五話
ずっと昔、今はもうおぼろげで完全には覚えていないけれど、お姉ちゃんが働くまで、私たちはとても貧しい生活をしていた。両親が妙な宗教にはまりだしてから、家は一層悪くなって、両親は共に自殺をして私たちを置いて行った。私は両親を憎んだ。こんなことなら殴ってだって目を覚まさせたのに、置いていくならあんな宗教に全てつぎ込むくらいなら遺産でも残してくれたらよかったのに。
そうして私たちは、住むところを無くして、食べるものがなくて、もう死ぬのかもしれないというところまで追いやられて、あの男と出会った。
「…お前達のような人間の端くれにいい道を教えてやる」
「あなたは、誰?」
救われた、そう思ったのはその瞬間だけだった。
「お姉ちゃんが軍の研究員に?」
その男の名前を、セイラン・リーと言った。
東洋人にしては流暢な言葉を使う男で、禿げ上がった頭が印象的の初老の男。
私はあの男が生理的に嫌いだったが、私の妹は随分と懐いていた。
ただ冷酷で、私たちに物を与えてくれるだけの存在を、私は信じない。
だけれども運命は順調に、私たちを狂わせていた。
「うん、セイランがお姉ちゃんの腕を買って医療品研究の研究員に抜擢してくれたんだって」
「…でも、お姉ちゃんまだ若いし、それに独学だったお姉ちゃんがそんなすごい所で大丈夫かな」
「大丈夫だよ、私たちのお姉ちゃんだもの!」
妹は楽観的だった。セイランにも懐いていたから疑うことを知らなかった。
ある日、とても疲れた様子で帰宅した姉。私が、どうしたのか尋ねても頑なにその理由を答えなかった。しかし、その日の夜、セイランが私たちの家にやってきた時、私は耳を疑う事実を知った。
妹はまだ幼い。私と五歳離れた妹はまだ文字を覚えたばかりの子供で、そういう私も勿論子供だった。
夜は日が落ちて間もなく就寝して、セイランがお金の工面をした学校に通う。
学校なんて随分前に行かなくなっていて、そのときだけは私も喜んだ。
夜中、トイレに目が覚めて行った私は、リビングの明かりに近づいてそっと近づいた。
隙間をそっと覗き込むと、苛立った様子のセイランが室内を歩き回っていた。
「一体、誰がここまでしてやったと思っている、貴様の愚妹達が学校に通えるのは誰の金でだ?」
私は息を飲んだ。姉は静かに答えた。
「ですが、私たちにはその莫大な資金を返すアテがありません…私たちにどうしろというのですか」
「数日後、ある重要な実験がある」
「重要な…実験?」
「生と死、人間という定義を超えた崇高なる実験だ…」
セイランは姉の前で足を止めて、冷ややかな声で告げた。
「その実験に、協力して欲しい、お前ら全員が」
「それは…被験体になれと…いうことですか?!」
「いい方法だ、死にはしない」
セイランはソファーに座っていた姉を無理やり立たせて、胸元を引っ張った。
「ただ、人間でいられるか、定かではなくなるだけだ」
ぷつん、とボタンがはじけ飛んで、私は思わず悲鳴みたいな声を上げた。
しまった。そう思う頃にはもう遅く、しっかり私を見据えたセイランが駆け足で私に近寄ってきた。
姉がなんとか制止しようと手をの伸ばしていたけれど、結局セイランは私を見下ろして、
唾を吐くような汚らしい声で私を罵った。
「覗き見とはいいご身分だな、卑しいガキが…」
そして、私の意識は途切れた。
姉が悲痛に、助けを求める声をあげていたけれど、私はその後何があったか知らない。
でも、二階で眠る妹だけが、気がかりだった。
「君、具合どう?」
目が覚めたとき、私は知らない天井を見上げて、知らない若い男の人を見つめた。
男は私が無事そうなのを確認して安堵の息をついている。一体誰なのか
「良かったわあ~、もう死んでるかと思ったで」
妙な訛りの言葉で話し、顔は照らされた照明でよく見えなかったけれども、
細くすらっとした体つきをしている。私は暫く左右を見渡して、声を発した。
「ここは…?」
「ここは僕のアトリエ。君、セイランの研究室で倒れていたんで、連れてきたんや」
「アトリエ…?」
見ればぐったりとした裸の人形がぎっしりと作りかけの状態でいくつも並んでいて、一瞬ギョっとするほど不気味な光景が広がっていた。私は起き上がって姉と、妹のことを思い出して尋ねた。
「あのっ、私の他に二人女性と少女を見かけませんでしたか?」
「女の子なら、隣に」
私は驚いて振り返った。机に寝かされていたのは紛れもなく妹で、すうすうと息遣いが聞こえた。
「君たち、セイランと何かあったんかー?怪我もしてへんようやし、研究室で一体何が…?」
「わ、私たちあの男に実験台にされそうになったんです!連れ去られて記憶がないけど、お姉ちゃんが危なくて、知りませんか?!名前はジュリア・レイシェン」
「ジュリアの…妹さん…」
男は私の肩をそっと撫でて掴み、優しい声音と悲しそうな顔で告げました。
「いいか、落ち着いて聞いてや。彼女、働いていた研究施設で、遺体で見つかったんや」
「…えっ?…」
「どうやら、暴走した実験体にやられてしもて…もう、亡くなって…」
「うそ、そんなの…信じないわ…だって、だって…!」
私は男にすがりつくように彼の白衣を握り締めて、涙が溢れ出した顔を俯かせた。
「あの…男が…あの男が殺したんだ…うわ、ああああっ」
「お、落ち着いて、!」
「殺してやる、殺してやる!」
どんどんと見知らぬその男の胸板を叩いて、私は泣き叫んだ。
胸の奥が焼け付くように熱く、憎悪が体中から噴き出そうだった。
悲しさと怒りで前が見えず、男は私をなだめるように背中を撫でながら、言った。
「泣いたって仕方ない、泣いては駄目や、男の子やろう?」
私は咄嗟にその言葉が頭に反響して手を止めた。どうやら私を男だとこの人は勘違いしていたらしい。
突然泣き止んだ私に安心したのか、男は今度頭を撫でて優しく笑んだ。
「きっと報われる時が来る。僕が今している研究が君みたいな子達の為に役立つかもしれへん」
「どんな研究をしているの…?」
その質問をした時、急激に男は冷めた声になって、
「死者を…蘇らせる研究…や」
と言った。私は背筋が冷たく凍りつくのを感じて男から離れる。
そして頭に浮かんだのは、セイランが言っていた生死、人間を超えた実験という言葉だった。