父ちゃんは格式の高いいい身分でな、僕とは一緒に住めへんのや」
マーリス様は肩をすくめた。母親は同じだというのにそんなしがらみで弟と暮らせないのは不憫に思われた。アタシは掛ける言葉が見つからなくて、しばらく黙っていたけれど、どうしてもお礼が言いたくて話を切り出した。
「アタシ、お礼が言いたくて…会えませんか、マーリス様」
「ええけど…僕嫌われてるみたいやし…母さんはもうおらへんし…困ったなあ」
「トレストゥーヴェ、あまり我が儘を言って先生を困らせてはいけないよ」
「せやけど、頼んではみる…暫く待っててや。君を運んだってことはメルディス、母家におるかもしれんし」
マーリス様は持っていた自分のコート羽織って背中を向けた。なんだか申し訳なくなって断ろうかとも思ったけれど、中々逢えない弟に逢いたがっているのはマーリス様の方かもしれない。そう思って伸ばした手を引っ込めた。
マーリス様は笑顔で振り返り、手を振った。
「外は悪天候です、僕もついて行きます」
「いや、イナーシャはトレストゥーヴェについててあげてぇな。すぐ戻るわ」
姉さんは心配そうに玄関先までついて行って、室内はまた静寂が訪れた。
窓をこつこつと叩くように雨が伝ってゆく。激しい雷鳴と共に、室内のランプの炎がゆらりと不安定に揺れていた。