二話
「聞いたでぇ、ランガー。ジュリアと婚約を交わしたって」
いつものように、けだるげに白衣のポケットに両手を突っ込んでいたランガーは、呼び止められて振り返った。目じりに爽やかな笑顔を浮かべたその青年を見た途端、ランガーは眉根を寄せた。
「マーリス、帰っていたのかお前、アトリエに戻っていただろう」
「さっき馬車で。帰ってくるように頼まれたんや。ほんまに人遣いの荒い人やで、セイランさん。」
マーリスは大げさにため息をついてみせると、ランガーの背中を叩いて笑顔になった。
そして、ランガーの白衣から煙草を頂戴すると、近くのランプから火を貰って煙を燻らせた。
ランガーは突っ込まれた方のポケットに入った手を嫌そうに動かして、
マーリスを見上げた。
「セイラン…というのは、あの空軍の軍師か。確かお前の人形を兵器活用に目論んでいるだとか」
「その通り。あん人はそれだけに飽き足らず、あの研究を試用してみないかと持ちかけてきてな」
「なんだと?」
ランガーはマーリスを睨んだ。マーリスはただ肩をすくめて返す。
「勿論断ったけどな。あの研究はなんせ、人が一人死んでしもたんやからなぁ」
マーリスは壁に煙草を押し付けて、吸殻を投げた。
ランガーは吸殻を黙って拾いあげると、背中を向けて何一つそれから発言しないマーリスを、
気まずい思いで見つめた。
「悪かった…」
「…なんの事?」
「お前の母親のこと、まだ気にしていたのだろう。俺も、あれから全く覚めない悪夢のようだった」
「ふふ、別に気にもせんよ。昔のことやろ?」
マーリスは普段通りの明るい声で返すと、そうそうと思い出したようにランガーに振り返る。
「メルディスと一緒にまた暮らせるようになったんやで。ランガーにも会いたい言うとったわ」
「本当か…良かったじゃないか」
「あはは、ほんまにな」
愛想よく手のひらを振ったマーリスの背中を見つめて、ふとランガーは自分の眼帯に触っていることに気がついて手を離した。遠い昔、彼との間にあった脳裏から一ミリも離れない記憶がそうさせていた。
ランガーは大きくため息をついて、彼が吸っていた煙草をぎゅっと握り締めるのだった。
ジュリアとランガーは、医薬品の研究をしていた。
中でもランガーは幼い頃からこの軍内の研究施設で様々な研究に携わっていた為天才と呼ばれ
その名は今も健在だった。ジュリアは二十歳の頃からこの研究室で働くようになり、三ほど離れたランガーの補佐をする毎日。自身の研究が実を結ばなかったのは残念に思っていたが、
彼女はそれなりにこの生活に充実感を覚えていた。
そして今日は、それをかみ締めるように、研究作業に没頭するランガーの横顔を眺めるジュリアの姿があった。
「ねぇ、ランガー」
「…なんだ?トイレなら今のうちに行ってこい。俺はこの後会合があっ」
「子供が、できたのだけれど」
ランガーは素早くジュリアに振り返った。
とてつもない剣幕のランガーに圧倒されそうになりながら、ジュリアはもう一度言った。
「子供が、できたの」
ランガーは手に持っていたピンセットをこぼれ落として、
人目をはばからずジュリアを抱きしめた。他の研究員からひやかしの口笛が巻き起こったが、
お構い無しにランガーは小さな声で言った。
「ああ、愛している、ジュリア…!」
元々感情の起伏が薄いランガーがこんなに感激しているのはジュリアも初めて見る光景だった。
そして嬉しさからその頬に温かい涙が伝う。
「私もよ、今とても幸せなの、ランガー」
ランガーは仕事が終わるとすぐさまジュリアを置いて買い物に出かけた。
その間二人に目立った会話はなかったが、ランガーがとても上機嫌であることは一目瞭然だった。
軽い足取りで出かけていったランガーを嬉しそうに見つめて、ジュリアはその背中に手を振った。
街は、冬の気配が漂っていた。
肌寒い中、コートの襟を立てて歩き出したランガーはショウウインドウに並べられて商品にぼんやりと視線を遣って、浮かれた自身の姿を確認した。
昔、とても償いきれない罪を作ってしまった自分が、こうして
子供を授かったのはありがたいことだとランガーは思った。最初は浮かれて写っていた顔も
次第に沈んでゆく。
もしあの事がなければジュリアと出会った自分がいなかった。そう考えると複雑だった。
こんな罪人が一端の幸せを享受しているなど、果たして本当によかったのかと。
「ランガー?」
不意に、声を掛けられて振り返った。
視線を少し下げると、自分を呼んだ人物を見つけ出して、ランガーは視線を合わせてしゃがみ込んだ。
前髪ときっちり揃えられたおかっぱ頭の金髪。その前髪に少し隠されていた大きな青色が姿を見せた。
「久しぶり!ランガー!」
「メルディス…久しぶりだな、変わりないか?」
旧友、マーリスの弟であるメルディス・ソルワットは大きく頷いて満面の笑みを見せた。
「お母さんが死んで、お兄ちゃんと離れ離れだったけど今度から暮らせるようになったんだ」
「ああ、マーリスに聞いたぞ。良かったな、また暮らせて」
「うん、今学校の帰りなんだけど、ピアノサボって来たからお兄ちゃんには内緒ね!」
「分かった」
ランガーはいつもは鬱陶しくも感じる子供の存在を少し違ってかんじられて、メルディスの頭を撫でた。艶のある金糸がさらりと揺れて、メルディスはくすぐったそうに笑った。
もし子供が男子であったなら、こんな利発な子が欲しいとランガーは思った。
そして試しに、こんな事を尋ねた。
「なあ、メルディス。もしもお前に弟がいたなら、どんな名前にしていた?」
「えっ?」
「考えてみろ、どんな名前だ?」
メルディスは少し考えて俯いた。ランガーは答えが出るのをもどかしく思いながら待ち、やがてメルディスは笑顔で答えた。
「ロイル、ロイルなんてどう?」
「ロイル?」
「そう、短くて呼びやすいでしょ?」
「そうか…いい名前だ。」
ランガーはそれを聞いて立ち上がった。そうだ、ジュリアを一人で待たせすぎるのも良くない。
メルディスはそんなランガーを見上げた。
「兄貴によろしく言ってくれ」
「うん」
「じゃあな、メルディス」
「また遊んでね、ランガー!」
ランガーはゆるく微笑んでもう一度頭を撫で、
買い物をする為、街へと消えた。
そんなランガーの姿をいつまでも寂しげに見つめて、メルディスは小さなため息を漏らした。
「また、ね」
そして誰に言うでもなく呟くと、帰路を歩き出すのだった。