三話
ロイルは全身に冷水を叩きつけられて目を覚ました。大理石の床の隙間に水が伝ってゆくのを嫌そうに見下ろしたボーマンは、その視線を上げ、蒼穹の瞳を見据えた。
「貴様、あんな乗客が立ち入り禁止の場所で何をしていた?」
ロイルは少し考えるように俯いた。ボーマンは突き出た己の腹を撫で、空いた手で口ひげを落ち着きなく触る。以後もロイルは答えず、従者はもう一度ロイルに水をかけた。
ロイルはやがて俯いていた顔を上げてボーマンを怯えた表情で見上げた。
「や、止めてください…!何をするんです?ただ僕は道に迷ってあの部屋に…」
「部屋にはリネン室と書かれていたそうだが…お前は道に迷ったのか?」
「だ、だってそこなら船員さんがいると思って部屋を聞こうと…本当です、信じてください!」
かたかたと寒さか恐れか分からない震えをあげるロイルを見つめて、ボーマンは舌打ちをした。まだ幼さが残るその恐れた表情は全く何も知らないのは明確だった。しかしながらこんなに粗い手を使っておいておめおめロイルを返してやるわけにもいかず、ボーマンはソファーに体を預けて大きくため息をついた。
「もういい、おい、こいつをどこかに閉じ込めて置け」
「な、何故!僕は何も知りません!お願いだから部屋に返して下さい!」
「うるさい、私がお前を脅したと知れては困る。殺さずにせよ、口止めはせねばなるまい」
「助けてください、ぼ、ぼくは、ぼくはどうしたら」
ぐすぐすとしまいいは泣き出してしまったロイルを二人の従者が無理やり立ち上がらせてボーマンの部屋から連れ出していった。ボーマンは嘲笑してずぶぬれで泣き叫ぶロイルを見つめた。
まだ乾かない大理石の床にベッドのシーツを叩き付けたボーマンは、愉快そうにそのシーツを踏みにじった。
「私にもそういう趣味があったなら、まあもう少しで帰れたものをな。仕方あるまい、痛い目をみて泣きながら帰るんだな」
ロイルは去り際、わんわんと泣き叫ぶのをほんの一瞬やめて、氷のような鋭い眼差しでボーマンを睨んだ。しかし、ボーマンが気づくはずもなく、ずりずりと引きずられるように、ロイルはボーマンの部屋を後にした。
ロイルは自分を引きずってきた従者二人を叩きのめし、濡れた服を脱ぎ捨て、従者の燕尾服を拝借した。それは部屋を出てまもなくのことであったが、ボーマンに気づかれては少し面倒そうだと悟ったロイルは、気絶した従者を先ほどのリネン室に押し込み反対側から物で出口を塞いで閉じ込めておくことにした。濡れた髪をかきあげてボーマンの部屋を睨んだロイルは、ボーマンが何故神経質に自分を拷問したのか考え、腕を組んだ。
(何か悟られては困るものがあるのか…あのリネン室の奥にもたいしたものはなかった…とするとこの船に薬でも乗せている…?となれば荷物を載せた所が怪しいが…)
ぎり、と歯を噛み、ロイルは表情を堅くする。
(しかしこの僕にこんな仕打ちをしてくれたんだ…お礼をしなければ気が済むものか…)
ロイルは腕をたくしあげ、大いに燕尾服を着崩してボーマンを泳がせるべく、身辺の調査に回った。
時刻は深夜。ダンスパーティも終局を見せ、いよいよマグダリアの夜が、終わろうとしていた。
「ボーマン子爵について?」
ロイルは薄く笑みを浮かべ、ダンスから帰った若い婦人の細い指先を取って頷いた。
すっかり夜の雰囲気を楽しんできたのか、ロイルに魅せられているのか。婦人の頬は紅潮し、話を聞くのは容易いことだった。婦人は赤ら顔を隠すためか扇を口元に持っていくと、しずしず答えた。
「あのお方、なんでも軍からお依頼を受けて裏では色々、危ないことをしていらっしゃるとか」
「軍からの…依頼?」
「ええ、そう。あの方のお兄様が軍師でいらして…なんでもわが国の兵器とかを無断で…ですの?ご拝借なさる取引をされているとか…まあお噂でしてよ?」
ロイルは眉根を寄せた。それが本当なら、隣国に向かうこのマグダリアを兵器の密輸入に使用しているのがボーマンの目的であるのは明確。恐らくボーマンは抜けた男のようで、子供一人がうろうろしていても気が立つのかこうしてロイルが捕らわれてしまったのだろう。
ロイルは、ボーマンと話していた男が兵器の輸入に関してなんらかの関与をしていると見て、確信をつけた。これ以上はこの婦人からなんの情報も得られないと思ったロイルは、婦人のなめらかな手を撫でるのをやめ、そっと耳に囁く。
「…後で…あなたさまのお部屋にお伺いしても…?」
「…ま、まあ…よろしくってよ…部屋は202…いつでもいらして頂戴」
そう喜ぶ婦人が踵を返すのを、ロイルは面倒そうに見つめた。何度も振り返ってアピールを繰り返す婦人に手を振り、見えなくなってからロイルは再びボーマンの部屋を目指した。
「事情が分かってしまえばこちらのもの…覚悟しておけ、ボーマン…」
ロイルの処世術がすごくなってきました…。演技しすぎですね…。