三話
ランガーは日常品と、妊婦となったジュリアによい食べ物を買い込んで、両手いっぱいの紙袋を手にして帰宅した。しかしドアにはかけたはずのない鍵がかかっており、ランガーは荷物を一度置いて、
鍵を回した。
ドアを開けて、ランガーはジュリアに声を掛けた。
「ジュリア…?いないのか…?」
ふとダイニングテーブルに視線を落とした。
そこには可愛らしい絵が入ったメモが一枚。簡潔に忘れ物をしたから研究室に戻ると書いてあった。
買ってきたものを置いてそのメモを読んだランガーはどうせ出かけたついでだからと、
迎えに行く為に自身も研究室へ向かって、自宅にまた鍵をかけた。
そして澱んだ空を見上げて歩き出すのだった。
研究室は閑散としていた。年末の忙しい時期なので、研究員のほとんどが休みを取っていた。
今日は会合があったが、ランガーはそれを休んでジュリアと帰宅した。
やや罪悪感やら気まずさがあったが、上着を脱いで靴を履き替え、ランガーは白衣を身にまとった。
ジュリアを迎えに来ただけだったが、研究員の務めを果たして消毒も行った。
いつも自分が使っている研究室は三階で、その行き来はもっぱら階段を使っていたランガーだが、
今日は事情が異なる為、エレベーターを使った。
暖房設備がない研究室内は寒い。ジュリアが長居していないか不安だったが、
やがてエレベーターは目的の三階にたどり着いた。
「…うっ…?!」
扉が開いてすぐ、ランガーは思わず袖口で鼻を覆った。
何やら嫌な臭いがした。鼻をつくその臭いに驚いてランガーは恐る恐るエレベーターから降車した。
そして、足元に広がる赤い海を見つめて絶句する。
「何が…」
側には数人の研究員と思われる人が倒れていたが、顔は残虐的につぶされていて識別できない。
真っ白になりそうな頭でランガーは走り出した。
「ジュリア…ジュリア…!返事をしろ、ジュリア!」
倒れた人を抱き起こしてそれが妻でないことを確認する。
心臓は早く打ちつけていて、今にも意識を手放しそうだった。
一体誰が?何があった?そんなこともぐるぐる巡る。
人が点々と倒れている場所が赤い道筋となり、その終着点はランガーの研究室がつながっていた。
ドアがほんの少し開いている。
ランガーは急いで研究室に入ると、もう一度ジュリアの名を呼ぶ。
「ジュリア!ジュリア!」
ぱたん、と何かが倒れる音がした。
机と机の間から、その様子が鮮明にランガーの目に留まる。
ウエーブがかかった茶色がかった長い金髪が揺れている。そして多量の血液が喉元から溢れ出し、
その美しい髪を染めていった。
完全にそれが倒れた瞬間、ランガーは獣のように叫んだ。
「ああああああ!ジュリアっ!」
這い蹲るように体を引きずって既に事切れたジュリアまで歩き出した。
そのお腹にはできたばかりの子供がいた。男子であれば名前すら決まっていた。
ランガーは慟哭した。
やはり神はあの日のことをお許しでなかったのだと神をも恨んだ。
そしてそんなランガーの目の前に、ふらりと一人の少年が躍り出た。
ランガーはその少年を呆然として眺めて、溢れる涙とジュリアの血液で汚れた顔を上げた。
少年は荒い息を繰り返して、体中返り血で染まり、その胸から無数の管がのびていた。
ランガーは少年を見つめて目を見開いた。
「…くる…しい…、胸が…やけつく…っ」
「お前…ラグナロク試験体の…!」
「…たす…け…」
次の瞬間、凄まじい轟音が鳴り響いて研究室が大きく傾いだ。
そして少年は自分の拳で空けた大きな穴へ深く落ちて行き、ランガーは慌ててその姿を追った。
既に姿は見えなかったが、今の所作からしてこの高さから落ちたとしても平気だろうと強く唇をかみ締めた。行き場のない怒りと憎悪がランガーの背中を駆け巡り、ランガーは再び強く叫び声をあげた。